中村 結局、みんながほしいのはネットワーク上の賑わいなんです。人の気配がするという場が一番盛り上がる。そういうコンテンツが常に求められてきたのですが、私はこれまでのコンテンツ史上、「Yahoo!オークション」が一番すごいと思う。自分が参加してみてよくわかるのですが、あの「人いきれ」には、細胞が破れるような興奮がありますね。
矢野 なんでそんなにハマってるわけ?
中村 新鮮なんですよ。Yahoo側が用意したのは場とシステムだけで、ユーザーがどんどんルールをつくっていく。しかも真剣。お金がからんでいるから、現実世界のリアリティーがくさびのように打ち込まれている。そういう非常に真剣なやりとりをするところにハマっているわけ。私が最初に参加したのは、定価13万円のブーツが欲しくて、3000円から値を付けた。私は1万2000円ぐらいで降りようと思っていたんだけど、「魔の4分」があって(笑)、締め切り4分前になるとみんなダーッと入札するんですよ。それで、つい我を忘れて2万円で落札した。すると3分後には、もうメールがきたんです。 「落札ありがとうございます。私は○○○○でございます。支払いはこのようにお願いいたします。配送はこのようにさせていただきます」と。驚きましたね。このブーツの出品者は、朝から晩までこれやってるプロではないんですよ。なのにこのレスポンスの速さ。
 こういう丁寧な文章の定型は、会員間で自律的に確立されてきたそうです。すばらしいじゃないですか! 売り手から買い手にトラブル無く気持ちよく品物を流していきたい、という切実さが自分のためのルールをつくる。新聞紙上では、いろいろトラブルも報じられていますが、私の見るかぎりサイバースペースのこんなマジな賑わいは、はじめてかもしれませんよ。
安斎 僕は参加しないで、見ているだけだけど、ネットロア的な経済の仕組みができつつあるような気がしますね。
矢野 オークションをのぞいて、参加者の口汚いやりとりにびっくりして不快になったおぼえがあります。「Yahoo!オークション」ではきちんとマナーが守られているんですね。それは驚きだけど、ほかのオークションではどうなのだろう。
 サイバースペースの構造や特性を理解する能力「サイバーリテラシー」を、僕がなぜ強調するかというと、これからのIT社会をよりましなものにしたいという気持ちが強くあるからですね。それには科学技術と経済、倫理、道徳がどんな関係があるかについても考えないといけない。だから、あえて苦言を呈したりするんです。ネット上では何でもあり、何でもしていいというのでは良くないと思う。
安斎 サイバーリテラシーが、いままでの文字に対するリテラシーと大きく違う点は、「動いている」点だと思います。文字に対するリテラシーはすでに固定化したシステムで、方法論が確立されている。しかし、サイバーリテラシーというのはサイバーメディア自体が動いているから、それに対するリテラシーが確立しにくい。個々人のサイバーリテラシーの総和が、メディアを動かすとも言える。
 「Yahoo!オークション」でもいろんなルールがあって、あるところではノーマルな基準でも、あるところでは全然通じないのが現状です。その基準に対して自分はイエスかノーか、いちいち考えないといけない。いくつもあるルールを自分の責任で選ばないと収拾がつかないのですね。ネットワークのリテラシーを磨くというのは、そうやってルールやリテラシーを選ぶ能力をユーザー自身が育てていくことだと思います。

矢野 ところで連画の著作権は誰にあるわけですか。連画をやる人は、どういうふうに対価を得ているんでしょう?
