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永谷園 お茶づけ海苔
ニッポン・ロングセラー考 “味ひとすじ”の精神で守り続けた伝統の味

お家復興を担っていた10代目当主・永谷嘉男

永谷園10代目当主・永谷嘉男。その肩には、永谷園の看板を再び掲げるという責任が重くのしかかっていた。

「食欲がないときやお酒を飲んだ後、あるいは夜ちょっとお腹が空いたとき、あなたなら何を食べますか?」
この質問に、多くの人は「お茶漬け!」と答えるのではないだろうか。
日本人にとって極めて馴染み深い食事であるお茶漬けのルーツは、平安時代にまで遡る。この時代の貴族は冷たいご飯にお湯をかけて食べていたようで、これは「湯漬け」と呼ばれていた。時を経るとともに湯漬けは一般化し、茶道の発達に伴って、次第にお茶漬けに変わっていった。

さて、現代に生きる私たちにとってお茶漬けといえば、まず思い浮かべるのが永谷園の「お茶づけ海苔」だろう。ご飯の上にパラパラと振りかけ、お湯を注げばハイ出来上がり。サラサラと短時間で食べられるうえ、小腹はしっかり満たされる。日本人にとってはカップラーメンと並ぶくらいポピュラーな即席食品だ。
そのお茶づけ海苔を生んだ永谷園のルーツを辿ると、江戸時代中期に京都の宇治で製茶屋を営んでいた永谷宗七郎に行き着く。この宗七郎、お茶の歴史を語る上では欠かせない重要人物。色は赤黒く香りも味も薄かった当時の煎じ茶に代わり、薄緑色をした芳しい煎茶を開発して流行らせた人なのだ。宗七郎は、今も宇治湯屋谷に茶宗明神として奉られている。

時を経て1895(明治28)年、永谷家の分家が京都から東京に進出。昭和初期から中期を担った9代目当主・永谷武蔵は、同家随一のアイデアマンだった。煎茶の販売だけでなく、昆布茶やアイスグリーンティーなどを開発して販売。そんな中に、細かく切った海苔に抹茶や食塩などを加え、お湯を溶いて飲むユニークな「海苔茶」があった。
ところが、太平洋戦争の敗戦によって日本経済は壊滅状態に。永谷園も一時的にその看板を下ろすことになった。

永谷園復興を担っていたのが、10代目の当主・永谷嘉男だった。嘉男は永谷園の看板を再び掲げるために、さまざま商売を経験。いつしか、お茶ではなく新しい商品での永谷園復興を考えるようになっていた。実際、醤油に代わる調味料を開発するなど父親譲りのアイデアマン振りを見せたりしたが、それでも永谷園の看板を掲げられるほどの画期的な商品は、なかなか生まれなかった。仕事帰りに居酒屋で飲みながら「どうしたらいいのか」と悩む日々が続いた。


原型は飲み屋でのヒラメキから生まれた

 
創業当時の永谷園本舗社屋。場所は現住所とほぼ変わらない西新橋だった。唯一の商品だった「お茶づけ海苔」の看板がひときわ目立つ。
 
発売して間もない頃のパッケージデザイン。定式幕、高札、江戸文字の3要素は現在も全く変わっていない。後に「江戸風味」は「永谷園の」に変更された。
 
 

世の中を変えるほどの画期的な商品は、意外に平凡なシーンから誕生する。お茶づけ海苔もまたそうだった。
ある日、居酒屋で酒を飲んでいた嘉男は、いつものように仕上げにお茶漬けを頼んだ。「おいしいなあ。こんなお茶漬けを家でも食べられたらいいのに」そう思った嘉男の脳裏に、父が作った海苔茶が甦った。
「そうだ。なにもお茶から離れる必要はない。海苔茶をご飯にかけたら、おいしいお茶漬けができるんじゃないか」。
この発想がすべての始まりだった。嘉男は、一気呵成に即席茶漬けの開発に乗り出した。

原料は、塩、砂糖、抹茶、昆布粉、刻み海苔、調味料。それらの種類を吟味し、配合を研究する。基本的な部分は上手くいったが、何か一つ足りなかった。ヒントは京都にあった。もともと京都には、カリカリとした小粒あられが散りばめられた「ぶぶ茶漬け」や、おかきを入れた「かきもち茶漬け」を食べる習慣がある。「あられを入れたら香ばしい風味もプラスできる」そう考えた嘉男は、早速あられを海苔茶づけに取り入れた。このあられを入れるというアイデアは、思わぬ効果もあった。あられに吸湿性があり、海苔が湿気るという問題も解消していたのだ。

1952(昭和27)年、晴れてお茶づけ海苔の原型が完成。製品は紙製の小袋を二重にし、底に石灰を敷いた瓶に100袋ずつ詰めて販売した。すべて手作業で、当時の価格は1袋10円。公務員の給料が6000円くらいだったから、かなりの高額商品だった。

