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ニッポン・ロングセラー考 Vol.44 エポック社 野球盤    野球少年じゃなくても熱中した“消える魔球”

エポック社の歴史は野球盤と共に始まった

創業者 前田竹虎氏

ゲーム史に残る名作「野球盤」を作った前田竹虎。エポック社の創業者でもある。

 
創業当時の社屋看板

創業当時の会社看板。まだ小さな町工場というイメージだ。

1958(昭和33)年の東京を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。あの映画の中に、自動車修理工場を営む一家の子供が、クリスマスプレゼントをもらって喜ぶシーンがあった。胸に抱えたその大きな箱の中身は、当時発売されたばかりの斬新なボードゲーム、エポック社の「野球盤」。
子供たちにとって、それは憧れの“玩具”だった。今とは違って、ゲームが玩具の分類にきっちり収まっていた時代の話である。
自分は買ってもらえなくても、誰か友だちの家に行けば必ず野球盤はあった。学校帰りにそのまま友だちの家に行き、夕飯時まで遊び続けたっけ。家に帰れば、父親がテレビの野球中継を見ていたなあ。もちろん草野球もやったけれど、それと同じくらい野球盤で遊んでいたような気がする。
懐かしい。映画じゃないけれど、野球盤には確かに“昭和の香り”がする。

野球盤の生みの親は、エポック社の創業者でもある前田竹虎。前田は終戦後、書籍・文具関係の会社に入り、新規事業としてジグソーパズルの事業を立ち上げる。これが成功し、前田は新しい娯楽を生み出し、それを世の中に広めていく面白さを知るようになる。
昭和20〜30年代、誰もが熱中した娯楽のひとつが野球だった。前田は運動が苦手だったが、ゲームとしての野球の面白さにいち早く気が付き、深くのめり込んでいく。やがて前田はこう思うようになった。「本格的な野球ゲームを作りたい」と。

それまでにも野球ゲームらしきものはあったが、コリントゲーム(ピンボールの元祖)から派生したもので、あくまで1人で遊ぶものだった。野球は敵味方に分かれて対戦するスポーツである。
ピッチャーが投げ、バッターが打ち、野手が捕球する。そんな野球本来のダイナミックな面白さをゲームに反映できないものか。ボードゲームを基本に、様々な工夫を凝らせばできるかもしれない。しかしアイデアを形にするには、すべての時間を開発に集中させる必要があった。
前田は会社を辞め、仲間とともに野球ゲームを開発・販売するための会社「エポック社」を設立する。1958(昭和33)年5月のことだった。


前田竹虎のこだわりが生んだ初代野球盤

初代野球盤
野球盤A-2型

記念すべき初代野球盤(販売終了)。約50年に及ぶ野球盤の歴史=エポック社の歴史はここから始まった。

59年発売の「A-2型」(1850円、販売終了)。早くも変化球装置が付き、カープ、シュートが投げられるようになった。
   
初代選手人形
S35売場風景
一体一体、こけし職人が削りだして作った選手人形。色塗りからも手作りであることがよく分かる。
1960(昭和35)年当時の売り場風景。子供たちにとっては中身を覗きたくなるほど憧れの対象だった。

実は前田には、ある閃きがあった。ジグソーパズルの仕事をしていたとき、空いたピースの穴にビー玉が転がって入るのを偶然目にしたのである。「これは使える!」と直感した前田は、盤面の要所要所に窪みを作り、アウト・セーフを決める捕球システムを完成させた。
問題はピッチャーが投げ、バッターが打つという、野球ゲームにとっては最も重要な部分をどう作るかだった。

研究に研究を重ねた結果、前田はバネを利用してボールを投げ、ゼンマイを使ってバットを回転させる仕組みを開発した。守備側はピッチャーの位置に鉄球を置き、バックスクリーンの裏からバネを操作する。変化球機能はなかったが、緩急はつけられた。
一方、攻撃側はゼンマイ仕掛けのバットを手前に引いておき、球が来たところでタイミングを合わせて指を離し、球を打つ。余計な仕掛けは一切ない、シンプルきわまりない投打のシステムだった。

