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ニッポン・ロングセラー考 Vol.42 岩波書店 広辞苑 1100万部の販売実績を誇る日本語辞典の最高峰

前身となった国語辞典『辞苑』の存在

新村出先生

『広辞苑』の生みの親にあたる新村出。1876(明治9)年、山口県生まれ。東大卒後、京大教授となり、言語学者・国語学者として活躍。1967(昭和42)年逝去。

 
辞苑
辞苑

『広辞苑』の前身にあたる『辞苑』。これは新村出記念財団(重山文庫)所蔵の一冊。

こんな質問をしてみよう。「あなたが使っている国語辞典は何?」
比較的若い人なら、その解釈の面白さが話題になった三省堂の『新明解国語辞典』と答えるかもしれない。新語を重視する辞書好きなら、同じく三省堂の『大辞林』だろうか。国語の研究者なら、国内最大規模を誇る小学館の「日本国語大辞典」の名を挙げるに違いない。おそらく、答えは人さまざまだ。

では質問を変えて。「日本を代表する国語辞典と言えば何?」
その答えは、たぶんみな同じだ。岩波書店の『広辞苑』。初版の刊行は1955(昭和30)年。以来版を重ね、累計約1100万部を販売。その知名度の高さと販売実績において、『広辞苑』に肩を並べる中型国語辞典は他にない。愛用者でなくても、「そう言えば昔から家にあった」「学校や職場で一度は使ったことがある」という人は多いはず。誰もが一度は手にし、その表紙を開いたことがあるのではないだろうか。
それにしても……あの分厚くて難解そうな『広辞苑』が、なぜこれほどまでのベストセラー&ロングセラーになったのだろう?

実は『広辞苑』には、その前身となった『辞苑』という国語辞典がある。大正末期から昭和初期にかけては、三省堂の『広辞林』、大倉書店の『言泉』、冨山房の『大言海』など、中型国語辞典が次々と刊行された時期だった。
当時、東京で民俗学や考古学の専門書店兼学術出版社「岡書院」を経営していた岡茂雄は、中高生でも使える一般家庭向けの国語辞典を作ろうと思い立ち、旧知の間柄だった京大の言語学者・新村出(しんむら・いずる)に編集作業を依頼する。

ヨーロッパ留学中に『オックスフォード英語大辞典』の編纂作業を目の当たりにしていた新村は、最初、岡の申し出に乗り気ではなかったという。作るなら本格的な大辞典を作りたいという思いがあったらしい。だが岡の熱意に根負けし、教え子の一人をスタッフに加えることを条件に仕事を引き受ける。編者はわずか5、6人ほど。その後、内容には百科事典の要素を盛り込むことを決定。書名は、東晋の道士・葛洪の著『字苑』に因んで『辞苑』とした。
岡の発案から5年後の1935(昭和10)年、『辞苑』は刊行された。途中、岡が『辞苑』の編集はあまりに大変で自社では手に余ると判断したため、版元は大手の博文館に移っていた。


『辞苑』の改訂、そして『広辞苑』へ

岩波茂雄
1913(大正2)年、岩波書店を創業した岩波茂雄。以降、戦中・戦後の出版界をリードしていく。
 
岩波茂雄
これまでに発行された広辞苑が並んだ新村出記念財団の本棚。2段目右端は「辞苑」。再下段は、文字の級数を上げて製本された縦長の「校正本」。

岡や新村たちの努力は報われた。『辞苑』は瞬く間にベストセラーとなり、増刷を重ねていく。
ただ、約16万語を収録した内容には不十分な部分もあり、すぐに改訂版の話が持ち上がった。『辞苑』編集時に版元との行き違いがあった新村は改訂に乗り気ではなかったが、再び岡に説得され、改訂に取り組むこととなった。
辞典の改訂作業は、収録語の見直しと増補、外来語の検討など多岐にわたる。ベースがあるから楽にできるというものではなく、ゼロからスタートするのと変わらないか、それ以上の労力が求められるのだという。

