キヤノン(株)MRシステム開発センター 所長
 兼(株)エム・アール・システム研究所専務取締役

 




矢野 田村さんは1999年に『電脳空間右往左往』というたいへんおもしろい本をお書きになり、そこで「サイバースペース」という言葉について薀蓄(うんちく)を傾けておられます。私も『インターネット術語集』を書くとき、ずいぶん参考にさせていただきました。今日は、言葉としての「サイバースペース」論議から始めましょう。
 「サイバースペース」という言葉が世間に流布するきっかけになったのは、ウィリアム・ギブスンが1984年に書いたSF『ニューロマンサー』で、訳書(ハヤカワ文庫)は1986年に出版され、舞台としてチバが登場することもあって、日本でも話題になりました。
田村 「サイバースペース」に関する本を書こうと思ったのは、当時「サイバー何々」という表現が急速に増えてきたからです。「サイバーシティ」、「サイバーマネー」、「サイバーショッピング」など、ほとんど「サイバー」を「ネットワーク」と同じ意味で使っていました。それも、「インターネット」とほとんど同義語ですね。
 私は、画像処理やバーチャル・リアリティ(Virtual Reality=VR、人工現実感)分野に関係してきたのではっきり覚えているんですが、「サイバースペース」という言葉は、1990年代初めには「バーチャル・リアリティ」の意味で使われていたんです。それがどうしてコンピュータ・ネットワーク、インターネットになってしまったのか、その過程を分析してみると、いろいろ興味深いことが見えてきました。
矢野 「サイバースペース」のもともとの意味と、歴史的経緯をきちんと整理しておきたかったから、あの本をお書きになったわけですね。
田村 書く以上は、言葉の意味や由来も徹底的に調べてみようかと。新聞にはたいてい「サイバースペース=電脳空間」という注がありましたが、これは『ニューロマンサー』の日本語訳に出てくる言葉です。ここの「電脳」は、中国語の「コンピュータ」じゃないんです。もともとギブスンは、特殊電極を直接、脳に接続してネットワーク上のデータを幻想的に体験させる空間を「サイバースペース(Cyberspace)」と呼んだんですね。これを翻訳者の黒丸さんが「電脳空間」と訳した。「電極を脳に」だから「電脳」なんです。
 その後、1989年にバーチャル・リアリティが登場した。風変わりな眼鏡や手袋をつける姿はSF的ですよね。この疑似空間体験はドラッグ・カルチャーっぽいし、ギブスン信奉者たちには「これぞ、サイバースペースだ!」ということになった。ギブスン自身もこのころにはそれを認めるような発言をしています。
 ところが、コンピュータ・ネットワークが進化し、インターネットの社会的影響が論じられるようになって、インターネットこそサイバースペースだという風潮になった。ギブスンの原典では、もともと「世界中の全データが積み重なった」ネットワークといった表現もあります。これは現実にはインターネットしかありえないので、それはそれで正しいんですけどね。
 つまるところ、バーチャル・リアリティとインターネットは、それぞれギブスンが創造したサイバースペースの別の側面を具現化しているのだと思い至りました。一方は、ビジュアルで身体感覚を伴う「3次元映像空間」、もう一方は、いろいろな情報交換や商取引が行われる「電子化社会空間」です。
矢野 前者のサイバースペースを「第1のCS」、後者を「第2のCS」とも呼んでおられます。言ってみれば、「サイバースペース、2つの顔」ですね。田村さんはギブスンの一連の著作に目を通して、ギブスンは『ニューロマンサー』の前に、一度だけではあるが、「サイバースペース」という言葉を使っていると指摘されています。
田村 1982年の短編『クローム襲撃』です。
矢野 私も確認しました。訳者は黒丸氏とは別人ですが、この中には「電脳空間」の訳はありませんね。
田村 黒丸さんも中国語でコンピュータのことを電脳というのはご存じだったかと思いますが、ここはそうじゃないです。「コンピュータ空間」だったら、ネットワークの意味は入ってきませんから。
矢野 1990年にアメリカで開かれた「サイバースペース会議」での議論をもとに編集された『サイバースペース』(邦訳:NTT出版)という本があり、そこにはギブスンも寄稿していますが、刊行の時期、そのボリュームからいって、今後サイバースペースを考えるときの古典的位置を占めるものだと思います。このころはバーチャル・リアリティ的な意味が強くて、ネットワークはあまり強調されていません。
田村 少しはありますが、まだインターネットは今ほど広まっていませんでしたからね。
矢野 「第1のCS」から「第2のCS」へと重心を移すきっかけの1つは、1990年にアメリカでハッカー取り締まりが行われたとき、FBIの取り調べを受けたロックバンドの作詞家、ジョン・バーローが、インターネット上に出現しつつある「ネットワーク・フロンティア」を「サイバースペース」と呼んだことです。それを『タイム』や『サイエンティフィック・アメリカン』などの雑誌が取り上げ、「インターネット上の情報空間=サイバースペース」という呼び方が定着していきます。ジョン・バーローは、1996年にインターネット上の「わいせつ」で「みだら」な情報を取り締まるためのアメリカ通信品位法(CDA)が成立したのに反対して、「サイバースペース独立宣言」というラジカルな文書を発表したことでも有名です。
 サイバースペースをめぐる2つの顔は、インターネットがいよいよ発達して、そのなかに3次元(3D)の世界が出現するようになれば、いずれはいっしょになっていくでしょうね。
田村 かなり粗っぽく言えば、「第1のCS」は感覚的・官能的で、右脳的機能の擬似体験の場、「第2のCS」は、論理的・理知的で、左脳的機能の代理体験の場です。話をおもしろくするために対立的に述べましたが、これからどんどん統合されてくるでしょう。それがあの本のテーマで、『電脳空間右往左往』というタイトルには、右脳と左脳の間を行ったり来たりするという意味も込めたんですよ。ま、私たちの世代は、この新技術の登場にオロオロしているという意味でもありますが(笑)。
矢野 なるほど、それは気がつきませんでした。

