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かしこい生き方 言語学研究者 飯田朝子さん
効率を求めて生まれた日本語

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小学生の頃「文房具屋さんで3本の鉛筆と4冊のノートを買いました。全部でいくつ買いましたか?」という算数の文章問題に「3本と4冊は足せない」と疑問に思ってしまったところから、数え方への興味が始まったと伺いました。

飯田

興味を持ったのは、確かに古いですね。でも、数え方、専門的には助数詞というのですが、これを調べようと思ったのは、高校生の頃でした。当時、落語をやっていたのですが、噺の中に江戸時代の古い数え方が出てくるんです。例えば、頭にかぶる笠を「一蓋(いちがい)」と数えたり、位牌を「一柱(ひとはしら)」と数えたり。そこには意味があって、例えば「蓋」は、行商人が被るような菅笠を数える助数詞で、「一本」と数える蛇の目傘と区別していたんですね。「柱」というのは、主に神や神体や神像、遺骨などを数える助数詞で、魂が宿るもの、尊いものの数え方です。すごい事だと思いませんか? それに、数え方そのものの研究って、あまり成されていないんです。留学生から「日本語の数え方を勉強したいのだけど、どの本を参考にすれば良い?」と聞かれる事が多いのですが、推薦図書がないんです。正直、私も「誰かやってくれないかな」と待っていたのですが、誰もやらない(笑)。それで博士論文にまとめ、更にそこからこぼれたものも含めて整理して、一般の方にも読んでいただけるように書籍として発行したんです。いざ調べてみると、最終的には助数詞だけで500近くありました。

   

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そんなに!

飯田

日本語教育の本などには、200〜300位と書いてあって、それが定説と言われていました。けれども本当にいくつあるか確かめた人はいなかったようです。「数え方」なのに、その数を数えた人がいなかった(笑)。ただ、日常的に、若い人たちが使いこなせるものでせいぜい50〜60位。聞いて分かるものが100位、読んで何となく意味が分かるものが120位でしょう。500というと、実は私でも不安です。

   

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「一蓋」と言われたら、何を言ってるんだろうと思ってしまいます。

飯田

昔の人だったら「ああ、笠のことだ」とすぐ分かったでしょうが、今は笠自体を使わなくなったので「蓋」という助数詞も使われなくなっただけのこと。数え方自体も言葉の一つですから、時代や文化を色濃く反映しているんです。
数え方というのは、もともと昔の人達、特に商人が効率良く帳面を付けるために編み出した工夫です。例えば、仕入れた物を帳面に付けるとします。「笠一枚」と書くと3文字必要ですが、「一蓋」と書けば2文字で済んで、いちいち「笠」と書かなくても、助数詞だけで何を指しているのかが分かるでしょう? 今ではクイズ番組の定番問題にもなってますが、箪笥は「竿」と数えます。元々は「箪笥をかつぐには竿が必要」という事から、江戸っ子あたりが「ああ、まだるっこしい!」と「一竿=竿で運ぶもの=箪笥」と縮めたんじゃないかと思われます。花嫁道具を記す時も「一竿」と書けば、箪笥一つだと分かるというわけです。

 

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すごく効率的ですね。そうすると日本語では個々のモノによって違う助数詞があるのですか?

飯田

専用とまではいきませんが、同じ助数詞でも前後の文脈から、その場では何を数えているかがすぐに判断できたはずです。例えばイカは「一杯」と数えますが、「杯」は他のものにも使います。しかし魚屋さんで「一杯」と言えば、扱っている商品で「杯」と数えるものはイカしかない。文脈から分かるでしょう。

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かしこい!

飯田

そう、かしこいんですよ(笑)。数え方自体のルーツはとても古く、万葉集にもたくさん出てきます。それが江戸時代になって商人達が活発に商売を始め、さまざまな商品をやりとりするために「数え方」という工夫がなされたのだと考えられます。でも現代のビジネスマンも、同じ事をしているんではないでしょうか? 配送会社の方などが梱包の「梱」と書いて、「1梱、2梱」などと数えたりしますが、あれは「商品は複数だけれど、届ける手間としては1回分」という意味で用いている。そういう、状況や条件が生み出す数え方というのは、現代にもあるのじゃないかと思います。

   

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数え方が私たちの生活に密着しているからこそ、新しい数え方が生まれることもあり得るわけですね。

