ナビゲーションを読み飛ばすにはここでエンターキーを押してください。
COMZINE BACK NUMBER
「人生というのは、かしこくなる過程なんです」 第11回 文筆家 池田晶子さん


人が生きているとはどういうことかを考えるのが哲学
 

−−

哲学というと、私達には「難しい」という先入観がありますが、一方で書店では哲学書が非常に良く売れています。生き方を模索している人が多いせいかもしれません。

池田

「哲学が難しい」というのは、ある意味、間違っていません。ただ「難しい」と思う根拠が違っている可能性はあります。例えば哲学を勉強しようとして、哲学書の本を読む。すると専門用語が出てきたり、翻訳が良くなかったりして読んでも分からない。だから「哲学は難しい」ということになるんです。確かに、哲学の難しさには、こうした聞き慣れない用語など言葉自体の難しさもありますが、その「考え方」も難しい印象を与えているのかもしれません。
今、「生き方」とおっしゃいましたが、生き方の本は「こういうふうに生きれば、こうなる」という人生論になってしまうことが多いんですよね。でも哲学は、基本的に、そういうものではありません。「そもそも人が生きている、それはどういうことなのか」を考えるのが「哲学」。普通とは逆側から物事を考えることなんです。そういうたぐいの「問い」を考えたことがないという点では、哲学は難しいという印象を持つはずです。
みんな「良く生きる」ことを考えようと思っていますが、そもそもその「生きる」ということがどういうことか、分かっているのか。哲学は「生きる」ことが謎だというところから問いかけるわけです。
普通「生きていたら、やがて死がくる」と思うでしょ? でも哲学の場合は、その「死」というのは、何なのか分からないじゃないかということにこだわるんです。死ぬのは当たり前と思うでしょう? 確かに当たり前ですが、その当たり前のことの不思議さ。なぜならば、我々は今を「生きている」わけですから、死んだことがない。だから「死」を知らない。だから考える。当たり前と思っていて考えていなかったことを考える―それが哲学です。
哲学がブームだという背景には、「楽に生きよう」「より良い生活をしよう」という時に、哲学書を読めば何とかなるんじゃないかという期待があるようです。でも、そうじゃない。「楽に生きる」以前に、そもそもその「生きる」ってこと自体をよく分かっていないわけですから。「一体どうなっているのか」という素朴な問いから哲学は始まります。
つまり哲学とは「考える」ことです。その行為にたまたま「哲学」という名前をあてているから、名前だけが一人歩きして、すごいものがあるように思われてしまっていますが、本来、自分で考えるということを放棄してしまっては、哲学は始められません。

自分がここにいることだけが、一瞬ごとの確信を生む

池田

「今ここにいる」という、最も当たり前で単純なことを、いかに分かっていないかに気が付けば、まず「なぜだろう」と考えますね。そうすると、生き方に対する考え方も当然、変わるはずです。例えば、人が死ぬのが当たり前と思っていたのが「いや、死ぬということは存在しないんじゃないか」って考えれば、生き方も変わってきますよね(笑)。
「何も分からない」一方、「今ここにいる」ことは、厳然たる事実なわけですから、そこに一瞬一瞬の確信が生まれます。自分が何も分かっていないことを知っている「無知の知」の力強さが出てくるわけです。
死ぬのが怖いと悩む前に、それについてどれほど分かっているのか、を考える。哲学って、そういうことなんですよ。
ですが、考えたって、何の得があるわけでもありませんよ(笑)。「考えれば得をする」と思っている方も多いかもしれませんが、それは間違いです。考えることは、世の中の損得とは全く別のこと。考えることで、本人は納得と確信を持って人生を生きられるわけですから、それが最も重要なんです。

 

−−

「得」という言葉が適切かどうかは別として、そうして考えてみることに意味があるとすれば、本人が確信や納得を持てることだ、ということですか?