外来語の充実を図るため、岡と新村は、フランス文学者であり、言語学者でもあった新村の次男・猛を編集スタッフに加える。猛は思想上の理由から治安維持法違反で逮捕・投獄され、釈放されたばかりだった。
猛は全精力を傾けて改訂作業にあたった。元より外来語の編集は得意中の得意。各分野の専門用語は、湯川秀樹や今西錦司など、自身の京大人脈を最大限に活用した。いつしか、既に高齢になっていた出に変わり、猛は編集の中心的存在になっていた。

作業量は膨大だったが、猛たちスタッフは編集室のある京大の近くから全国各地の執筆者の元へと出向き、精力的に仕事をこなしていった。原稿完成後は、校正刷りを出すため印刷工程に入る。猛たちは東京へ移転して作業を続けたが、時は太平洋戦争の真っ只中。戦況の悪化が追い打ちをかけた。印刷は軍関係の印刷物が優先され、『辞苑』の校正がはかどらない。また、空襲に遭って原稿を焼失するかもしれないという、最悪の事態も想定された。
この最悪の事態が現実のものとなる。1945(昭和20)年の東京大空襲により、印刷所と倉庫が被災。数千ページ分の活字組版と大量の印刷用紙が焼失し、改訂作業は宙に浮いた。既に『辞苑』の発売から10年が経過していた。

戦争が終わり、世の中は次第に落ち着きを取り戻していった。岡と猛は、新村家など数ヶ所に残しておいた校正刷りを元に、改訂版の『辞苑』をなんとか刊行しようと奔走する。ところが博文館が刊行を断ったため、資金不足に陥った二人は新たな版元を探さなければならなくなった。
当時、出の本を出していた版元のひとつに岩波書店があった。戦前には岩波文庫と岩波新書を発行、戦後も総合雑誌『世界』や、質の高い学術書・文芸書を次々と発行していた同社には、理化学辞典など専門分野の辞典はあったが、国語辞典がなかった。猛から『辞苑』の引き継ぎを打診された創業者の岩波茂雄は、これを快諾する。茂雄は、戦後の日本における優れた国語辞典の重要性を良く分かっていたのだろう。
まもなく茂雄は他界するが、1948(昭和23)年、その意思を引き継いだ次男の雄二郎が社内に編集室を設置。少数ながらスタッフも集まった。新たな書名は、『広辞苑』に決まった。


一家に一冊「広辞苑」──売れ続けた理由

 
広辞苑夏の陣に参加した10人

「広辞苑夏の陣」を戦った精鋭10人。合宿こそないが、今も校正の最終段階は似たような状況だという。

『広辞苑』初版

記念すべき『広辞苑』初版。黒地に白抜き文字のカバー、青色の表紙クロス、明るい灰色地の見返し、本扉に配されたえんじ色の文字など、基本的な装丁デザインは今も変わらない。

 
『広辞苑』初版

編者である新村出博士のサインされた初版。発売の6日前、「1955年5月19日朝、接手第一冊也」の記しが感動的だ。

版元が岩波書店に決まり、資金面での心配はなくなった。猛を中心に編集スタッフも精鋭が揃った。『広辞苑』の刊行は目の前に見えている……はずだった。
が、実際には予想を越える苦労が待ち受けていた。戦後、社会情勢が一変すると共に、言葉そのものが大きく変化していたからである。旧仮名遣いは新仮名遣いに改められ、外来語は怒濤のような勢いで生活に入り込んできた。新語も次々と誕生し、そのひとつひとつを追いかけなければならない。
その頃、出は京都で研究生活を送っていたが、東京の編集スタッフとは常に連絡を欠かさなかった。実務を離れても、出は編集スタッフの精神的な支柱だったのである。

編集室での作業が始まってから5年後、やっと校正刷りの段階を迎えたが、ここでも内容の偏向、用語解説が難しすぎるなど、様々な問題が発生した。発行予定は1年後に迫っている。もはや時間的な余裕はない。
岩波書店は、10人の精鋭社員を伊豆山にある同社の保養施設に招集し、一気に全体の見直しをかけることにした。そこで行われるのは、一人平均300ページを1ヵ月半で点検していくという、気が遠くなるような校正作業。しかし、10人はその困難な仕事を見事に成し遂げた。この合宿は「広辞苑夏の陣」として、今も社内で語り継がれているという。

