矢野 今日はまず、21世紀の幕開けを象徴するようなニューヨークテロ事件をめぐる話題から入りましょう。アメリカ連邦議会図書館や非営利組織「インターネット・アーカイブ」などが協力して作っている「セプテンバー・イレブン」というサイトでは、9月11日に関するすべての記録を世界中から収録して、公開しています。
黒崎 ちょうど9月11日は、3カ月に1回、朝日新聞夕刊に書いている時評の掲載日だったのですが、その夜10時にはテロ事件が起きてしまったから、読んだ人は少ないでしょう。僕の記事は3時間くらいしかもたなかった(笑)。夜中に自分の記事を見ましたが、「なんて、どうでもいいこと言ってるんだろう」という気になっちゃいました(苦笑)。それから1週間くらいは、自分のやってることがいかに無意味かという気分に陥りました。
 あの事件は、世界中の思想家にとっての試金石でした。事件直後にどんなコメントができるか。あらかじめ準備されていることについて発言できても、まったく予想もつかなかった事件に関して「これはどういうことか」と言えるかどうか……。ノーム・チョムスキー、スーザン・ソンタクなど10人くらいが、すぐにコメントを発表していましたが、僕はこういうときに見事なことを言えるのがほんものの思想家だ、と思いましたね。僕だって、聞かれるのが怖かったですよ(笑)。
矢野 ジャーナリストも例外ではないですね。「セプテンバー・イレブン」は「インターネット・ライブラリー」を作ろうという試みで、事件に関する論評や写真、図版など、マスメディアから個人のものまで、世界中のホームページに収録されたあらゆる情報を検索エンジンで集めて、いったんハードディスクに取り込んだあと、公開しているものです。
黒崎 編集は人間が関わらず、機械的に行っているのですか。
矢野 機械的ですが、編集の枠組みは決まっています。例えば、「アサヒ・コム(asahi.com)」の情報が時系列に出てくる。「ニューヨークタイムズ」も同じです。個人については、冒頭で「事件に関するホームページを立ち上げている方は、知らせてくれれば収録します」と案内をしているし、自分のホームページを勝手に再録されては困るという人には、「申し出があれば削除する」とも書いています。検索エンジンで無差別に情報を集めるけれども、検索に引っかからない仕組みも提供しているわけです。
 このサイトがすごいのは、世界貿易センタービルに旅客機が激突する瞬間の写真から事件当日の新聞紙面まで、ビデオも含めて、あらゆる情報が集まっていることです。それと、ある人がいったんホームページにアップしたが後で削除した写真も、このサイトには載っている可能性があります。「放っておけば陽炎(かげろう)のようにはかなく消えてしまうインターネット上のデジタル情報を記録し、保存しておくことが、学者や歴史家ばかりではなく、いまやすべての人に必要である」とホームページに書かれています。
黒崎 なるほど、すごいですね。
矢野 「紙によらずに、デジタル情報そのものとして、知る権利を守るばかりでなく、思い出す権利(Right to Remember)も保障したい」というねらいだそうです。
黒崎 「忘れる権利」は保障してくれないんですね(笑)。
矢野 本人がすでに消去した情報も収めるというのは、過去を記録し、保存することですね。「地域図書館と同じように、このコレクションは無料公開されたドキュメントから構成」され、「IDやパスワードで保護されたページは含まれていない。ライブラリーに登録されたくないように設定できるし、すでに収録されたページを削除することもできるから、著作権上の問題はない」という見解です。いわゆる「フェアユース(公正使用)」だというわけです。
 しかし、1つの事件のあらゆる記録を歴史にとどめようとするこのウェブの試みは、あまりに圧倒的で、なんだかしんどさも感じます。
黒崎 「なんだか」どころじゃないですよ(笑)。そのウェブに集まったデータを研究しようとしても、一生かかっても読みきれませんしね。
矢野 だけど、うまく検索すれば、ほしい情報が得られるというのは、たしかに便利です。9月11日の事件に関してあらゆるデータを収録するというのは、人間の精神的営為の結果としてのテキストや写真、映像を選別せずに、ただひたすら保存するということですね。あとから検索すればいいのだから、とにかく何でもいいから保存しようという壮大な試みではあります。