前田のこだわりはシステムだけに止まらなかった。本物志向を貫くため、盤上に立てる選手人形の製作をこけし職人に依頼。盤の製作は家具職人に依頼した。最初はどちらの職人からも「玩具なんか作れるか」と断られたが、前田は「子供たちのために新しいゲームを作るんだ」と力説し、頑固な職人たちを説き伏せたという。完成した選手人形には背番号が刻印され、キャッチャーにはプロテクターやミットまで描き込まれていた。さらに鉄球には縫い目まで付けられるなど、前田のこだわりは細部にまで及んだ。
会社設立の年に完成した初代野球盤は、大きさ60p四方、盤面、盤の枠などすべてを木で作った本格的なものとなった。価格は1750円。現代の感覚に直せば4万円ほどになる。この値段に、さすがの問屋筋も不安になった。「こんなに高い玩具が売れるのか?」と。
だが、その心配は杞憂に終わった。

初代野球盤は、最初から売れに売れたのである。確かに高価だったが、野球盤は今までにない画期的なゲームだった。子供たちにとっては親にねだって買ってもらいたい玩具の最右翼。その感覚は、おそらく今の子供たちが最新のTVゲームを欲しがる感覚と同じだったのだろう。
もちろん、前田たちは販売面での努力も怠らなかった。いかに売れる商品であっても、玩具業界にとってエポック社は新規参入組。社員は毎日ルート開拓に汗を流し、飛び込み営業を続けたという。初代野球盤は月産2000台というハイペースで売れ続けた。
その後、発売年の秋には普及型の「B型」(680円)を発売。翌1959(昭和34)年には、カーブとシュートの機能を持たせた「A-2型」を発売した。


野球盤に新たな命を吹き込んだ“消える魔球”

 
デラックス野球盤

1970年発売の「デラックス野球盤」(2350円、販売終了)。盤の枠、盤面、選手人形などがプラスチック製になった。

 
消える魔球付きB型

野球盤の人気に再び火を付けた「消える魔球装置付きB型」(1650円、販売終了)。子供たちに新たな楽しみ方を提案した。

 
消える魔球部分

ボールを下に落とすフタの部分。開発者はここと盤面を平滑に仕上げるのに苦労したという。

少年サンデー18号表4
長嶋選手を起用した雑誌広告の例。これは1960年の『少年サンデー』に掲載されたもの。

一方、初代野球盤が発売されたのと同じ年、現実の野球界では長嶋茂雄が読売巨人軍に入団した。その華麗なプレー、生まれ持ったスター性に前田は惚れ込んだ。そして再び閃いた。「長嶋選手を野球盤のコマーシャルに起用しよう」
だが、それはあまりにも現実離れしたアイデアだった。長嶋茂雄といえば、デビュー前から大学野球で活躍していたスター選手だ。プロになってからも、デビューしたその年にいきなり本塁打王、打点王の二冠に輝き、その人気は既に国民的なものとなっている。
いかに野球盤が売れているとはいえ、新興玩具メーカーの依頼に応えてくれるとは思えなかった。

だが、前田は諦めなかった。長嶋選手とは一面識もないから、直接本人に会って掛け合うしかない。前田は野球盤を持って多摩川の合宿所に日参した。が、当然の事ながら選手が勝手に外部の人間と会うことなど許されていない。無駄足が続いたある日、顔見知りになった寮のおばさんが「今なら長嶋さんいるよ」と言って、こっそり中に入れてくれた。
前田は長嶋選手に実際に野球盤で遊んでもらいながら、「このゲームで子供たちに野球の素晴らしさを知ってもらいたんいです」と力説する。意気に感じた長嶋選手は、広告に出演することを快諾。1960(昭和35)年9月、長嶋選手を起用したTVコマーシャルがオンエアされた。それは、玩具業界では初となるTVコマーシャルでもあった。