飯田

江戸時代の人が開発したように、どんどん生まれて良いんです。「今の若い人は、言葉を縮めてしようがない」なんて言うけれど、昔の人もなるべく効率の良い伝達方式として、数え方を編み出していたわけですから、変化したり新しいものが生まれてきたりしても不思議ではありません。

 

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外国人の方などに日本語の数え方を教える時に、「枚」や「本」といった助数詞を「単位」と説明していたのですが、これ、間違いなんですよね。

飯田

混同して使っている方が多いと思いますが、違うものです。単位というのは数字に置き換えられるもの。例えば1メートルは100センチと置き換えられますが、助数詞というのは「1本=○○センチ」と数値に置き換えられません。ですから助数詞というのは国語の問題なんです。

   

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改めて考えればその通りなのですが、普段は、まったく意識していませんでした。そのように考えると、数え方に対する視点の当て方が変わってきます。数え方とは、そのモノのとらえ方でもあるのですね。

飯田

そうなんです。わざわざ助数詞などという厄介なものをくっつけて数えることで、「私は、このモノを、こうとらえているということを示していることになるんです。
分かりやすい例はロボット。工業用ロボットなどは、それがどんなに精巧にできていても、機械と思っているから「一台」と数えますが、ヒト型ロボットになれば「一体」などと数えます。人や動物に似ていて「台」と数えるのに抵抗があるという気持ちの表れでしょう。
そうした「対象のとらえ方」が、共通の文化的認識になっている点がとても面白いと思います。広告のコピーなどは、それを上手に利用する事で私たちにアピールしていますね。最近感心したのは、液晶テレビの「一枚のテレビ」という広告コピー。「一枚」という言葉で薄く、また絵画のような質感が伝わるでしょう? テレビは「一台だ」という共通認識が私たちの中にありますが「台」と聞くと、どかっと厚みがあるような印象を受ける。「台は厚い」「枚は薄い」という助数詞のとらえ方の違いを使った表現だと言えます。他にも「一粒300メートル」という有名なコピーがありますが、仮に「一個で300メートル」だとしたら、有り難みが半減してしまう感じがしませんか? 「一粒」と言われれば、そんな小さい中に300メートル走れる栄養があるんだと無意識に嗅ぎ取るんです。私たちが持っている「粒」という感覚を利用したコピーと言えます。実際に学生達にヒアリングしたところ、「一粒」と聞くと「親指と人差し指でつまめるもの」という共通の身体感覚があると分かりました。それが、親指、人差し指、中指でつまむとなると「一個」になるんです。

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本当ですね。確かにつまむ動作によって助数詞を使い分けています。

飯田

そんな事、誰に教わったわけでもありません。もちろん国語の授業でも習わない。でも、私たちはその感覚を知っているんです。「粒」以外にも、私たちの手の感覚というのは数え方に表れています。皿のような円盤を使って「一枚」についても実験してみました。厚みについては、円盤の厚さが増すと「枚」ではなくて「一個」になる。先にもお話したように「枚」には「薄い」という要素があるんですね。では、円盤の大きさについてはどうか。これが、円盤が小さいと、私達は例えどんなに薄いものであっても「一個」で数えたくなるんです。ボタンは薄くても「一枚」ではなくて「一個」でしょう。これはどうも、手のひらの大きさが基準になっていて、手のひらより小さいと、薄くても「一個」と数える。薄さだけでなくて、大きさも関係しているんですね。
では、応用問題ですが、ランチサービスしているお店に行ったとします。値段は同じく500円ですが、「500円玉一個でランチ」と「500円玉一枚でランチ」と書かれた場合、どちらに惹かれますか?

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「一個」だと「わずか」という気がします。

飯田

ぐっとくるでしょう? 「一枚」だとお札と同じ数え方だから有り難みが半減してしまう。「個」で数えることで、お札よりも手軽なコインで食べられることを強調しているのです。こうしたことを、私たちは、周りの人間が使っているのを聞いて、自然に身につけ無意識のうちに使い分けているんです。
「一回」と「一度」はどうでしょう? 使い分けを考えた事がありますか? これも使い手の感情が出る面白い助数詞なのですが、「度」と言うと、次が予想できない場合、「回」と言うと、誕生日や記念日など、また巡ってくる、次がある事を意識しているんですね。例えば「三度目の結婚記念日」というと、「次はないだろう」という意味になってしまうんです。

   

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「二回ある事は三回ある」では、「当然でしょう」という感じがあるし、「4度目の誕生日」も違和感がありますね。