黒崎 相対的にはね。昔、NHKで鈴木健二アナウンサーが教授に扮して登場するクイズ番組があって、「1日の情報量は・・・万とも・・・万とも言われています」と膨大な数字をあげる決まり文句で始まりました。僕はそれを聞くたびに、テレビに向かって怒ってましたよ(笑)。「それってどういう意味? じゃあ、この部屋にある情報っていくつ?」と聞きたくなる。
 情報というのは、客観的にみれば、あたかも角砂糖のように、そのへんに転がっているように見えるけど、実はこっちの意図によって、無限に数えられる。たとえば、僕がいまはめている腕時計に関しても、無限の情報があるんです。
 もし僕が金属の専門家であれば、腕時計に使われている金属について無限の情報を話すことができるだろうし、文化史研究家なら、腕時計とは何かという文化史的なコメントもできる。ということは、情報は決して1個2個と数えられのではなく、我々のインテンション(意図)とともに発生するものなのであり、だから情報量というのは無限なんです。
 9月11日の情報を無限に集めるということがあるのなら、「9月10日に関してもそういうサイトは可能ですね」と言えるわけですね。テロ事件の前日、9月10日についても情報は無限にあるのですから。「いや、私は9月9日を知りたい」と言う人もいるかもしれない。それも無限でしょう。9月11日はテロ事件が起った日で、関心が高いから情報が無限に集まるのはたしかだけれど、9月10日に関してもある種の関心をもてば、無限に情報が集まる。もっと言えば、9月10日の5時5分の情報だって無限だろうし、5時5分9秒だって……もうやめますけど、これも無限でしょう。つまり情報の量というのは客観的に数えられるわけではなく、こちらの意図によって決まるということです。

黒崎 実は、似た問題を考えたことがあります。あらゆる分野の完全なデータベース化が進行しているが、これはどういう欲望から生まれているのか、と。 『哲学者クロサキの写真論』(晶文社、2001年)のなかで、デジタルカメラが一般化するに従って写真の「決定的瞬間」はどう変わるか、という話を書きました。いま、カメラについてはデジタルとアナログの違いというところで論争していますが、そんなことは本質的な話ではない。「動画と静止画の関係がどうなるか」というテーマこそ本質だと思います。
 集団マグナムの中心的存在だったH・カルチエ=ブレッソンが、『決定的瞬間(Decisive Moment)』という写真集を1952年に出しましたが、この「決定的瞬間」というキーワードが、「写真の世紀」と呼ばれる20世紀の半ば以降からの指針となった。とめどなく流れ去る「時間」を、ある瞬間で切り取り定着させることで、時間の流れの全体や、事件や状況の本質をみごとに表現する。写真とはそういうメディアであり、その瞬間を切り取らなければ、現実は消えてしまうに任せるしかなかった。そして、その一瞬を切り取るのは、カメラマンの意思によって支えられていたわけですね。  ところが、デジタル・テクノロジーを用いれば、起こったことのすべてを記憶するのが可能になり、その中から必要に応じて決定的瞬間を取り出すことすらできる。こうなると「決定的瞬間」の意味がまったく違ってきます。
 これまでも、ビデオで動画として記録することはできましたが、ビデオテープはアナログだから、切り取りたい瞬間を探すには手間がかかった。ところがデジタル映像は、ハードディスクに記憶させておけば、あらゆる瞬間、あらゆる時間に対して等距離かつ高速にアクセスできる。この特長を駆使すれば、「セプテンバー・イレブン」のように、「過去を完全に所有する」という欲望が現実化してもおかしくないのです。もっと言えば、「過去をいつでもリファー(refer:照会)できる私」という人間観、世界観が生まれるかもしれません。
 決定的瞬間というのは、等価値をもつ一瞬一瞬の連続をこま切れにした中の1コマ、などでは決してないと思います。むしろエネルギーの集約。ロマンチックに言えば、写真を撮るという行為自体、ある瞬間に物事を記憶させることなんです。撮る人のエネルギーが最大限に集約されているのが決定的瞬間。「この瞬間こそ、この事件、この事象の本質を現しているぞ」という1枚ですね。そこにある種の集約化が行なわれることによって、はじめて写真の力が生まれる。人によっては、「ビデオの連続から、切り取ってきたのと変わりないじゃないか」と言うかもしれないが、「ほかの写真とは緊張感が違う」と評価する人だっているかもしれないんです。