田村 日本における「サイバースペース」という言葉の定着ぶりですが、『現代用語の基礎知識』にこの言葉がはじめて登場したのが1996年です。『イミダス』には、1997年度版から「@電脳空間。コンピューターグラフィックスなどで表現され、擬似体験できる空想上の空間。Aコンピューターネットワーク上につくり出される仮想的な世界」という2つの意味をきちんと収録していますが、それまでは@だけの記載でした。
矢野 新語を多数取り入れたことで話題になった岩波の『広辞苑第5版』には、「サイバースペース」という言葉が収録されていません。
田村 どうしてでしょうね。「茶髪」や「どたキャン」よりは長く生き残りそうだし、「ワールドワイドウェブ」や「チャット」よりは、一般紙によく出てくると思うんですが。
矢野 言葉談義のついでに、言わずもがなのことをつけ加えておくと、サイバースペースのサイバー(Cyber)は、ノバート・ウィーナーが「動物と機械における通信・制御、情報処理の問題を統一的に取り扱う総合科学」として提唱した「サイバネティックス(Cybernetics)」に由来しており、「サイバー」というのはギリシャ語で「舵取り」の意味です。
田村 制御工学の原点ですね。生体機械系ということで、ここからロボットや改造人間を意味する「サイボーグ(Cyborg)」も出てきたんです。ギブスンもその意味で使っています。
矢野 サイバースペースの存在を日本人に強く印象づけたのは、1998年暮れの「ドクター・キリコ事件」ではないかと、僕は思っています。12月15日、東京の女性が宅配便で受け取った青酸カリを飲んで自殺し、送り主だった北海道の男性も自殺した。それがインターネットを通じて入手した青酸カリだったと報じられて大騒ぎになりましたが(後に直接インターネットを経由したものではないことが判明)、このときジャーナリズムがとった態度は、自らの「発見」に対する驚きでした。記事や社説に「インターネットに深い闇」とか「死への意図を抱えた共同体」とか、「ネットの暴走」とか、そういう言葉が頻繁に登場して、ややヒステリックでした。
田村 私はそういう話を聞くと、「捏(ねつ)造」とまでは言わないけれど、ジャーナリズムの作為を感じます。もともとある種の危険性を感じていて、何か書いてやろうと思っていたところへ格好の事件が現れた。「それっ!」という感じですね(笑)。以前はバーチャル・リアリティだって、ああいうのをつくったらオタクが増えるとか、ビデオとゲームの影響で犯罪が起こるとかさんざん書かれました。最近ならメル友、出会い系サイトですね。そういうものに警鐘を鳴らしたい人たちが、ここぞとばかりに書く。もちろん危険性がないとは言いませんがね。新聞やテレビが取り上げたときをもって市民権を得たと言うのなら、「サイバースペース」という言葉が市民権を得たのは、まさに1998年ですね(苦笑)。
矢野 そういうことなんだなあ…。
田村 青酸カリだけじゃなくて、爆弾の作り方のサイトがあるとか、アダルト系が問題だとか。新しいメディアにはアダルト系は必ず現れ、そのうち飽きますよ。ビデオもそれで普及しましたからね。そういう意味じゃ、記者さんも懲りもせず短絡的で、ワンパターンだなと。
矢野 そういうことですかね(笑)。当時、ある新聞の社説にこういう記事が載りました。「インターネットのホームページを、『自殺』というキーワードで検索すると2万件以上の情報が入手できる……。『殺人』で検索すると約3万4千件の情報が入手でき、『四十八の殺人技』など刺激的な内容が目につく」と。ネットワーカーの間では、「この『四十八の殺人技』というのは、おそらく『暮しに役立つ48の殺人技』というパロディーサイトのことではないか」と話題になりました。「サイバースペース大発見」にともなう"微笑ましい"エピソードとして記録に値するかもしれません。
 IT革命の掛け声とともに、「サイバースペース」という言葉があっという間に人口に膾炙(かいしゃ)したのは間違いないですね。
田村 間違いない。新しいメディアが誕生するときは、「これで世の中が変わる」とオーバーに言う人がいれば、一方で、危険性を指摘する有識者もいる。これは常にあることなんですね。
 たしかに今は、矢野さんのおっしゃる「サイバーリテラシー」というような考えが生まれなきゃいけないことは事実です。でも、ワールドワイドウエブができて、インターネットがみんなのツールになって、まだ10年もたっていないんですよ。最初のブラウザの「モザイク」が日本に上陸したのが1994年です。これまでの他の技術と比べても、驚くべき速さでインターネットは進化しています。多種多様なコンテンツが入るし、それをだれもが引き出せる世界。だから、モラルが一番つくりにくい世界でもあるんですけれど。



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