開発の翌年、嘉男は永谷園本舗を設立し、看板復興の責任を無事に果たした。
ただし、お茶づけ海苔を売るのは簡単ではなかった。なにせ初めて世に出る商品である。即席商品自体が珍しかったこともあり、販売当初は相当苦戦したという。
販売ルートは東京のお茶屋が中心。嘉男自らが試食販売を行い、食べ方とおいしさをアピールした。もともと日本人には馴染み深いお茶漬けである。それが家庭で簡単に食べられるわけだから、潜在的な需要は大きかったはずだ。地道なセールスはすぐに効果を上げ、生産量は日を追って増加。会社は次々に工場を立ち上げていった。

お茶づけ海苔が瞬く間にヒット商品になった理由は、そのパッケージにもある。
黒色、萌葱色(=濃い緑色)、柿色の帯と赤のラインで構成された鮮やかな柄は、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを消費者に与えた。こんなに鮮やかな色を食品に使う事自体、当時は画期的な出来事だったのだ。この柄、実は歌舞伎で使う定式幕(じょうしきまく)からヒントを得たもの。歌舞伎好きだった両親のために、嘉男自らがデザインしたという。また、高札に江戸文字で書かれた「お茶づけ海苔」の文字も、嘉男の手によるものだった。

 

さけ茶づけ、梅干し茶づけもロングセラーに

 
 
「お茶づけ海苔 4袋入り」。やや塩分が低くなった程度で、誕生以来、味もほとんど変わっていない。希望小売価格110円(税抜)。   「さけ茶づけ 3袋入り」。永谷園はこの商品を開発するため、母船式の冷凍鮭鱒を買い付けたという。希望小売価格130円(税抜)。
   
 
 
「梅干茶づけ 3袋入り」。郷愁をそそる梅の味にしその実のアクセントが効いており、ファンが多い。希望小売価格120円(税抜)。   「たらこ茶づけ 3袋入り」。香ばしいたらこに醤油味をプラス。お茶に浮かぶ粒々感も独特のもの。希望小売価格130円(税抜)。
 
     
   
「わさび茶づけ 3袋入り」。抹茶の風味にピリッとしたわさびの辛みが効き、引き締まった味わい。希望小売価格130円(税抜)。    

お茶づけ海苔の売れ行きは60年代にかけて急伸し、70年代には早くも安定期に入る。この頃すでに、お茶漬けと言えば永谷園のお茶づけ海苔を指すくらい、定番的な存在になっていた。
1970(昭和45)年、永谷園は初のバリエーション商品である「さけ茶づけ」を発売。その2年後には「梅干茶づけ」を発売し、積極的な販売拡張路線を敷いた。お茶づけ海苔が開拓したマーケットを、自社の新商品で更に拡大していく戦略だった。
狙いは大成功。味のバリエーションが増えたことにより、新たな顧客を獲得することができた。今ではこの2つも、お茶づけ海苔と並ぶ同社のロングセラー商品となっている。

70年代以降、日本人の米食比率が徐々に低下するなか、永谷園のお茶づけ製品群全体での販売数がほぼ横並びで推移しているのは注目に値する。おそらく、即席茶漬けのパイオニアである永谷園が何もしなければ、お茶漬けの需要はもっと早いペースで減少していたのではないだろうか。
以降も、永谷園は次々と新商品を投入していく。1976(昭和51)年には「たらこ茶づけ」を、1989(平成元)年には「わさび茶づけ」を発売。もちろんこの2つも、現行ラインナップ商品として多くのファンに愛されている。

このように成功した商品もあれば、いつの間にかひっそりと消えていった商品もある。2001(平成13)年、人気お笑いタレントをテレビCMに使って大々的に宣伝した「ラーメン茶漬け」は、その斬新な味わいが話題になったが、最近になって姿を消した。やや先を行き過ぎていたのだろうか。
また子供の需要増を期待し、キャラクター商品を投入したのも早かった。サンリオの「リトルツインスターズ(キキララ)」を起用したお茶づけを発売したのは1977(昭和52)年のこと。その後もこの流れは続いており、現在は「ムシキングお茶づけ」や「くまのプーさんお茶づけ」が発売されている。

面白いのは1991(平成3)年に発売した「おとなのお茶づけ」シリーズだろう。これは「おとなのふりかけ」のヒットに起因している。ふりかけ=子供の食べ物、というイメージを払拭すべく、大人も満足できる品質のふりかけを作ったところ、これがヒットしたことから、「おとなのお茶づけ」の発売となった。



 
テレビCM、東西名画選カードでお茶の間に定着
 
 
テレビCM「ただいまお茶づけ中編」の画面。熱いお茶漬けをフーフー言いながら、一気に食べきる姿が印象的だった。
   
名画選カードの代表「東海道五十三次カード」。カードを全部集めた熱心なファンも少なくなかったとか。
 
 