 写真に対する主観的でノスタルジックな評価、感じ方が、僕は大切だと思っています。ビデオムービーが高性能になれば、たとえば海外旅行でダーッと撮って、そこからいい瞬間だけ切り取って写真にするのが当たり前になるかもしれません。つまり静止画が動画の一部として扱われる。同時に、動画は静止画の単なる集合体になる。そういう関係に落ち込んだときに、写真は死ぬのではないか。つまり、写真を本質的な表現たらしめているのは、撮影者の決断の中にまさに決定的瞬間があるからだ、と思いたいわけですよ。
矢野 デジタル・テクノロジーによって、写真がただの記録の一形態に埋没してしまうのではないか、と。
黒崎 ノスタルジックかもしれないが、そういう我々の感性は、いまここで議論している「あらゆる出来事をとにかくすべて保存するんだ」という欲望、その意志とは遠く、相反するものではないかと考えるのです。
 これまではテクノロジーの制約があったから、データを保存することも制約されていました。たとえば本をつくるとき、文書ができたあとも、校正、印刷と何段階もの工程が必要だし、お金もかかる。だから、保存する文書は、保存されるだけの意味や価値があるものだと選別されていた。そのような選別を行ってきた人間が偉いのでもなんでもなく、メディアテクノロジーの制約があったからなのです。ところが、テクノロジーの制約がどんどんなくなって、データを取捨選択する必要がなくなった。
矢野 たしかに、1枚の写真を撮るときのカメラマンの意志と、僕らがデジタルカメラで写したものから適当に1枚を切り取るのとはまるで違う。
 いまの話で連想したのは、映画の製作手法です。映画は、あらかじめ監督が絵コンテをつくり、それにあわせて撮っていくのが普通でした。フィルム編集というテクノロジーの制約があったからです。この編集というのが難しい仕事で、1本のフィルムにいったんはさみを入れてしまうと、直すのにたいへんな手間がかかる。だから、監督が描いた絵コンテに沿って編集していた。ところが、この作業がデジタル化されて、コピーは簡単にできるし、切り方を間違えても修復ができるようになった。映画の世界ではそれを「ノンリニア編集」と言っていますが、これによって映画の作り方そのものが変わってしまいました。
 10年ほど前に「ポストプロダクション」が登場したのも、その表れです。映画を企画し、監督や役者を選んで撮影に入る「プリプロダクション」とは別に、ポストプロダクションは、撮り終えたあとの編集段階を担当する。ところが、あとから編集作業で工夫できるなら、どんな撮り方をしてもいいじゃないかと、撮影方法にも変化が出てきた。たとえば女優と男優が話している周りに複数のカメラを配置していろんなカットを撮っておく。それらの映像を見ながらいいシーンをつないで、せりふを撮影時点のものと変えてしまうことすらできるわけです。
 これは、映画表現がもっていた文脈をつくりかえてしまう作業です。黒崎さんは著書で、私たちは現実空間とサイバー空間の両方を生きているが、それらの空間全体がガラガラと脱文脈化している、と指摘しておられますが、この映画の作り方は象徴的です。

黒崎 私には、パソコン通信によってあらゆる人が書き手になるだろうと言われた90年代初頭が思い出されます。
 それ自体は素晴らしいことだろうが、一方で、もし一度に5万通ものメールが届いたらどうなるのかと思ったものです。東京ドームには約5万人が入りますが、そこで「あ、ホームランを打ちました!」という瞬間に、5万人の観客のつぶやきや感想をいっぺんに聞くような感じじゃないかと(笑)。「すべてを保存する」というのは、このどよめきが全部記録できるようになったということですね。
 以前は、べつに5万人の観客の感想に意味がないから記録しなかったのではないし、解説者のコメントに意味があるから記録したわけでもない。テクノロジーの制約があったから、全部を記録できなかっただけです。しかしいまは、5万人分の感想が保存できるし、それを一瞬にして聞ける。ただの思いつきや編集を経ていない意見でも何でも、すべてが保存可能です。デジタルの力によってあらゆるものが保存できるという状況下で、我々にとって記憶とか、過去とは何か、その意味の改変が起こって当然です。  草創期の映画も、エイゼイシュタインらがモンタージュ手法などを開発することで制作形式が確立された。おそらく、フィルムという物質の性質や、カメラの性能ゆえの技法でしょう。つまり、これまでの映画技法は、テクノロジーと一体で確立されたものだった。現代から見れば、このレベルかと思うかもしれませんが、テクノロジーの制約があったからこそ名作が生まれ、映画の黄金時代を築く基礎になったのです。しかし、そういう制約がなくなった現在、いままでの考え方は崩壊してしまう。