原稿と並行して、装丁と造本の準備も進んでいた。装丁を担当したのは著名な洋画家・安井曾太郎。青いクロスの背の部分に入っている不思議な文様は、「水辺に立つ鳥」「池に睡蓮」など諸説あるが、真相は不明だという。
紙も特注品を採用した。もともと辞典には専用の紙が使われていたが、岩波書店は『広辞苑』のために、薄くしなやかで丈夫、かつ裏写りしない特漉き紙を用意した。

そしてついに、1955(昭和30)年5月25日、『広辞苑』初版は刊行された。収録項目は約20万。価格は2000円。コーヒー1杯が50円、公務員の初任給が9000円ほどの時代だから、今で言えば4、5万円程度の感覚になるだろうか。驚くほど高価だったが、なんとこれが飛ぶように売れた。印刷が間に合わず、岩波書店は仕方なく新聞に「増刷を急いでおります」という趣旨の広告を出したという。当時は、百科事典のように高額な書籍は月賦で買うことができたため、比較的購入しやすかったのかもしれない。

人々は『広辞苑』を高く評価した。戦後の混乱期を過ぎ、社会が急激に変化しつつあるこの時代、言葉はその意味を明確に定義されないまま放置され、人々は漠たる不安を抱えていたのかもしれない。「正しい日本語」に対する欲求は、今では想像もできないほど強いものだったのだろう。百科事典を兼ね、20万語を収録する『広辞苑』は、日本人にとって日常生活に役立つ実用品であると同時に、移ろいゆく日本語に明確な意味を付与し、その正しい使い方を教えてくれる“言葉の先生”だったのだ。
初版は14年間で約100万部を販売した。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「一家に一台」ともてはやされたように、『広辞苑』もまた、「一家に一冊」置かれるべき存在となったのである。


 
変わる入れ物、変わらぬ中身

『広辞苑』第二版から第五版までを立てて並べて、岩波書店からもらう
『広辞苑』第二版から第五版までを並べたところ。第三版以降、サイズがやや大きくなっていることが分かる。
『逆引き広辞苑』
『逆引き広辞苑 第五版対応』。言葉の意味を調べるのではなく、言葉そのものを探すための辞典。4725円。
 
CD-ROM版『広辞苑』
『広辞苑 第五版 CD-ROM版』。EPWING準拠なのでWindowsでもMacでも使える。1万1550円。
 
現在の『広辞苑』編集風景
近年の『広辞苑』編集部の様子。専任編集者は最小2人だけで、改訂作業が佳境に入ると20人以上に増員されるという。

初版刊行以降の経緯を辿ってみよう。
『広辞苑』第二版の刊行は1969(昭和44)年5月。2万項目を削除し、新たに2万項目を追加した。ページあたりの文字数を増やしてもなお、100ページ増に。この7年後には小改訂を施した『補訂版』を刊行。この時同時に、文字の大きなB5判(182×257ミリ)の『机上版』も刊行している。第二版は14年の間に計約230万部を販売した。
第三版の刊行は1983(昭和58)年12月。増補項目は1万2000に及び、200ページ以上増えた。内容面では、文語形だった見出しを口語形に変更し、使い勝手を大幅に改善。サイズも、従来のA5版(148×210ミリ)から菊判(152ミリ×218ミリ)に拡大した。8年間で計約260万部を販売。
第四版が登場したのは1991(平成3)年11月。新たに1万5000語を収録し、総項目数は約22万に。192ページの増加に対応するため、紙をさらに薄く丈夫なものに変更した。1年後に姉妹編の『逆引き広辞苑』を刊行。販売部数は7年間で約220万だった。

現行の第五版が登場したのは、1998(平成10)年11月。全項目を点検し、総項目数は約23万になった。初版から数えると、4回の改訂で5万項目を新たに収録したことになる。『広辞苑』の特徴である図版は約2700点余りに増え、新たに地図図版やアルファベット略語表を設けて使いやすさの向上を図った。この第五版、現在までに約100万部を販売している。