お茶づけ海苔を語るとき、どうしても外せないものが2つある。ひとつは、発売当初から盛んにオンエアされてきたテレビCMだ。永谷園は、広告費のほとんどをテレビCMに集中投資している。
各商品毎にその商品イメージに最も近いタレントを起用して、お茶の間への浸透を図っていったのだ。お茶づけ海苔の場合は、女優の京塚昌子。さけ茶づけは歌手の北島三郎。梅干茶づけは都はるみ、といった具合に。

なかでも近年とりわけ話題になったのが、1998(平成10)年にオンエアした「ただいまお茶づけ中編」。新CMのビデオコンペのなかで、タレントのダミーとして出演していた広告代理店社員の食べっぷりがあまりにも良かったため、永谷園の社長が直感でそのまま彼の起用を決定。
オンエア後「あの男性は誰?」という質問が永谷園にどっと押し寄せ、お茶づけ海苔の知名度はさらにアップした。この時は若年層へのアピールを狙っていたため、このCMは想像以上の効果を生むことになった。

もう一つの話題は、1965(昭和40)年から97(平成9)年まで、30年以上にわたって続けられた「東西名画選カード」プレゼント。
子供の頃、お茶づけ海苔のパッケージの中に封入されている「東海道五十三次カード」を一生懸命集めていた記憶はないだろうか。これはカードを20枚集めて郵送料と共に永谷園に送れば、美しい化粧箱入りの1セット(55枚入り)をもらえるというもの。全部集めるのは大変だが、20枚なら何とか集まったため、セットを手に入れた人も多かったはずだ。
このプレゼントの発案者は、現相談役の永谷宗次。元々品質保証の検印として白い紙を製品に封入していたが、それではつまらないと安藤広重の東海道五十三次の絵柄を印刷したカードを封入したところ、これが予想外の評判を呼んだことからキャンペーンの形になったのだという。絵柄はほかに「喜多川歌麿」「北斎 富嶽三十六景」「印象派 ルノワール」など、全部で10種類もあった。

創業以来、「味ひとすじ」を企業理念に掲げて、さまざまなお茶漬け製品を世に送り出してきた永谷園。今ではお茶漬け以外にも数多くの商品をラインナップに揃えているが、その製品作りの原点は、やはりお茶づけ海苔にある。
考えてみれば、お茶づけ海苔登場以前、お茶漬けはこれほど簡単に食べられる料理ではなかった。ご飯とお茶はともかく、それ相応の具を用意しなければならない。どうしてもひと手間かかる。お茶づけ海苔は、お茶漬けの概念を変える革命児だったのだ。
歴史の長い日本の伝統食は、この革命児によって子供から大人まで気軽に食べられる真の国民食になった。日本人が米を食べ続ける限り、お茶づけ海苔が食卓から消えることはないだろう。

取材協力:株式会社永谷園(http://www.nagatanien.co.jp/


“綴じる”から“打つ”へ──機工品分野への挑戦
「松茸の味お吸いもの 4袋入り」。日本人がこよなく愛する松茸の味を楽しめる定番商品。希望小売価格110円(税抜)。
 
 
     
即席みそ汁の代名詞「あさげ 3袋入り」。わかめ、麩、ねぎと香り豊かな味噌のハーモニーが自慢。希望小売価格130円(税抜)。   すし作りには欠かせない「すし太郎 4人前」。人参、椎茸、れんこん、かんぴょう、たけのこなど、具もたっぷり。希望小売価格400円(税抜)。
   
 
新製品の「中華茶づけ」。「ほぐし鶏ときくらげ」「かに団子とザーサイ」の2種類がある。2袋入りで希望小売価格各120円(税抜)。
 

永谷園と言えばお茶づけ海苔の印象が強いが、実はかなり早い段階から、それ以外のヒット商品を数多く発売している。主なところだけでも、1964(昭和39)年の「松茸の味お吸いもの」、74(昭和49)年の「あさげ」、77(昭和52)年の「すし太郎」、81(昭和56)年の「麻婆春雨」と、お馴染みの商品がズラリと並ぶ。
絶えざる新商品の開発は加工食品業界の宿命だが、それにしても凄いペースだ。毎年5、6種類は新製品を発売し続けているのである。そのなかにはお茶づけ海苔同様、ロングセラーを続けている商品も少なくない。
また、飽くなきチャレンジ精神も永谷園の大きな特徴だ。この9月に発売した新しいお茶漬けは、2種類の味で展開する「中華茶づけ」。スープベースのお茶漬けは難しいと言われるが、時代の流れを敏感に読み取った結果だろう。
失敗したら撤退し、また新しいものを提案する。その繰り返しのなかを生き残った商品だけが、晴れてロングセラーとなる。このアグレッシブな姿勢が永谷園の強みに違いない。


撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント)、ジオラマ制作/小湊好治 Top of the page

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