矢野 全盲の造形作家・光島貴之さんとの「触覚連画」について、朝日新聞の「ねっとアゴラ」に書いていただいたことがあります。その最後で「ブロードバンドへまっしぐらの電子メディアの進歩は文字よりビジュアル、静止画より動画、そして立体方位環境へと突き進み、いずれは嗅覚や体感まで動員することになるだろう。情報をどんどん加算し、ひとつでも多くのセンスを加えていくことがリアリティーだという考え方に対しては、表現者としては常に疑問をつきつけておきたい」と書いていますね。非常に重要なことに言及されていると感じました。
安斎 連画の10年の流れというのも、どんどん複雑なシステムになり、大掛かりなプログラムになっています。ある特定の装置を持っていないとできないものもでてきた。そこで1回リセットしたいと思ってはじめたのが「カンブリアンゲーム」なんです。連画はデジタルであるからできるという発想ではじめたにも関わらず、「カンブリアゲーム」のように、じつはアナログでもできるとわかった。そこで、僕らのやっていることにとって本質的に大事なものは、もっと素朴なところにあるかもしれないと気がついたのです。
 光島さんとの出会いはものすごく大きな事件で、驚くことが非常に多かった。例えば女性の乳房の形についての話になったとき、彼が突然「その話は僕には微妙だ」と言うんです。つまり、「触覚的な見ること」と「視覚的な見ること」は対象とのかかわり方がまったく違うと。「見るとはどういうことか」というような原初的な問題に気づかされて、僕は驚きました。僕らは「見る」という感覚が自分の中にあるから、そういうことに疑問をもつことすら忘れている。「形を把握するとはどういうことか」、「いい形、悪い形とは何か」という問題もそうです。そういうことを感じるきっかけになったのが彼なんです。
中村 私たち創作者から見れば、「ものを見る」ということと「ものをどう捉えるか」ということはイコールなんですよ。その点は光島さんにとっても同じなのね。彼は機能的に目が見えないんだけど、それをふつうなら「見える」「見えない」と、言葉上の問題に置き換えて言いますよね。だけど、私たちの場合、最初から光島さんと「これはどう見えた?」という会話が自然にできたのね。それは彼に「ものをどう捉えたか?」と聞かれていることだ、とよくわかっていたから。
 じつは、私はインターネットで世界中のアーティストを集めて連画をやったあと、じゃあ次はどこに行けば、もっと文化の違う才能に会えるかと期待してたんです。ところが、意外にもすごい才能は日本にいた。視覚を閉ざされて触覚の世界に生きている光島さんが、ものすごく新鮮なものの捉え方、見方をもっていたんですね。
安斎 「ねっとアゴラ」で書いたように、いまは情報をどんどん足していけば、いろいろなことが広がると思われていますよね。しかし、じつはそうじゃないという感覚を光島さんから教わったんです。例えば、芭蕉の俳句は5+7+5だから、17文字。これをデジタルに表示すると、全角で34バイトになる。じゃあ、芭蕉の句は34バイトの情報量かというと、そうじゃない。外側にある膨大な日本語のシステムから選び取られた世界なのです。
 いま「ヒトゲノム」の解読が進んでいますが、「ヒトゲノム」も芭蕉の俳句みたいなもので、生物が40億年かけて進化してきた試行錯誤のカスだと思うんです。カスというより逆に宝石と言ってもいいかもしれないけれど。どっちにしても「ヒトゲノム」の解読によって、人間のすべてを解明しようというのは、宇宙人が芭蕉の1句から日本語のすべてを解明しようとするのと等しいことだと思うんですね。つまり、自分の中に潜んでいるDNAには、40億年かけて捨てられてきた生物のさまざまな情報の残りカスがすべて入っている。僕は一生をかけてそれを追体験しているような気持ちにフッと襲われるんです。そう考えてきて、じゃあ、僕の中に捨てられてきたけど、自分がまだ気づいていないものは何かというと、じつは視覚を失った光島さんがもつ感覚がいちばん近いのではないかと気づいたんですね。