安斎 僕らはとくに考えないでやってきました。関心がないにも関わらず、この10年間、最も話題になったのは著作権ですね。ネットオークションにも共通しますが、著作権についても自然にルールが生まれてきたところが非常におもしろいんです。あらかじめ「連画の著作権とは何か」と決めるのはやめておこうという地点からはじまった。何も決めないところに著作権の意識が生まれてくるのなら本物だと思います。
 例えば芭蕉のやっていた連句の世界は先に「五七五」があって、次に「七七」が付きますね。さらに「五七五」が来る。でも、あとからの「五七五」は、最初の句と関連性を持っちゃいけないんですよ、前に進まないといけないから。文化ってそういうものなんですね。そうやって考えると、僕が描いた絵にだれかが連画する場合、僕と同じような発想で描くのはルール違反になる。
矢野 むしろ発想の切断をする。でも、次の人は触発はされるよね。
安斎 触発されても戻ってはいけない。それが本当の意味での著作権です。人がやったことをもう一回繰り返していたら、文化は足踏みしちゃう。どんどん違うものをつくらなきゃいけないという視点で見れば、著作権の仕組みというのはうまくできていると思います。どんどん違うものが出てくるわけですから。
矢野 安斎さんのデジタル画像の上にだれかが連画として描いたものは、まったく違うもので、その痕跡がないほうがいいわけですか。
安斎 例えば僕がネコの絵を描いて、だれかがそこに魚をくわえさせる。次の人は魚からもう1回ネコを連想したらおしまいなんです。次は骨にしようとか、それぞれの人が必死で考える。そうじゃないと、嫌なんですね。論文でも同じで、僕が書いた論文を別のだれかが引用して、それを自分のものであるように言っていたら嫌ですよね。まさにそれが著作権の話なんです。同時に連画をいかに活性化するかという仕組みでもある。
 もう1つ、先ほどおっしゃったお金の問題がありますが、連画を財産権の側面から考えると、また話が変わってきちゃうんですね。「カンブリアンゲーム」でもわかるように、Aという絵から影響を受けた絵は2つできて、さらに2つ……というふうに、ツリー(樹形)構造になっていくんですね。知識というのもそうだけど、ある人が発見した知識は多様に解釈されることで枝分かれし、ツリー構造になる。それをだれかが「自分のものだ」と1本の枝を握ってしまったら、その先の枝葉は育たない。そういう意味で、連画のシステムを知的所有権とか財産権として考えてしまうと、突然、窮屈になってしまうんです。
 だから、「他人と違うことをやりましょう」という意味での著作権はオーケーだけれど、「これは僕の枝だよ」って言っちゃったら終わり。この問題は著作権の多重性ともかかわっています。著作権法という1つの法律の中で、財産権と自分のアイデンティティーの問題がいっしょに語られている。それはおかしいと思うんです。「自分でやったものは自分のものだから、君はほかのことをやってくれ」という人格権の問題と、「自分のものは僕の財産だから、取らないでくれ」というのは、すごく違うことではないか。
 極論を言うと、知的所有権というのは僕はないと思います。文化の根っこを押さえてしまうような知的所有権があったら、まずい。ツリーの枝葉に対する権利は認めてもいいけれど、根っこをだれか1人で押さえちゃいけないと思うんですね。
中村 著作権というのは、文化をつくる当人が考えたものじゃないですよね。
矢野 もともとは出版社の発想ですね。
安斎 コピーライト(出版権)ですよね。
中村 私たちとしては新しくつくったものがほめられて、次のチャンスを与えられるのが一番うれしい。つくっちゃったものをどう守るか考えるのはすごく面倒ですよね。
矢野 だけど、生活をしていくための対価はどうするの?