その後、野球盤は基本的な形を変えず、「鉄腕アトム」や「トッポジージョ」など人気キャラクターをあしらったモデルや、素材をプラスチックに変えたモデルを発売していたが、徐々にその売れ行きに翳りが見え始めるようになる。おそらく子供たちが野球盤のゲーム性に馴れてしまい、飽きられつつあったのだろう。
1971(昭和46)年に発売したモデル「巨人の星C型」は、当時人気のあった同名野球漫画のキャラクターを起用したものだった。ここでみたび、前田は閃く。「『巨人の星』といえば魔球だ。中でも大リーグボール2号、消える魔球のインパクトは凄い。野球盤で消える魔球を実現しろ!」
そう命じられた開発担当者は、あまりの難題に頭を抱えたという。

手品じゃないから実際にボールを消すことなどできない。結局思い付いたのは、盤面の下に球を落とし込むという、最もシンプルな方法だった。バットがボールに触れる直前でボールを下に落とすタイミングを図る。通常の投球に影響を与えないよう、盤面を滑らかに仕上げる。開発担当者は細かな調整を繰り返し、ついに消える魔球を完成させた。
ただひとつ心配だったのは、消える魔球の使われ方だった。絶対に打てないボールだから、濫用されたらゲーム自体が成り立たなくなる。エポック社は消える魔球を「ボール球」として扱い、打者が見送ればボールになるというルールにした。

1972(昭和47)年に発売された「消える魔球装置付きB型」は、期待通りの大ヒット作となった。その人気は凄まじく、野球盤史上でも歴代2位の出荷数を記録。心配していたゲームの健全性も、“消える魔球は1イニング3球まで”といったルールを子供たちが自主的に作ることによって守られた。


 
親と子のコミュニケーションツールとしての野球盤

野球盤スタンダード

大ヒット作「野球盤AM型」を彷彿とさせる「野球盤スタンダード」。親子で楽しむという、新しい楽しみ方が生まれた。

 
パワフル野球盤

2005年に発売された「実況パワフル野球盤」(7980円)。コナミとの共同開発で、臨場感にあふれた実況が楽しめる。

野球盤AM型
歴代で最も売れた「野球盤AM型」(3000円、販売終了)。ほかに機能を制限したB型、廉価版のC型があった。
 
パーフェクト野球盤A型
80年代のヒット作「パーフェクト野球盤A型」(5450円、販売終了)。9大メカは当時の子供たちを驚嘆させた。
 
ビッグエッグ野球盤
予想外の失敗作となった「ビッグエッグ野球盤」(9980円、販売終了)。野球盤に自動化は似合わなかった。

続く1974(昭和49)年は、野球盤にとっても、実際の野球にとっても記念すべき年となった。
この年発売した「野球盤AM型」は、消える魔球に加え、バットを突起で固定し、ボタン操作で振ることができる「ワンタッチヒッティング装置」と、ストライクやボールなどのカウントを表示できる「ダイヤルカウンター装置」を搭載。この形が70年代野球盤のスタンダードとなり、累計で300万台を出荷。歴代で最も売れたモデルとなった。
またこの年は、野球盤と深い縁を持つ長嶋茂雄が引退した年でもあった。前年には巨人がV9を達成しており、このあたりが野球人気のピークだったのかもしれない。

以降も毎年のように野球盤は改良が加えられ、新製品が発売されていくが、モデル毎に売れ行きに差が出てくるようになる。
1982(昭和57)年の「パーフェクト野球盤A型」は、それまでに搭載した様々な機能をすべて盛り込んだうえで、新たに「オートランナー装置」と「スピードガン装置」を搭載。全部で9種類の機能を持つ、野球盤の集大成的モデルだった。販売面も好調で、80年代のヒット作となった。
一方、鳴り物入りで発売しながらあまり評判にならなかったのが、88(昭和63)年の「ビッグエッグ野球盤」。東京ドーム完成の年に発売されたこのモデルは、エポック社創立30周年の記念モデルでもあった。当時爆発的に流行していたファミコンの影響を受けて電池式を採用し、12種類もの機能すべてをオートマチック化。ところがこれが仇になり、細部まで自分で操作する野球盤ならではの面白さが半減してしまった。
高価だったことも災いし、このモデルは人気商品になることはないまま販売終了。翌年、エポック社は仕切直しの意味を込めて、電池を使わずに遊べる「パーフェクト野球盤カスタム」を発売した。

