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日本人の慣習や伝統は、深く自然に根付いているのです。
第20回 日本大学文理学部講師 飯倉晴武さん


いくつもの思想を融合させる日本人の知恵

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最近は伝統が失われているなどとも言いますが、やはりお正月の伝統は残っているようです。日本人はお正月をとても大切にしますね。

飯倉

日本は、四季の移り変わりがはっきりした国です。その中でお正月は、元来、冬から春へと季節が変わる一年の節目に行うものでした。でも今の1月1日なんて、まだ冬という感じですね。これは暦の違いによるものなのです。
日本の暦は、月の満ち欠けを基本に作られた「太陰暦」を基本に、「二十四節気」といって太陽の公転による区分を取り入れた旧暦に基づいています。つまり、本来は旧暦上での立春が元旦にあたるわけです。今の暦で言うと2月4日頃です。ところが名称だけは旧暦のものを残したために、実際の季節とはずれが生じることとなりました。
その頃、庶民は、土地の神様として「産土神(うぶすながみ)」を祀る社を作ってそこにお参りしていました。日本人には、自分の生まれた土地の産土神様に守られているという信仰があったんです。今、初詣というと大きな神社に人が集まりますが、年輩の方は初詣と言ったら地元の神社に行かれる方も多いと思います。

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他の宗教とは違って、日本には「八百万の神(やおろずのかみ)」がいますね。

飯倉

日本の原始宗教では、何にでも神様が宿っていると考えていました。お米が豊作なのも神様のお陰、良い水が飲めるのも神様のお陰なのです。そこで年の区切りに、一年過ごせたことへの感謝と、それからの年の無事を神様に祈る行事ができたということでしょう。農耕民族ですから、作物の出来が自然に左右されることも影響していると思いますが、初詣は、人間が社会の中で一人で生きているのではなく「周囲のあらゆるものに生かされている」ことを意識するひとつのきっかけでもあると思います。

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面白いのは、日本に残る伝統的な行事は、そうした原始宗教的な自然観に根づく神道に由来していたり、中国伝来の仏教の思想と混ざった形で成立していたりと、いろいろ混在していることですね。

飯倉

日本を始め、昔は世界のどこの地域でも同じように、原始的な宗教観と道徳観から先祖を敬う思想があり、地縁、血縁で結ばれた共同体を守ることを目的にしていました。日本ではそこに大陸から仏教が伝来しました。仏教は個人の安心立命や魂の救済などを目的にしている点でも異なっており、自然の草花や石ころ、動物、それぞれに神様が宿っていると思っていた当時の人々にとって、両者をどのように融合するか、ということには頭を悩ませたと思います。
そこで奈良時代以降「神様というのは、仏様がこの世に仮に姿を現したんだ」という「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」や「神と仏は本来同じもの」とする「神仏習合」といった思想が生まれました。
面白いのはどこのお寺でも、お寺を守る神社というのがあることです。例えば、比叡山延暦寺には、比叡山の麓の方に日吉神社が、奈良の興福寺には春日神社があって、それぞれお寺を守っています。
これが政治的に使われることもありました。平安時代、僧が朝廷に訴えを起こす時などご神体などを持っていってそのまま朝廷に置いてきてしまうという強硬手段に出るんですね。延暦寺の僧が日吉神社の御神輿をかついで朝廷に赴き、御神輿を朝廷の庭などに置いてきてしまうんです。公家は、神を最も恐れていますから、そういうものが朝廷内にあると皆恐れて朝廷に出てこないので、政治が滞ってしまいます。それで僧の訴えを聞かざるを得ない、ということになるんです。もちろん、御神輿やご神木を移動するなどというのは、簡単にできることではありませんから、それなりの覚悟でやったのでしょうが。
その後、江戸時代の末には国学が発達しました。国学とは、神道を主とした学問で、明治維新が達成されると、神と仏を分けようという動きが出始めました。その頃、神社を優遇し、お寺を迫害するような政策が採られた時期もありました。

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日本人の宗教観はあいまいだ、というようなことが言われますが、平安時代から、神道と仏教の間を行ったり来たりしているところがあるんですね。

「年女」はいなかった?

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お正月には沢山の伝統行事がありますが、今も残る行事の由来にもいろいろな説があるとか。除夜の鐘が百八つというのも、諸説あるそうですね。

飯倉

人間には百八つの煩悩があり、除夜の鐘はその煩悩を一つ一つうち消しているという説はよく知られていますが、それ以外にも中国の道教が発端だという説もあります。道教とは、数字のロジックを重んじる思想でして「108」という数字はいろいろな場面に登場します。中国の有名な小説に『水滸伝』がありますが、それに登場する豪傑も108人ですね。他に、12ヶ月と二十四節気、5日を一候とした七十二候という暦を足し合わせた数という説もあります。
また初日の出を拝むのにも由来があります。太陽というのは、生命の源と言いますか、太陽がなければ人間は生きられません。まず、そうした太陽信仰があります。ここにも日本人の自然に対する畏怖のようなものが表れていると思いますが、かつては初日の出と共に、その年の「年神様」が表れると信じられていました。年神様は一年の始めに幸せをもたらすために降臨してくると考えられていたのです。
初日の出を拝む習慣というのは、明治以降盛んになったと言われています。最初は、四方拝といって、天皇が元旦の朝速く起きて身を清め、東西南北の神に豊作と無病息災を祈ることから始まり、平安時代頃に公家から庶民に広まりました。それが更に初日の出を拝むという習慣に変わって行きました。

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よく「私は今年、年女です」などと言いますが、これは最初は年齢などとは関係なかったと聞いたことがあります。

