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ニッポン・ロングセラー考 Vol.53 玉露園こんぶ茶 なぜかほっとするこの一杯赤い缶は風味茶の代名詞になった

薬種問屋時代の経験が生んだ、元祖インスタント飲料

創業者・藤田馬三氏

玉露園の創業者・藤田馬三氏。商売人であり、発明家でもあった。

工場

昭和38年に完成した所沢工場。

昆布茶というと、喫茶室ルノアール(首都圏中心の老舗喫茶店チェーン)を思い出す。
学生の頃、コーヒー一杯で長居していると、昆布茶が運ばれてきた。長っ尻の客に昆布茶を出してくれるのが、貧乏学生にはただただ、嬉しかった。もう20年ほども昔のことだが、なぜかこの昆布茶の味が忘れられないでいる。

昆布茶の歴史は定かではないが、江戸時代には既にあったらしい。刻み昆布に熱湯を注いで飲み、飲んだ後は出がらしとなった昆布を食べる。いわゆる風味茶として好まれていたようだ。
私たちがよく知っている粉末の昆布茶が登場したのは、1918(大正7)年の事。作ったのは、玉露園の創業者・藤田馬三(うまぞう)氏。そう、玉露園の「こんぶ茶」こそが粉末昆布茶の元祖なのだ。と同時に、こんぶ茶はインスタント飲料の元祖でもある。フリーズドライのインスタントコーヒーが市販されたのは38(昭和13)年だから、それよりずっと早かったわけだ。

1894(明治27)年、静岡に生まれた馬三は、若くして上京し、いくつかの職に就いた。中でも貴重な経験となったのが、薬種問屋(和漢薬を売る店)で覚えた薬の調合。ここで馬三は、薬研(やげん)という器具を使って薬を擦り下ろす技術を身に付けた。その後、馬三は叔父が経営する食料品屋で働き、お茶の仕入れと販売のノウハウを習得。1916(大正5)年に独立し、東京・亀戸に茶補「静岡園」を開店した。

馬三の才覚が発揮されるのはここからだ。店は持ったが、競争の激しいお茶屋業界で生き抜くには特別な何かが必要。他店にない新しい味を求めていた彼が目を付けたのが、昆布茶だった。
江戸時代から連綿と続く昆布茶は、昆布に湯を注ぐだけの簡単なもの。昆布特有の旨味はあるが、特徴はそれだけともいえる。馬三は考えた。「味に工夫を凝らし、もっと簡単に飲めるようにすれば、昆布茶もコーヒーや紅茶のような嗜好品になるはずだ」と。
昆布茶を粉末にし、お湯に溶かして飲む──それは、ほかの誰も思い付かなかい奇抜な発想だった。


守り続けた確かな品質が、消費者の心を掴んだ

昔のこんぶ茶いろいろ
昭和30年代のこんぶ茶。パッケージには50杯分で100円と書かれている。
昭和30年代の缶

昭和30年代のこんぶ茶の缶。サイズは大、中、小があった。

看板車

昭和30年代に活躍したこんぶ茶の看板車。玉露園は街頭宣伝にも力を入れていた。

まずは味の良い昆布を見つけなければならない。馬三は東北、北海道、樺太(現ロシア連邦サハリン州)へ向かう旅に出て、海岸線沿いにくまなく昆布を探して歩いた。汽車の中では入手した昆布を噛み続け、宿では煮汁を濃くしたり薄めたりして嘗めたという。
その結果、馬三は北海道知床岬の付近で採れる、羅臼産の昆布を使う事に決めた。ここで採れる羅臼昆布はリシリ系エナガオニコンブとも呼ばれ、繊維質が軟らかく、香りが非常に良いのが特徴。だしはもちろん、高級塩昆布や煮昆布としても使われる最高級品だった。

東京に帰った馬三は寝食を忘れて昆布だしの採り方を研究し、入手した中から最も飲み物に適した昆布を探し当てた。その昆布を薬研にかけて粉末にし、更に塩、砂糖などの調味料の配合を検討。何もないところから新たな商品を生み出すのは簡単な事ではなかったが、1918(大正7)年、ついに念願のこんぶ茶を作る事に成功した。
最初は個人商店での細々とした商売だったが、これが大成功。「今までの昆布茶よりずっと美味しい」「お湯を注ぐだけで飲めるのに、味わい深い」と、その品質が高く評価されたのだ。何よりも馬三を勇気付けたのは、お茶の好みがうるさい東京人に支持された事だった。