 音楽もそうです。西洋音楽では「調性音楽」という考え方が生まれ、ソナタ形式などの厳密な規則に縛られていた。でも、その制約があるゆえにモーツァルトのように非常に自由な音楽が生まれた。19世紀に入って調性音楽は不自由だから壊そうと、ワグナーあたりが無調にしたり、12音で構成したりしましたよね。音楽は自由度を増し、素晴らしいものができるように思えたけれど、実は、このとき、いったん音楽は崩壊したのです。
 文章を書くときも、決められた枚数にしなければと思うから、苦労してここを削り、あっちを削りとやっていく。写真家にも、「この瞬間をいま押さえなければ」、「露出を間違えたら終わりだ」という緊張がある。つまり、制約があるからこそ、エネルギーが集約される。結局、どの世界でもある種の制約があって、その中でなんとか乗り越えようとするから、エネルギーが生まれるのだと思います。  デジタル・テクノロジーは、そういう人間の主観的なエネルギーの集約を解放してくれるものではあるが、果たして解放することでほんとうに優れたものが生みだされるかというと、それはまだ未知数ですね。
矢野 昔は「この光景は一生忘れたくない」と思うと、じっくり景色を見て記憶にとどめようと努力しました。ところがカメラの出現で、そういう努力をしないで、あとから写真を見ればよくなった。画家もカメラで撮っておいて、アトリエで写真を参考にしながら描いたりします。
 これは自分の記憶がカメラに移ったということですね。さらにコンピュータ時代に入り、あらゆるものが外部に記憶できるようになった。そうすると、個人個人の肉体に蓄積されたり、精神の回路を通過したりして、自らの内に蓄えられた記憶というのはどうなるのでしょう?
黒崎 身体化された知恵ということですね。
矢野 たしかに記憶を外部に保存するのは便利だし、知的生活も豊かになったように思うけれど、逆に、どんどん外部の記憶装置に吸い取られて、自分の中には何も残らないという事態になるかもしれない。
黒崎 そうかもしれません。どんどん記憶装置に「吸い取られていく」という表現は、まさにぴったりですね。モバイル・コンピュータを持ち歩いていると、本当に自分の記憶を機械に委ねている感じがします。そのうえ、ハードディスクが吹っ飛んだときの絶望感といったら……(笑)。「自分」が失われたという感じすらしますからね(笑)。
 しかし、もっと遡ってギリシア文明のころ、文字が現れたのを哲学者プラトンはものすごく忌み嫌ったんですよ。「文字なんかできると、人が自分の頭に蓄えておくべき記憶が、全部外に流れてしまう。人間が堕落する」と否定しました(笑)。文字というのも、ある種のメディア・テクノロジーだから、人間の頭の中にあるものを外部に定着することで、記憶を確実にすると同時に、人の負担を軽減する。そういう存在は人の魂をおとしめ、心を劣化させるとプラトンは考えたわけです。文字でさえそうなんですから、その後のあらゆる記憶媒体は、たしかに我々の中にあるべき記憶や魂を外側に出すと考えても不思議ではありません。
矢野 大相撲の取材で、土俵そばの記者席から観戦したことがあります。ある対戦で、両者が同時に土俵の外に落ち、すぐに勝敗がわからなかったとき、僕は、無意識のうちに、ビデオのスローモーションで確かめようとしたんです。テレビなら必ずリプレイをしてくれますから。ところが、自分はいま国技館にいるわけで(笑)。
 ビデオのリプレイを見られると思い込んでいる自分に驚きましたね。一期一会というか、瞬間瞬間の場面と対決するように訓練されていないんじゃないか、と気づかされたわけです。
黒崎 無意識にリプレイを見ようとするのは、ある意味で時間の流れを細分化、断片化することによって、過去として定着させる行為でしょう。記憶を過去化する1つの方法。つまり、過ぎていく時間に対して、杭を入れて引き戻すわけですね。野球でも、「ホームランのシーンをもう一回見てみましょう。あー、入ってます」とやりながら、ホームランの豊かさの余韻を味わっている…のかなあ、べつにホームランが豊かだとは思わないけど(笑)。
 そういうふうに、我々がものごとを記憶し、確認していく行為とは何なのか、たしかに不思議です。9月11日にかかわるすべてのデータを、人類的な記憶として保存しようという欲望や、動画から静止画を切り取って、あとから使おうという欲望とも共通する何かがあるような気がします。



      「わからない」ということを悟るのが「無知の知」

      なさすぎる根源的な危機感
      骨董やアンティークにはまりっぱなしの日々


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