飯倉

今「年男」「年女」というと、その年に生まれた人を指します。来年は酉年ですから、酉年生まれの人のことを「年男」と言いますが、元もと「年男」は正月の飾り付けをしたり、お節料理を作ったりという正月行事を取り仕切る男性のことで、干支とは関係がありませんでした。正月行事を取り仕切る人は男性ですから、そういう意味では「年女」という存在はなかったことになります。

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ということは、干支に因んだ「年男」「年女」というのは新しい概念なのですね。

飯倉

節分に関しては、日付よりも実際の季節が優先されて立春の前日、2月3日に行われるようになったのですね。

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お正月にちなんだことで改めて考え直してみると、どうしてだろうということがいくつかあります。

飯倉

例えば、初夢に見ると縁起が良いものとして「一富士、二鷹、三なすび」というのがありますが、これはどうしてだかご存じですか?
今の日本文化や、生活に採り入れている風習というのは、室町時代、とくに東山文化から始まったと言われています。畳を家の中に敷き詰めて生活し始めたのも室町時代の頃からで、書院造りから端を発したものです。これが江戸時代に庶民にまで広まりました。今の日本も、50年間戦争がないと言いますが、江戸時代は260年間、全く戦争がなかった非常に平和な時代で、それだけに、庶民にも豊かな生活が花開いていきました。さまざまな年中行事もこの時代に庶民にまで広がっていくわけです。
「一富士、二鷹、三なすび」は、「四綿、五煙草」と続くのですが、これはそうした時代に登場したものです。江戸時代と言えばもちろん徳川の時代。その徳川は三河の出身で、富士も鷹もなすびも三河の名産だったんですね。つまり将軍様や殿様にあやかりたい、ということでしょう。
他にも、日本の三大仇討ちに因んだものだという説があります。鎌倉時代の曽我十郎、五郎という曽我兄弟の仇討ちは富士の麓での出来事です。鷹は、赤穂浪士に登場する浅野家の家紋が、鷹の羽根をモチーフにしたものだったから。なすは、荒木又右衛門という剣豪が加わった仇討ちの場所が、なすの名産地、伊賀の国だったからという説もあります。
いずれにしても、江戸時代、しかも江戸の街で言われ始めたものです。当時の江戸の人口は100万あったと言われ、世界でも、有数の都市でした。それだけに強い影響力もあり、それが日本人の常識になっていったと言ってもいいでしょうね。

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お正月に続いて、先ほどの節分、その後には桃の節句が続きます。

飯倉

「重なる」ことは縁起の良いこととして、3月3日、5月5日、9月9日と、それぞれ何かの節句となっています。
三月三日は、最初は女の子のための節句ではなく、闘鶏を行う日でした。朝廷でも公家の家でも庶民の家でも、皆、鶏を持ち出し闘鶏をする日だったんですね。
五月五日はというと、元もとこちらが女の子の節句だったんです。田植えが始まる前に少女達が田の神に対して厄払いをする日であって、今のように武者人形を飾ったり、鯉のぼりを上げたりという日ではありませんでした。
今のような形になったのは江戸時代に入ってから、武家の習慣から端を発したものです。端午の節句で用いられる「ショウブ」が「勝負」や「尚武」といった武勇を示す言葉に通じることから、大名や上級武士が自分の家の跡取りの成長を願う行事へと発展したわけです。時期的にも旧暦の5月と言えば夏の最中で、川が緩み、魚が悠々と泳ぐ姿が見られる時期でもあります。もちろん鯉もいます。鯉が威勢良く川を泳ぐ姿に自分の子供の成長を願う気持ちを託したのでしょう。

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2005(平成17)年は酉年ですが、どんな年になるのでしょう?

飯倉

実は「子、丑、寅……」という干支は、動物を表したものではありません。子供の「子」と書いて「ねずみ」と読ませているのですが、これは先に読み方があって、後から動物を当てたものです。物を勘定したり順序を言い表したりするための言葉で、中国の道教に由来しています。

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子、丑、寅といった干支について考える時には、必ず動物をイメージしていましたが、それが元ではなかったとは……。

飯倉

でも、今、言われたように絵をつけた方が、多くの人に分かりやすいんですね。大体、辰(竜)なんて想像上の動物ですから、必ずしも実際の動物を意味しているわけでもありませんし。ただ、こうして動物になぞらえたことで、すっかり日本人に定着しました。
十二支という考え方は、東南アジアにもありますが、その中には、豚が入っていたり、日本や中国の動物とは違うんです。その国に親しみのある動物が使われているのでしょうね。

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今は季節感が薄くなって、伝統行事も意味が失われがちですが、お正月に始まるたくさんの行事には、節目、節目に毎日の生活の無事や今後の繁栄を祈る大切な意味があったのですね。

飯倉

日本は四季があって一年という単位を感じやすく、年の初めもはっきりしています。だからこそ、新年を迎えるに当たっては、それなりに気持ちを新しくして欲しいと思います。初詣もイベントのようになっていますが、古代の日本人が持っていたような、周囲のたくさんのものに生かされているという謙虚さを思い出すきっかけにしたいですね。

 
インタビュア 飯塚りえ
飯倉晴武(いいくら・はるたけ)
1933(昭和8)年東京生まれ。東北大学大学院修士課程修了。宮内庁書陵部首席研究官、陸幕調査官、奥羽大学文学部教授を経て、現在日本大学文理学部講師。著書に『日本古文書学提要 上下巻』(共著、大原新生社)、『古文書入門ハンドブック』(吉川弘文館)、『地獄を二度も見た天皇-光厳院』(吉川弘文館)などがある。
数々の伝統の由来あれこれ
撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

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