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人が生きるために欠かせない『必須音』というものがあるんです
第13回 国際科学振興財団理事・主席研究員 大橋力さん

脳の発達を促した聴覚

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大橋さんは、脳と感性について研究をされる科学者であると同時に、音楽家としてもご活躍されています。そうしたフィールドをもとに、「音」を科学的に検証されていますが、私達にとって「音」とは一体どういった役割を持つものなのでしょうか?

大橋

人間にとって重要なリモート・センサーに、視覚と聴覚があります。視覚というのは主体的で、自分である程度操作できる。「まぶた」を閉じれば環境からの視覚情報の入力を拒むことができますよね?
しかし耳には「耳ぶた」なんてものはありません。私達は母親のお腹の中にいた時から、そして眠っている時も、絶えず周りから押し寄せてくる音を受け入れる生活を送っています。だから聴覚は、一時も休みがないという点で、心臓や肺と一緒なんです。もちろん聴覚が使えなくても人間は生きていけます。しかし、私達を取り巻く環境を情報としてとらえる際に、聴覚は特に重要な役割を果たしているといえます。

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なるほど。しかしそれほど重要な「音」との関係を私達は忘れてしまっているような気がするのですが。

大橋

実は聴覚の発達によって脳が発達したという仮説があるんです。
ハ虫類、たとえば恐竜が跋扈(ばっこ)していた時代に、我々の先祖である小さなホ乳類が活動しようとすると、どうしても恐竜が眠っている夜に活動することになります。夜は暗いから、視覚ではなく聴覚に頼るしかない。聴覚は単なる空気の振動から情報を得ようとするわけですから、非常に複雑な情報分析が必要になる、それが脳の発達を促したというのです。

知覚できない音の影響

大橋

一方、類人猿や霊長類が、アフリカの熱帯雨林やその周辺の森林環境の中で進化してきた可能性が、最近、非常に濃厚になってきました。

その熱帯雨林と砂漠とを比べてみると、熱帯雨林の自然環境、特に音環境は、非常に複雑なんです。つまり情報環境が複雑だということですね。そのような場で霊長類が進化したということは、私達の遺伝子は、熱帯雨林での生活に最も適合するように仕組まれていると考えることができます。

だからこそ科学技術文明は、私達の遺伝子と最も適合する、擬似的な熱帯雨林環境を作り出してきたといえるわけです。「これしか食べられない」という制約を持つ生き物がほとんどなのに対して、人間は驚くほどいろいろな種類の物を食べます。それは、熱帯雨林には豊富な種類の食べ物があったからです。そしてその状況は、まさに今のスーパーマーケットやコンビニエンスストアと同じです。お金を払うという違いこそあれ、豊富な食材がいつでも手に入る熱帯雨林と同じ環境を私達は作り出してきたという見方もできるのです。

しかし肝心な「音」の環境を作るのは、忘れてしまった。「食」については文明ごとに成熟してきたといえますし、「音楽」や「舞踊」も維持され、進化してきた。でも「音」環境はほとんど忘れられてきたに等しい。

この場合の「音」というのは、聴こえる音だけではありません。私達人間が聴き取れなかったり、五線譜で表現することのできない「音」も含まれます。

人間が音として感じ取ることができるのは、1秒間に約20回の振動つまり20Hzから、よく聴こえる人で2万回の振動つまり20kHzです。15kHz位になると、ほとんどの人が、何かがあることは感じても、その音の高さの変化などは分からなくなります。ところが、そうした聴き取ることができない知覚できない空気振動が、人間にとって必要だということが分かったんです。

そもそも私が音環境を気にするようになったのは、1970年代前半から80年代の後半に筑波大学環境科学研究科に所属していて、いわゆる「筑波病」が問題になったころです。外国の一流機関に決して劣らない素晴らしい環境を提供され研究生活に入った人達が、次々と自らの命を断つ……。飲み水や食べ物など物質の中にその原因となるものが見つからない以上、残された可能性として、その環境を形成している情報に何か不具合があるかもしれないと、皆、漠然と考えていたんですね。しかしそれが何だかは分からない。そんな謎を抱えつつアフリカの熱帯雨林にフィールドワークに行ったら、一発でその謎が解けてしまいました。

熱帯雨林は、とにかく美しく高密度な情報、特に高密度な音に溢れた世界で、「これが極楽だ」と実感できる場所だったんです。でも、考えてみればそれは当然のことでした。森の中で進化してきた私達の遺伝子は「森」の環境を極楽と設定し、そこに生きる時に適応負荷が最小化し、快感が最大化するように作られているわけですから。