第五版の販売部数が思いのほか伸びていないのはなぜだろう?
もちろん、出版業界全体がここ数年不況に見舞われているという構造的な問題はあるが、実は『広辞苑』全体の需要が減っているわけではない。電子辞書版『広辞苑』やCD-ROM版『広辞苑』への、メディアシフトが起きているのだ。
今でこそCD-ROM版の辞典は珍しくないが、その先駆けとなったのは、他ならぬこの『広辞苑』だった。1987(昭和62)年に第三版をCD-ROMで発売。ワープロ専用機の富士通オアシス用ドライブに特化した製品で、価格は2万8000円もした。その後、書籍版にやや遅れるスピードでCD-ROM版も進化を遂げ、最新の第五版はカラー画像や動画を含むマルチメディア辞典となっている。

ほかにも『広辞苑』には専用端末(生産終了)で利用する電子ブック版があるが、今もっとも利用されているのは、電子辞書版の『広辞苑』だろう。主要メーカー4社中、『広辞苑』を採用していないメーカーはひとつもない。ほとんどの主力製品には、『広辞苑』が国語辞典の代表として収録されているのだ。
更に、2001(平成13)年4月からは、iモード版『広辞苑』の提供も始まっている(その後、EZweb版、Yahoo!ケータイ版も提供)。これは、月額利用料105円で総項目約23万の見出し語検索や漢字検索を利用することができるオンラインサービスだ。

ここで『広辞苑』の特徴を確認しておこう。 第一に「日本語の規範」を示すべく、言葉の移り変わりをきちんと反映したうえで、その言葉本来の語義・用法を示していること。つまり、本来の解釈とは別の解釈が一般化した場合、『広辞苑』は必ず二つの解釈を併記しているのである。 第二の特徴は、この“一般化”に関して。新語・流行語については、それが日本語として一般に定着しているかどうかが採用基準となる。どんなに良く使われる言葉であっても、それがすぐに採用されることは決してない。最低でも改訂間隔の約10年ほどは様子を見るのが『広辞苑』なのだ。ちなみに、日本人名の採用に関しては、故人のみに限定している。

岩波書店・辞典編集部のあるスタッフはこう語る。 「メディアに関しては柔軟に考えています。どんなにメディアが変わろうとも、それはつまるところ入れ物にすぎません。中身である『広辞苑』には何ら変わりがないのです」

言葉を採用する際には最も慎重で保守的な『広辞苑』が、新しいメディアの採用に関しては最も意欲的でチャレンジングであるという、興味深い事実がここにある。

日々移ろいゆく言葉の有り様を最も良く把握している『広辞苑』。だからこそ、その言葉の本質的な意味の重さを充分に理解しているのだろう。私たちの言葉を、日本語を、私たち自身の手で守らなければならない──『広辞苑』は、生まれた時からその責務を自らに課していたのである。

 
取材協力:岩波書店(http://www.iwanami.co.jp)
     
新村出の居宅、新村出記念財団(重山文庫【ちょうざんぶんこ】)
重山文庫
重山文庫
京都市北区小山中溝町19
Tel:075-441-7613
開室日:月・金曜日(国民の祝日休み)
開室時間:午前10時〜正午 午後1時〜4時

広辞苑の編者である新村出博士の居宅は、 現在、新村出記念財団・重山文庫(ちょうざんぶんこ)として保存され、月曜日と金曜日には一般にも公開されている。

重山文庫

硯、筆など生前使用されていたそのままの状態で残されている書斎

元々、鴨川の西岸にあった木戸孝允の終焉となった邸宅の一部を、1923(大正12)年に新村氏が譲り受け、京都市北区小山中溝町の地に移築されたもので、地下鉄鞍馬口駅から徒歩数分の閑静な住宅街に佇む。同氏が1967(昭和42)年に亡くなるまで過ごした邸宅には、机上や書棚など氏の書斎が生前使用されていたそのままの状態で残され、一般に見学することもできる。居間や客間には、新村氏宛に送られた勝海舟の書や、武者小路実篤からの手紙などが展示され、辞苑、広辞苑の初版本、校正本など貴重な資料も並ぶ。『広辞苑』の編纂や研究に使用された約1万3000冊に及ぶ蔵書や手稿は2階の書庫で管理され、申請による閲覧も可能で、現在も氏の遺志を継いで国語学、言語の研究を行う学者や学生の貴重な資料館の役割も担っている。


撮影/海野惶世(タイトル部) タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 Top of the page

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