中村 NTTの依頼で大きいプロジェクトを3つぐらいやりましたが、お金はいっぱい出してくれました。
安斎 僕らはスポーツだと思ってやってるんですよ。スポーツに対しても、企業が助成してくれるでしょう。あるいはもっと単純に、街角でパフォーマンスをしていると、みんなが投げ銭をしてくれたりという方法。だけど、矢野さんがおっしゃった「カス」に対して、こちらから対価を求めるのはまずいかなとも思う。
 ただ、連画というのも、たまたま僕らのセッションだというばかりではなく、次の世代のいろいろな文化のひな型という意味もある。そういう意味で、連画的なシステムをつくることでどうやって経済が発展するか、真剣に考えなきゃいけないとも思います。
矢野 「カンブリアンゲーム」のように大人数が参加した場合の対価がどうなるか、というのも気になります。
安斎 「カンブリアンゲーム」で絵を1枚出した人が、それによって何かを得られるか、答えはないですよね。
矢野 そこで何かを得ようとすること自体、ほとんど不可能だよね。
安斎 不可能ですね。ただ、いまは著作権の期限は50年になってますが、それを例えば5時間とか5日間の期限とすれば何とかできるかもしれない。
中村 それじゃ、賞味期限(笑)。
安斎 その場で感動してくれた人がお金を払うみたいなシステムにはなるから、期限を区切るのは正しいんじゃないかな。
矢野 著作権は紙に印刷された作品が普及するときにできた概念ですね。活字にしても絵画にしても、自分の著作物を独占的に使用する権利というのが著作権と考えた。そのおかげで、作者は著作物という情報の価値で食えてきたわけだけど、ネットワーク社会になって、かえって情報では食べていけなくなるかもしれない。情報のやりとりがP2P(Peer to Peer)というふうに個人同士になると、ほとんど経済価値が生まれないからですね。そういう問題を考えるのに連画というのは、非常におもしろい素材だとも言えますね。
安斎 いまの話を聞きながら少し寂しい気持ちになりました(笑)……。要するに、連画というのは天才を否定するスタイルだと思います。1つの才能にすべてが集中するのを否定する。しかし、100人の力を1ずつ集めて100になるかというと、そうではない。連画でも突出した才能が必ずあって、それこそサーバー型のように1つのソースに人が群がることはどうしても起こります。それがないと文化は死んでしまうとも思います。
 じゃあ、これから連画をどうしていくか。もしかしたら、自ら連画を否定するような形になるかもしれないけれど、ネットワーク社会の中ではその方法を考えないと、とんでもないことになりますね。

矢野 初期のMacintoshについていたマルチメディア・ソフト、ハイパーカードを開発したビル・アトキンソンという有名なプログラマーがこんなふうに言っています。「プログラムというのは、たくさんの人間でつくるわけではない。私の中につくりたいものの具体的なイメージが生まれて、それを膨らませながらつくるものだ」と。本当に創造的な活動というのは、こんなふうに個人の直感から発するんでしょうね。何人かが集まればできるものではない。だから天才の存在価値がある。
 もちろん、「Linux」のように、みんなが知恵を出しながらつくっていくこともある。そういうことはネットワークができてはじめて可能になったわけで、これはこれで素晴らしい。連画というのも、ネットワーク上のみんなの力から生まれるのでしょうが、一方で個人の力というものも絶対に必要だと思います。
安斎 連画はじつは個人作業なんですよ。人と共有する空間を持っちゃうと絶対に駄目です。以前、1枚のキャンバスにみんなでいっしょに描くシステムをつくりましたが、全然おもしろくなかった。自分が描くものが匿名になってしまうし、自分のメッセージと他人のメッセージが混ざってしまう。「カンブリアンゲーム」みたいに、1枚の紙の上で自分と他との関係を明示しながら連画するスタイルだと、燃えるんですけどね。
 1つ1つの絵を描く瞬間というのは、非常に孤独な作業だし、自分がほめられたいんです。みんながほめられたいのではない。そういう意味では、連画というのは天才が突出するのを許容するシステムでもありますね。
中村 創造力や自分を鍛えるシステムでもあるんですよ。かなり個性が鍛えられます。
安斎 連画に類似したコラボレーションのスタイルもあるけれども、そういうのはたいてい相手とうまく同化する方法とか、相互を調整しあうメソッドがあって、何とかうまくやっているんです。しかし、連画にはそういう方法は必要ない。
中村 いま、「連画の十年」(せりか書房より刊行予定の『メディア・プラクティス』所収)という原稿を、ふたりでテキストの連画形式で書いていますが、この10年、私にとって連画はだんだん単なる作品ではなく、手法とか、手段とか、考え方とかになってきたというのが実感ですね。



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