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熱帯雨林にあった情報の何かが、筑波に不足していたと。

大橋

そうです。それが、森の中で聞いたさまざまな動植物が作り出す高密度な「音」だったんです。聴こえる音だけでなく、人間が知覚しない「音」の中に、人間の健やかな生存に必要な何かが含まれていたんですね。

例えば、私達は、食べ物から摂取するエネルギーがなければ生きていけません。それは昔から分かっていたことですが、しかしそれだけではだめだということも判明しました。ビタミンの発見です。あるかないか分からないほど微量な物質が、人間の生死を分けるものとして存在していると分かったわけです。私達が生きていく上で必要不可欠な「必須栄養素」の発見です。

そこで私は、我々を取り巻く環境にもそうした必須の情報があるのではないか、人間にとってビタミンのような役割を果たす「必須音」が存在するのではないかと考えました。

私はミュージシャンでもありますが、ちょうど10枚目のLPをレコーディングしようか、という時にいわゆる「CD-LP論争」が起きました。

実際に良い条件で聴き比べてみると、22kHz以上の聴こえない高周波をカットしているCDと100kHz位までの高周波を記録できるLPとでは、音色に明らかな違いがある。LPの音の方がぐっと良いんですね。それを経験的に知ってしまったので、これを本格的に研究してみようか、と思ったんです。

レコード制作の現場では、カッティングとかプレスといったLPを作る工程ごとに名人芸があって、それによって音が劇的に変わっていくことも知りました。カッティングエンジニアの腕によって、レコードの売れ行きが大幅に変わることがあるくらいです。そういう人達が「CDはだめだ」と言う。私の感じていたところと同じです。その違いを見つけてやろうと思ったんですね。

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それが高周波にあったと。

大橋

そうです。高い周波数、人間が知覚できない20kHz以上の超高周波音には、人間の快感の回路を刺激する効果があったんです。私達は、高周波を含んだ音とそれを取り除いた音とを聴いた時の脳の生理的な反応を、ポジトロン断層法という厳密な方法で計測しました。すると、この超高周波を含んだ音を聴くと、脳の奥にある脳幹、視床、視床下部を含む脳基幹部の活性が驚くほど上昇することが分かりました。反対に、高周波をカットした音を聴かせると、脳基幹部の活性は低下しました。この部分は脳の中では一番原始的な、それだけに生物の生死に携わる重要な部分で、普通の聴覚刺激を受けた時に活性化する部分とは全く違います。さらに脳基幹部の活性と連動して、前頭前野など美や快感をつかさどる脳の部位が活性化を示したのです。その他の生理指標でも、この知見を裏付ける結果を得ています。

面白いのは、この非知覚高周波だけを聴かせても、脳が反応しないこと。それどころか脳基幹部の活性は低下してしまう。聴こえる音と聴こえない音との両方がないと、脳は活発に働かないのです。

また、知覚できない超高周波を含む音は、それを含まない音よりもより快適に感じられ、より大きな音量で聴こうとする行動を導くことも分かってきました。

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私達は、防音性にこだわったり騒音基準などを設けて音を規制する、もしくは排除することに目を向けていましたが、むしろ「音」は私達が生きていく上で、欠かすことのできない存在なんですね。

大橋

こうした実験を通して、我々は自分達が「音」に対して何らかの栄養要求性を持っていたと気付かざるを得ませんでした。つまり「必須情報」という考え方が必要だろうということです。これらの実験結果をまとめてアメリカ生理学会の公式論文誌に2000年に発表したところ、大きな反響が今なお続いています。熱帯雨林には豊富に存在していながら現在の都市環境に著しく欠乏している「知覚できない音」が、脳基幹部の活性をコントロールしていて、それが十分に与えられなかったり、取り除かれたりすると、脳基幹部の活性が著しく低下してしまう。一方、最近の知見によれば、脳幹を中心とする脳基幹部の活性が低下することによって、生活習慣病、精神や行動の障害、発達障害などのいわゆる「現代病」が引き起こされることが分かってきました。音環境が人間の健やかで快適な生存と大きくかかわっていることが否定できなくなってきたんです。

文明化の歴史の中でその重要性が忘れ去られてきた「音」ですが、私達を取り巻く情報環境を見直す一つの材料として、もっと見直さなくてはいけないと思いますね。

インタビュア 飯塚りえ
大橋 力(おおはし・つとむ)
国際科学振興財団理事・主席研究員
筑波大学講師、放送教育開発センター教授、千葉工業大学教授、ATR人間情報通信研究所感性脳機能特別研究室室長等を経て現職。芸能山城組主宰。著書に『群れ創り学』『仮面考』『情報環境学』『人間と社会環境』『音と文明』ほか。作品に群芸「鳴神」や「翠星交響楽」「輪廻交響楽」「交響組曲AKIRA」など多数。
人間の生に必要な高密度な音環境 

撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

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