この時期の多くの商売人たちと同様、馬三もまた、1923(大正12)年の関東大震災と45(昭和20)年の太平洋戦争敗戦によって、大きな打撃を受けている。それでも、震災後の30(昭和5)年には東京・神田に新たな拠点「玉露園」を開店し、こんぶ茶だけでなく、粉末茶の新商品「宇治グリーンティー」(後の「玉露園グリーンティー」)を販売した。
この頃、馬三はこんぶ茶を全国ルートに乗せるため、既存のお茶屋との間で「お茶(日本茶)を扱わない代わりにこんぶ茶を置いてもらう」という契約を結んでいる。それでいながら玉露園という商号を付けたところが、馬三のしたたかなところだ。更に35(昭和10)年には「のり茶」を販売。この頃になると同じような昆布茶を売る同業社もあったが、既に玉露園は他社の追随を許さないトップメーカーとなっていた。
ちなみにお馴染みの赤い缶は、最初の頃から使われているこんぶ茶の大切なアイデンティティー。今もしっかり守られている。

馬三のこんぶ茶にかける情熱が伝わってくるエピソードがある。
太平洋戦争の戦局が拡大し、様々な経済統制法が施行されると、当然ながらこんぶ茶も製造する事が難しくなった。ところが慰問品用として昆布茶が喜ばれた事もあり、多くの同業他社は代用原材料を使って品質の劣った製品を作り続けた。それでも作れば金になるし、何も作らなければ会社は困窮する。が、このとき馬三はこんぶ茶の製造をきっぱりと諦めた。「今、信用を落としたら、戦争が終わった時に商売を再開できないかもしれない」そんな思いがあったのだろう。
戦後、バラックのような小屋で馬三が再びこんぶ茶を作り始めた時、戦前戦中の得意先はこぞって歓迎してくれた。「玉露園のこんぶ茶、只今入荷!」という貼り紙が小売店の店先を飾り、お客がどんどん集まった。消費者もまた、玉露園のこんぶ茶との再会を待ち望んでいたのだ。


積極的な広告展開と「うめこんぶ茶」の登場

陳列コンクール

1981(昭和56年)年に実施された「第3回玉露園こんぶ茶大量陳列コンクール」。こんなイベントも頻繁に開催された。

藤田英二氏の顔写真

戦後の玉露園を大きく発展させた2代目社長・英二氏。現在は会長職にある。

戦後の玉露園を牽引したのは、馬三の次男にあたる英二(ひでじ)だった。馬三に厳しく商売の基本を叩き込まれた英二が社長に就任したのは1954(昭和29)年。以来、次々と大胆な方策を繰り出し、会社を急成長させていった。
なかでも、「玉露園のこんぶ茶」というブランドを認知させるうえで最も効果が大きかったのが、ユニークな集中PR作戦だった。英二は一年を通して宣伝する広告メディアを限定し、集中的なCM投下を行った。例えば「今年はテレビとラジオで行く」と決まれば、新聞や雑誌などの紙媒体には一切広告を出さない。逆に雑誌に出すと決まったら、新年号の婦人雑誌に付録として付く家計簿の全ての頁に、こんぶ茶の広告を入れるという具合。「広く薄くでは効果がない。範囲は狭くても着実にこんぶ茶を浸透させていこう」という独自の戦略だった。

また、英二は年配層に偏りがちなこんぶ茶の消費者層を心配し、若年層を掘り起こす事にも熱心だった。1973(昭和48)年には武道館で「ヤング歌の祭典」を開催。郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎など当時の人気歌手十数名を昼夜2回にわたって出演させ、3万人の観客を動員する事に成功した。

英二が残したもう一つの大きな実績は、約35〜40年前(正確な販売年は不明)に「うめこんぶ茶」を開発し、大ヒットさせた事だろう。
開発にあたり、原料の梅には日本一の品質と称される和歌山産の梅を使用。この梅で作った梅干しを最新の設備で凍結乾燥し、こんぶ茶に加えて完成させた。インスタントなのに梅の風味が損なわれていないところがポイントで、うめこんぶ茶は発売早々評判を呼び、その人気は今も変わらず続いている。年代によっては、こんぶ茶よりもうめこんぶ茶の方が売れた時があるという。

英二は、うめこんぶ茶以外にも「しいたけ茶」「ウーロン茶」など、様々な商品を世に送り出している。また、年賀商品として「こんぶ茶」と「玉あられ」をセットにして売るなど、販売面でもなかなかのアイデアマンだった。
商品そのものを大きく見直したのも英二だった。もともと昆布にはカルシウム、ヨード、カリウム、ビタミンなど数多くの栄養素が含まれており、これらが体内で吸収されやすいよう、こんぶ茶は遠赤外線で乾燥させた昆布を300メッシュという超微粒子サイズになるまで粉砕して作っている。ただ、これほどの微粒子になると、一定の品質を保ちながら長期保存するのが難しい。その問題を解決すべく、英二はこんぶ茶の粉末を大粒の顆粒状にした製品を作った。今は民生用はこの顆粒タイプが主流になり、粉末タイプは業務用と徳用に限られている。