矢野 前回の黒崎政男さんとの対談で、「セプテンバー・イレブン」というアメリカのホームページの話題が出ました。9月11日の同時多発テロ事件に関する情報を全世界から検索エンジンでかき集めて、公開しているサイトです。
 これについて彼は、「9月11日のあらゆる資料を集めることで何がわかるのか」とおっしゃった。「あらゆる情報を集めたからといって、それは逆に、何も集めていないに等しいのではないか。なぜなら、その情報は我々が知りたいという視点で切り取ったわけではないのだから」と。つまり、デジタルによって膨大な情報を集めることができるようになったけれど、それでいったい何が本当にわかるのかという問題です。
中村 オランダのメディア・アーティスト 、アッケ・ワグナーが94年に「ヒロシマ・プロジェクト」というサイトを立ち上げました。原爆に関して、ネット上にある情報をすべてリンクしたのね。彼女にとってそれは「ネットワーク上のアートだ」と。「ああ、なるほど」と思いましたね。
安斎 「ヒロシマ・プロジェクト」と「セプテンバー・イレブン」が決定的に違うのは、彼女は自分でリンクを張った点だね。検索ロボットが集めて来るのとは中身が全然違ってくるでしょう。
中村 その違いはあるでしょうね。いままで、広島に関する情報はジャーナリストや専門家の手で一度編集されたものを、私たちは読んでいた。だけど彼女がやったのは「(原爆投下は)正しい」という意見も「正しくない」という意見もリンクしてあえて等価に扱って私達に示している。これは編集作業とは一味違いますよね。そこから何を読み取るか、どう判断するかというのは個人の問題なのね。だから、かなり個人の考えや解釈する力が鍛えられると思ったし、リンクして活きるネットワークの特性に着目した点が、「ネットワーク上のアート」としてとても新鮮で力強かったですね。
安斎 「ヒロシマ・プロジェクト」はそれ自体メッセージなんですよ。「セプテンバー・イレブン」は情報が足し算だという発想ですよね、そこにあるものがすべてなんだと。しかし、やはり、引き算された、すでに無い情報が非常に大事だと僕は思う。引き算された情報は、当然、検索エンジンにはひっかかってこない けど、そういう工学的に対象にしづらいところを解読する作業が、一番大事だと思うね。