90年代前半は野球盤にとって苦難の時期だった。1993(平成5)年にJリーグが開幕。子供たちの関心も野球からサッカーへと移っていった。
エポック社は97(平成9)年に電池不要、アナログの粋を集めた「フルオート野球盤PRO」を発売し、野球盤本来の面白さと現代性をマッチさせた。しかしながらTVゲームがどんどん進化したこともあり、子供たちの興味が急激に参加型ゲームから離れていってしまう。
90年代後半以降は、実際の野球界にもイチローや松井秀喜の大リーグ入りくらいしか大きな話題がなく、野球盤自体もかつてのような新機軸を打ち出した新製品は発売されなくなった。

変化の兆しは2000年(平成12)年にあった。この年、エポック社は最初の野球盤を忠実に再現した「(初代)野球盤復刻版」(1万8000円、2000台限定)を発売。これが評判を呼び、04(平成16)年には「野球盤スタンダード」を発売した。これは野球盤史上最も人気の高かった「野球盤AM型」のイメージを復活させたモデルで、30〜40代の男性に大いに支持され、意外なヒット作となった。
かつて野球盤に夢中になった大人たちが30年の時を経て、今度は自分の子供たちと一緒に野球盤を楽しんでいるのである。一方の子供たちも高度になり過ぎたTVゲームから離れつつあり、野球盤が持つシンプルで奥深いゲーム性に新鮮な面白さを感じたのだろう。

誕生してから約50年。エポック社は毎年のように野球盤の新製品を発売し続けてきた。累計販売数は既に1000万台を超えているという。誰もが認めるロングセラーゲームとなった野球盤だが、その人気が実際の野球人気とシンクロしていることも明らかだ。テレビのプロ野球中継が激減し、子供たちを多種多様な娯楽が取り巻く現代は、野球盤にとっては最も厳しい時代かもしれない。
それでも、野球盤は親子で楽しむコミュニケーションツールとしての、新たな存在価値を見出した。ピッチャーが投げ、バッターが打ち、野手が捕球するという野球が持つシンプルな楽しさに、子供たちが気付き始めたのだろう。
その楽しさの原点は、バネ仕掛けの投球とゼンマイ仕掛けの打撃にある。これだけは約50年に及ぶ野球盤の歴史の中で、一度も変わっていない。

 
取材協力:株式会社エポック社(http://www.epoch.gr.jp/
     
カプセル玩具にも“野球盤”があった!
エポック社のカプセル野球盤 エポック社のカプセル野球盤
エポック社のカプセル野球盤 エポック社のカプセル野球盤
エポック社のカプセル野球盤

「カプセル野球盤」5種類。もしかしたら子供が持っているかも。

数ある野球盤のバリエーションの中で、最もユニークなものと言えば、このカプセル玩具版の野球盤だろう。
最初に登場したのは2003(平成15)年の「野球盤の殿堂」(各200円、販売終了)。「初代野球盤」「オールスター野球盤B型」「デラックス野球盤」など、歴代の人気野球盤6種類をミニチュア化。パッケージもちゃんと再現していた。
04(平成16)年には「野球盤の殿堂 阪神タイガース編」(各200円、販売終了)を発売。こちらも全6種類があり、中でも「阪神甲子園球場野球盤」が人気だった。この年はミニチュア野球盤として初めて消える魔球が登場した「野球盤の殿堂DX」(全6種類、各200円、販売終了)も発売されている。
最新作は05(平成17)年の「カプセル野球盤」(各200円、販売終了)。名作「野球盤スタンダード」など、全5種類がラインアップされていた。
ちなみにどの野球盤も一応、実際にプレーすることができた。さすがというべきか。


撮影/海野惶世(タイトル部) タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 Top of the page

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