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衣服は自分の存在を表す手段です。
第19回 立教大学文学部教授 北山晴一さん


自身の肉体と自然に境を作る衣服

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私たちは、今、当たり前に「服」を着ています。衣服が身体を物理的に守る意味を持つのは明白としても、衣服はすでにそれ以外の意味を持っていますね。

北山

衣服には3つの機能があると考えています。まずは、純粋に生理的、物理的な機能。怪我を避けたり、暑さ、寒さを防いだりするために身を覆うものとしての衣服です。
二つ目は、自然と人間界との「境目をつくる」という機能です。大昔から、人間にとって自然と自分達をどう区別するかはとても大事なことでした。しかしその「自然」は、外側にのみ存在しているのではありません。人間の体自体が、自然に属するという考えがあったからです。昔の人にとって、突然病気になったり、生理的な反応を起こす「体」は、訳の分からない未知のもの。そこで、衣服を着ることで、自身の体と自然とを区別しようとしたのです。香水や化粧、更に刺青や瘢痕と言われる顔や体への彫り物なども、自分達がその「体」をコントロールし、体を文明に引き寄せようとする意味合いがありました。自分の体に人工的な手を加えることによって、人間の体を自然のものでなくて、人間世界のものだと確認していたのです。私は衣服のこうした機能を「文明的な機能」と呼んでいます。
三つ目が社会的機能です。以前は、集団ごとに生活のさまざまな規則が定められていましたが、衣服もその規則に基づいて、形や色、素材について厳密に決められていました。つまり衣服は、社会的な属性を示すもので、そこでは個人が自分の自由意志で衣服を着るということはありませんでした。

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それが変化して、今のように誰もが自由に衣服を着られるようになったのはいつ頃なのでしょう?

北山

衣服を選ぶ自由というのは、個人主義の台頭と大きな関わりがあります。
個人主義以前は、個人は共同体に埋没していて、一人一人の人生は全体にとって意味をなさなかった。それが近代に入る少し前、個人の人生に意味があるという個人主義の認識が広がり始めました。そこでは自分の人生を自分で決める、つまり自分の人生は自分で守らなくてはいけないのです。これは人の自我にとって非常に大きな転換です。
「封建制度の社会から人間は解放された」と言いますが、「解放された」というのは一面的な見方であって、逆に言うと、共同体が個人の責任を取らない、ということ。自分の人生の責任は自分で持たなければならなくなったのです。そこで私達は、周囲とどんな関係を持つか、社会の中で自分はどのような役割を持つのかを常に考えざるを得なくなりました。衣服もこうした状況の中で、それまでとは違った意味を持つようになりました。衣服が、個人の存在を表象する道具になったのです。

北山

服を選ぶこと自体は非常に些細な行動ですが、実は社会の中で自分をどうやって位置づけていくかという問題と重なっています。服を選び、それを着るという行為は、社会の中でどこに自分を置くのかという意志を示すものでもあるわけです。
これを「身体表象」という言い方をしますが、私達は自分の存在、身体というものを社会の中でどうやって表現するかという行動を、服によって実現しているとも言えます。

 

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そうして考えると、単純な服選びや流行、ブランドブームなどが、「風俗」というだけではない、個人の根本に影響を及ぼしているのですね。

北山

そうです。そして、衣服が他者と自分を結びつける道具であるならば、つまりそれはアイデンティティの問題に繋がります。
今、しばしば「アイデンティティの危機」という言葉を耳にします。「自分が何者であるか分からない」という人がたくさんいます。本当は「自分が何者か」なんて誰にも分からないものなのですが、今の社会は「自分を分からなければいけない、本当の自分を確立しないといけない」という強迫観念を持っています。

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そうした問題と今の社会の衣服へのアプローチには、何か繋がりがあるようですね。

北山

自分のアイデンティティをどう確立し表現するか、という問題が、今ほど熾烈な形で、日々自分の行動を左右してしまう状況はかつて無かったと思います。そうした時代では、自分を表現するという役割を担った衣服は、非常に重要な意味を持つようになりました。暑さ、寒さをしのぐという物理的な問題は二の次になり、自我の問題と衣服、つまりは身体表象の問題が直結するようになりました。衣服の社会的機能の新たな展開です。

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今、プチ整形などが流行っています。衣服が皮膚の延長と考えると、それも一種の身体表象ということでしょうか。

北山

昔だったら仮面をつけるとか、化粧を厚く塗るとか、顔の造形を変えるのはたいへんだったし、美容整形にしても最近まで大がかりな手術と決意を必要としていたわけですが、今は「プチ整形」などと言って簡単にできるようになった。衣服やアクセサリーと同じ感覚です。整形もまた、自分のアイデンティティをどうやって外側に向けて表現していくかということに結びついているんです。整形をした人が「自分だけが満足すればいい」と言いますが、あれは真実ではないでしょう。自分がそうなったことを、社会の中で認めてもらわなければ済まない。頭の中には、社会の視線が入っていて、自分がどう見られているのか常に比較しているはずです。
衣服も身体加工も、根底には、同じようにアイデンティティの問題が横たわっています。
現代は、精神的なレベルでの自己確立ではなく、それこそ身体加工も含め、商品を購入する、ものを消費することによって自己確立をやらざるを得ないという面もあります。衣服はその最たるものです。
では、何が作られ、何が売られているかと言えば、結局イメージなんです。今売られている「モノ」からイメージを除いたら、何の意味もなさないものになってしまう。イメージがあるから商品として成り立っていると言ってもいいでしょう。なぜなら、イメージ商品、例えばブランド商品は、自分のアイデンティティを社会に向けて表現していく行為を効率的に実現してくれるような品物だからです。だから高くても買われることになるわけです。

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今、「自分探し」という言葉がありますが、ブランドブームや、プチ整形の底辺に「自我の確立」への強迫観念があるというのは興味深いですね。

北山

身体表象や衣服が自己確認の方法になったのは、最近の150年か200年程。しかし、その間に「自己確立、自己確認」は、それ自体が人生の大問題になってしまいました。一方で私達は、自分の表現する自己に完全に満足できなくなってしまっています。それが衣服への執着、さらに整形へとシフトして自分の存在を表現しているのですね。衣服が担っていた機能は、さらに拡大しているのです。

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衣服は、私達が普段考えている意味を遙かに超え、その人の存在を表現する道具として、私達に影響を与えているのですね。

 
インタビュア 飯塚りえ
北山晴一(きたやま・せいいち)
1944(昭和19)年生まれ。立教大学文学部・大学院文学研究科(比較文明学専攻)教授。
東京大学文学部仏文学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科修了。
主な著書に『美食の社会史』(朝日新聞社)、『ヌードとモードの間─欲望の考現学』(日本経済新聞社)、『官能論』(講談社)、『衣服は肉体になにを与えたか』(朝日新聞社)などがある。
衣服は他者と自分を結びつける道具
撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

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