安斎 僕らは以前、NTTサイバースペース研究所の木原民雄さん、東大の安田浩教授(先端科学技術研究センター)といっしょに、「絵ことば」というプロジェクトを立ち上げました(「絵ことばと通信システムの基本構想」情報研報98年4月に発表)。そのとき、工学と僕らアーティストとの根本的な方法のずれが、非常におもしろかったんです。
 技術者の考えの根本には送信側と受信側で共通のコードがあれば、あらゆるメッセージが送り合えるという発想がありますね。共通のコード、つまり言語さえつくれば、絵でコミュニケーションができるだろうという考えです。「絵ことば」も当初、そういう発想から出発しました。そこで、10人ほどのイラストレーターに、「絵でメッセージを伝達するときに最小の単位となるような単語を、ひとり100個作ってほしい」と依頼しました。単語が一通り出揃ったところで、安田先生が中村さんに、宿題を出したんです。
中村 「午後3時にアメリカに行く」という文章を絵にしなさいって。
安斎 単語のディクショナリーはできていたけど、それぞれの言葉には時制もないし、文法も決まっていない。
中村 最初は軽い気持ちで、「10でも20でもオーケーですよ」って引き受けたけど、どんどん落ち込んで……(苦笑)。ふだんの自分の創作で、文章から絵を描いたことがなかったんです。作った絵にタイトルをつけたり、ある部分のイメージを言葉で説明することはあったけど、言葉にピッタリはまる絵をつくったことはないんでね。
 小説のさし絵を描く画家なら、言葉から絵を起せると思います。ただ、さし絵にしても、文章のある部分のニュアンスを伝えていると思うんです。だけど、安田先生は厳しい(笑)。私がつくった絵言葉を見て、「中村さん、『午後3時』はどこに表現されてるの」「『ニューヨーク』ってどれ」。ちゃんと言葉と絵が符合するようにつくってほしかったんですね。しかし、できの悪い生徒で(笑)、私はそういうやり方ができないタイプなんです。
安斎 僕らは、これは何かが違うと気づいて、人造言語を目指す方向とは別に、ディクショナリーを使い、文法もなにもないところでメッセージを交換し合うというセッションを試みました。リミックス系のミュージシャンとイラストレーターや研究者を交えて。
中村 本当は 一流の料理人も入れたかったんですけど(笑)。
安斎 このセッションはものすごくおもしろかったですね。「40億年の孤独」とかいろんなタイトルをつけた絵ができるんです。このセッションで、僕らはメッセージを交換し合っていたように見えますが、じつはコードを送っていたんですね。「僕はこの絵をこういうふうに使いました」というふうに、潜在するコードを相手に見せていた。相手からは「君はこれをこういうふうに使ったのか」「こういう文法をつくったのか」という驚きが返ってきて、それがコミュニケーションになる。
 つまり、じつはアーティストがやりたいのは、ある既成のシステムを用いてメッセージを伝えることではなく、システムをつくるということだと思うんです。言語とか文法そのものをつくりたい。あらかじめコードを与えて「さあ、メッセージを伝えなさい」では、絶対に何もできないのです。
 僕らアーティストは見えないものをつくりたい。見えないものが潜んでいる氷山の一角を送り合うことによって、氷山の下の部分を類推し合うような感じですね。
 漢字の誕生も一種のメディア・アートだと思うんです。例えばある天才漢字作家が「木」という文字と、「日」という文字をパッと組み合わせて「中村さん、これ何だと思う」って見せるわけ(笑)。そうすると「木もれ陽かな」なんて答える。そこで漢字作家は「いや、朝、地平線の木の向こうから太陽が昇るから『東』だよ」と言うと、「おお、すごい」って思いますよね。僕らがやりたいアートというのはそういうものだと思うんです。
矢野 以前、小林龍生さんがそういう話をされていました。
安斎 小林さんのように、グローバルなコードをつくるというのは非常に大事だと思います。しかし、僕らにとって、コードを決めちゃうというのは犯罪的行為(笑)。「固定化したコードの中で表現してね」ではまずいんですよね。いかにコードをつくり変えるかが僕らの仕事。
中村 ブロードバンドだって、まだ何も決まっていないからおもしろいかもしれない。いまはとりあえずテレビや映画を配信しようとか言ってるだけだけど、それじゃつまらないですね。「じゃあ、何かやってみて」と言われたら、私たちは遊ぶと思いますよ。
 だって、次々と新技術は現れるけれど、最新鋭の飛べない飛行機を見ているよう。その点、オークションのほうが新しい仕組みや動きが目撃できて、まるで空を飛ぶバスみたいにうんと飛躍的な気がするんです。矢野さんもネットワーク・オークションに身を投じてみてください(笑)。
矢野 そうですね。一度、その熱気にふれてみる必要がありますね。今日はたいへん刺激的というか、根源的という意味でラディカルなお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。連画はネットワーク・コミュニケーションを説く鍵だということがよくわかりました。



      コピーとオリジナルの差異が消失するデジタル世界
      いまオーラがあるのは「生きているふりをする」ロボット

      「結果」はプロセスの残りカスか?
      サイバースペースのなかで、どうすれば空気感染できるか
      ネットワークが「100匹目のサル」現象を促す

      「連画」セッションは次世代の文化のひな型
      個人の創造力とネットワークの力が融合


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