飯田

ですから新聞やニュースを見ると、例えば芸能人の離婚の記事などをみると、それがすごく露骨に表れている事が分かりますよ。繰り返し離婚、結婚をする人には「3回目の離婚」と書かれていたりして「ああ、この記事を書いている人は、4回目があると思っているんだな」と感じますし、スポーツ選手の優勝の数なども、その選手によって「3度目の優勝」と「3回目の優勝」とあって「書き手は、この選手の優勝を意外に思っているな」「この選手には4回目を期待しているな」といった事が分かるんですね。

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本当ですね。記事に「次の優勝もありそうだ」などと書いてあるわけではなくても「度」と「回」の違いから、何となく感じとっていますね。書き手である記者の方も、もしかしたら意識して使い分けていないのかもしれません。しかし無意識のうちに表れてしまっている。先生はそれを知っているから、ますます…。

飯田

そう、にんまりです(笑)。

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一方で、こうした日本語の数え方を使いこなせていないという傾向もあるようです。

飯田

数え方がある限りは、なるべく使った方が良いと思います。そもそも数え方とは、必要だから、便利だから生まれたものであって、それをすべて「個」や「つ」にしてしまうのは、もったいないと思います。
ただ、調べてみると、面白い事に最近は「個」と「つ」の使い分けが進んでいるようなんです。例えば学生が質問をする時には、大体「一個、質問して良いですか?」と言って来るのですが、私なども「一つ」じゃないの? と思う。ところが彼らにすると「一つ」と言ってしまうと、先生がその場で答えられないような難しい質問をする感じだけど、「一個」と言えば、簡単に答えられる軽い感覚があるというんです。友達にも「一個頼んで良い?」と言うと、すぐやってくれそうだけれども、「一つ頼んで良い?」と言うと、ちょっと構える感じがある。このように「一個」は、彼らのコミュニケーションの軽さや気軽さを演出する道具でもあり、それを巧みに使い分けている。ですから、一概に「個」や「つ」を使っちゃだめとは言えませんし、そこに変化を感じます。
とはいえ全てを「一個」、「一つ」だけで済ませるのは、モノに対する反応が鈍くなっているとしか言いようがないですね。ですから学生達には、それでは「不便だぞ」と言っています。せっかくこれだけ数え方というモノのとらえ方があるのだし、それによってすごく色々なことが表現できるのに、それをわざわざ捨ててしまうのは、とてももったいない。こんなにも素敵なものがあるのだから、それを工夫して使ってみれば良いと言っています。
ただ、彼らは新しいものを発明するのが好きなので、新しい数え方が発明されるのではないかとも期待しています。江戸時代と同じく、必要に応じて便利なものを発明していくというシステムは、今も変わっていないでしょう。むしろ、共通の数え方の概念があるからこそ、そうした揺れがあるのだと思うのです。

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年代によるボキャブラリの違いもあるとは思うのですが、それも共通認識があるからこそなのですね。お話を伺うにつけ、数え方をちょっと意識することで、話し方だけでも、見えてくるものがとても多いと感じました。

飯田

日本語の数え方には、たくさんの情報が入っていて、それを読み解く楽しみがあるんです。雑学として知識を得る事ももちろん面白いと思いますが、それら数え方のバックグランドには、例えば昔の人が頭に被る笠と、差す傘を分けていたからこそ「一蓋」「一本」という数え方あるということを知って欲しいと思いますね。

モノの姿が凝縮される「一枚」という数
飯田朝子(いいだ・あさこ)
東京都三鷹市生まれ。中央大学准教授。東京女子大学卒業後、慶應義塾大学大学院文学研究科英米文学科英語学専攻修士課程修了、東京大学大学院人文社会系研究科言語学専門分野博士課程修了を経て現在に至る。専門は、言語学(日本語と英語の意味研究、インターネットを使った英語教育)。主な著作に『数え方の辞典』(小学館)、『数え方でみがく日本語』(ちくまプリマー新書)、『日本語なるほど塾』テキスト(日本放送出版協会)、『数え方もひとしお』(小学館)、など。趣味は大相撲観戦。
 
●取材後記
毎回、いろいろな方にお話を伺う度に、新しい発見があるのだが、今回は特に取材中「へぇっ!」「本当ですね!」と感心する場面が多かった。普段使っている言葉に、そんな意識が隠れていたなんてと、驚くばかり。そして数え方に隠されたこんな秘密を知ってしまった今は、話し相手の隠れた気持ちを読む事に秘かな喜びを感じるようになるのかもしれない。
構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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