 
TVの影響は無視できない! 拡大する調味料需要

こんぶ茶缶入り(顆粒)

最もベーシックな「こんぶ茶缶入り(顆粒)」。347円。内容量55g。

こんぶ茶業務用(粉末)

「こんぶ茶業務用(粉末)」。2100円。内容量1kg。

うめこんぶ茶缶入り(顆粒)

人気の高い「うめこんぶ茶缶入り(顆粒)」。347円。内容量50g。

昆布茶の市場規模は約50億円ほど。決して大きくはないが、玉露園はそこで約60%ものシェアを持っている。名実共に業界のリーダーカンパニーなのだ。
こんぶ茶の飲料需要は年々減りつつあるが、全体の販売量は伸びている。その理由は、主に業務用として使われる調味料需要にある。もともと原料は昆布で、しかも使いやすい粉末状。こんぶ茶は当たり前のように、昔から調味料としても使われてきたのだ。
相性が良いのは、おでんや煮込み料理、そして和風テイストのスパゲティーなど。今でも総菜店やスパゲティー専門店にはこんぶ茶を隠し味的に使っている店が多く、最近はコンビニ弁当にも使われている。業務用需要の伸びは、毎年10%にもなるという。

業務用としてだけでなく、最近は一般家庭でもこんぶ茶を調味料として使うケースが増えてきた。そのきっかけはテレビ番組だ。情報番組でこんぶ茶が健康にいいと取り上げられるだけで、その後の売れ行きは大きく違ってくる。実際、若い消費者には、こんぶ茶を飲料ではなく調味料として買っている人も少なくないようだ。この点は、玉露園にとって嬉しくもあり悩ましくもあるところ。消費者層の裾野が拡大するのは嬉しいが、やはり飲料需要をもっと伸ばしたいというのが本音らしい。

もちろん、玉露園もさまざまな手を打って飲料需要の喚起、特に若年層の掘り起こしに力を入れている。某ファミリーレストランのフリードリンクコーナーにはうめこんぶ茶が置かれるようになったし、若い女性向け雑誌でモデルを使った宣伝企画も実施している。
個人的には、和のテイストがお洒落だという風潮がもっと広がれば、こんぶ茶は充分若い層に受け入れられるような気がする。緑茶や番茶、煎茶とは全く違うこんぶ茶ならではの味わいは、一度好きになったらハマる人も多いのではないだろうか。
食事やお酒を飲んだ後、ほっとひと息つきたい時のそのひと息が、コーヒーや緑茶を飲んだ時とは微妙に違うような気がするのだ。

冒頭に書いたルノアールに行ってみた。営業マン御用達のレトロな喫茶店は、20年前とほとんど変わらぬ姿で同じ場所にあった。メニューに昆布茶を見つけ、注文する。出された昆布茶が玉露園のものかどうかは分からない。でも、その一杯は想像していた以上に美味しかった。

 
取材協力:玉露園食品工業株式会社(http://www.gyokuroen.co.jp/
     
エコ化を進め、ポリ容器からスタンドパックへ
こんぶ茶スタンドパック
コラビタ緑茶スタンドパック
「こんぶ茶スタンドパック」。内容量は60gで、缶よりちょっぴり多い。347円。
コラーゲンとビタミンCを配合した「コラビタ緑茶スタンドパック」。525円。内容量40g。

こんぶ茶に関する近年のトピックは、容器が変わりつつあることだろう。
玉露園は従来あった丸い筒型のポリエチレン容器を止め、チャックが付いたスタンドパックへの切替を進めている。スタンドパックの特徴は、「湿気にくい」「中身が分かりやすいデザインになっている」「スタンドタイプなので保管しやすい」「従来のポリ容器より内容量がやや多い」といったところ。見逃せないのは「ゴミの量を減らせる」というエコロジーの要素。消費者の環境意識が高まりつつある昨今、リサイクルしにくい素材を使い続けることは企業にとってマイナスイメージになるのだ。
こんぶ茶、うめこんぶ茶だけでなく、健康緑茶の「コラビタ緑茶」もスタンドパックで販売されている。もちろん、お馴染みの赤い缶は継続販売。金属缶はリサイクルしやすいのだ。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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