池田

そのことだけ、と言ってもいいですね。私は基本的に、考えたいから考えているだけですが(笑)。二次的な意味としたら、哲学は社会に対する一種の解毒作用があるのでしょう。例えば、みんなが思い込んでいて、それについて考えようとしないことに対して「本当にそうなの?」と水を向けるような作用はあります。そうやって世の中の思い込みを見抜くことができれば、人生を生きる上で強いことです。
多くの人は、自分の分かる仕方でしか物事を分かろうとしていないと思いますが、それでは何も分かったことにならない。だから「分からない」ことに気付いて、考えようとすべきなのに、人は「分かる」ことばかりを求めているんです。
今いわゆる「自分探し」がブームですが、そもそも、自分が何者かであるはずだ、ということ自体が思い込みの可能性があります。つまり、あなたが「私」と言っている時の「私」とは何なのか、という疑問です。一般には「私」は「誰か」であるはずだと思っているから、それがなくなると思って不安になる。
でも、その「私」って何でしょう? みんなが求めているのはアイデンティティですが、哲学が考える「私」とは、アイデンティティ以前の「私」ですから、それが何者でもないのは当たり前のことであって、不安を覚える必要はないんです。私だって「自分が誰か」なんて、全然分かっていません(笑)。
私は、日本人であって、女であって、という属性を持った「池田晶子」を「やっている」と意識しています。こういう属性以前の「私」の本質というものは、「nobody」、「誰」でもない。これを知っていると強いですよ。

より良く生きることがすなわち「かしこい」こと
 

−−

インターネットで誰でも簡単に自己表現ができるようになって素晴らしいという見方がありますが、それを「とんでもないこと」とおっしゃる池田さんの言葉があります。今の情報化社会と呼ばれているものに対して、どのようにお考えなのでしょうか。

池田

「情報」というものは、どんどん変わっていくでしょう? でも、2000年前のソクラテスの言葉は、今読んでも古くない。それは人間の本質的な言葉だからです。
今の情報化社会は、言葉が非常に浪費されてしまっています。よく通信料金が安いことを競う広告を見かけますが、これは言葉が浪費されていることの象徴的な出来事だと思います。
以前は、言わなくちゃいけないこと、本当に伝えたいことは、自分の足でその場に行ってでも伝えていました。そのくらい言葉には価値がありました。言葉を安売りしてはいけません。それは自分を安売りすることに通じます。そのことをみんな忘れてしまっているんですね。
では、情報化社会といわれる現代に対して悲観的かというと、そういうわけでもありません。私の本を読んで下さった若い読者が「非常によく分かる」といって、手紙を下さいます。人間の中には、本当の言葉に反応する部分があるんでしょうね。

 

−−

哲学をするとは、疑う、懐疑的に生きることでもあると思うのですが、日常生活において何もかもすべて疑って生きるというのは、すごく勇気のいることだと思います。そういった中で、なぜ哲学をし続けられるのでしょうか? その衝動はどこから生まれてくるのでしょうか?

池田

人間の精神の逆説がここに生まれるんですが、「疑うからこそ、信じることができる」。疑い続けて、確信を得る。そこで、初めて信じることができるわけです。哲学が宗教と異なるのは、宗教は疑う前に信じることが必要な点です。
つまり哲学すること自体が、より良く生きることなんです。それは手段ではなくて、「そのもの」です。人は「知る」ことによって「かしこく」なるわけだから。せっかくなら、かしこい人間でありたいですよね(笑)。
「かしこい」というのは知識の問題ではありません。勉強して、知識を詰め込むのではなくて、一つの事柄を自分で疑って、吟味して、納得して、確信を持つことが「かしこい」ということではないでしょうか? あえて言えば、人生は、かしこくなる過程。それが良く生きるということ。そう言うと、道徳的な意味合いに聞こえるけれど、そうではなくて、「自分にとって、より良く生きること」ですから。
人って、世の中の損得で考えるから、どうにかして得なことをするのが、プラスだと思っている。本当は大損しているはずです。考えずに楽をしたり、それを人に預けたりしても、結局、自分が損するんです。


インタビュア 飯塚りえ
池田 晶子(いけだ・あきこ)
文筆家。1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。専門用語によらない哲学実践の表現を開拓する、気鋭の哲学者として注目されている。著書に『考える人』(中央公論社)、『死と生きる・獄中哲学対話』(新潮社)、『残酷人生論』(情報センター出版局)、形而上時評『考える日々』シリーズ全3巻(毎日新聞社)、『2001年哲学の旅』(新潮社)など多数。
撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]