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ニッポン・ロングセラー考 Vol.58 ビッグジョン BIG JOHNジーンズ 聖地・児島から生まれた国産ジーンズ第1号

国産ジーンズ黎明期の60年代に、いち早く登場

尾崎小太郎氏

BIG JOHNの生みの親、尾崎小太郎。ちなみに同じ岡山に本社を置く「BOBSON」の創業者は小太郎の実弟である。

岡山県倉敷市児島。瀬戸内海に面し、瀬戸大橋の本州側起点としても知られるこの地域では、昔から綿花の栽培が盛んに行われていた。それはやがて製糸業、繊維業、縫製業へと発展し、明治・大正時代には足袋、昭和に入ってからは学生服と作業服の分野で、児島は日本随一の生産拠点となってゆく。香川県生まれの尾崎小太郎もまた、児島での縫製業に大きな可能性を見出していた一人だった
1940(昭和15)年、作業服を製造する個人商店からスタートした尾崎は、戦後間もなく学生服の製造に乗り出す。ところが学生服の素材がウールや綿から合成繊維へと変わり、その供給先が大手数社に限られていたため、尾崎は学生服作りを断念せざるを得なかった。縫製業の激戦区にあって、作業服だけでやっていくのは難しい。なんとしても新しい事業分野を見つける必要があった。

きっかけは思わぬところからもたらされた。東京出張に出かけていた営業マンが、上野のアメ横で入手した古着のジーンズを持ち帰ってきたのだ。日本に持ち込まれた正確な時期は不明だが、戦後の闇市で米軍の放出品が出回り、1950(昭和25)年頃にはアメ横でジーンズが売られていたらしい。衣料品の輸入は認められていなかったのですべて古着だったが、これが日本人の間で飛ぶように売れていた。
初めて目にするジーンズに、尾崎は目をみはった。「素晴らしい。デニム生地はこんなに厚くて丈夫なのか。これなら作業服製造のノウハウが活かせるかもしれない」そう考えた尾崎は、自らジーンズを作ることを決意する。

M1002

記念すべきファーストモデル「M1002」。ジーンズの原点とでもいうべき、シンプルなストレートだった。

馬蹄をモチーフにした初期のロゴマーク

60年代初期のBIG JOHNロゴ。馬蹄がモチーフで、ロゴタイプも今とは違っている。

衣料品の輸入は1957(昭和32)年に解禁され、尾崎はその翌年からジーンズの輸入・受託販売を開始した。古着は人気があったが、新品ジーンズは思うほどには売れなかった。デニムに糊が付いており、ゴワゴワして履き心地が悪かったのである。更にアメリカ人向けなので、サイズが大きすぎて日本人の体型には合わなかった。
輸入ジーンズを研究した尾崎は、柔らかくて履きやすい日本人に合ったジーンズを作ろうと考えた。面白いことに、1950年代後半から60年代初めにかけて、児島と東京にあるいくつかの会社がほぼ同じタイミングでジーンズの製造に乗り出している。縫製業者にとって、ジーンズはそれほど魅力のある衣料品だったのだ。

1960(昭和35)年、尾崎は会社(当時は「マルオ被服」)を興し、「BIG JOHN」ブランドで初の国産ジーンズを製造した。ただし当時の日本には、現在流通しているようなデニムを生産する技術がなく、生地はすべて輸入物。当然、縫製や加工のノウハウもない。厚いデニムを縫製するためにはミシンを改良し、丈夫な糸やファスナー、リベットなどを一から開発しなければならなかった。
完成した商品は東京や大阪で細々と売られたが、この頃の詳しい資料はビッグジョンにも残っていない。ちなみにBIG JOHNというブランド名は、創業者・尾崎小太郎の名前をもじったもの。日本でメジャーな名前が太郎なら、アメリカではジョンだろうということで「SMALL JOHN」になりかけたのだが、SMALLではちょっと、ということからBIG JOHNとなった。

自社ブランドを立ち上げたものの、ビッグジョンにはまだ商品を流通させるだけの販路がなかった。その後数年は他社ブランドのジーンズを製造する時代が続いたが、1964(昭和39)年から、ついに本格的な製造を開始。翌年にはブランド名と品番を表に出した初の国産ジーンズ「M1002」を発売した。これが、公式にはBIG JOHNブランドのファーストモデルとされている。


ベルボトムが大ヒット! 急成長を遂げた黄金の70年代

1977年の広告ポスター

バックポケット・フラッシャーを集めた1977年の広告ポスター。当時の膨大な製品ラインアップが伺える。

ワールドワーカーズの広告ポスター

「ワールドワーカーズ」の広告ポスター。特にオーバーオールが人気だった。

70年代のロゴマーク

70年代のBIG JOHNロゴ。以降はハイフンがなくなったり、ロゴの太さを微調整しながら現在に至っている。

70年代のベルボトム
70年代のBIG JOHNベルボトム・ジーンズ。当時の若者文化を象徴する存在だった。今もデッドストック物には高値が付いている。
ベルボトムの広告ポスター

ベルボトム・ジーンズ「S-70」の広告ポスター。裾幅は30cmを越えていた。

「M1002」の登場以降、ビッグジョンは販売店を通じて消費者ニーズを探り、それに応える形で商品を作るマーケットインの手法を採り入れてゆく。60年代後半に登場した「スリムフィット」も、「もっとぴったりしたジーンズが欲しい」というユーザの声に応えて登場したものだった。
こうした商品戦略に加えて、1969(昭和44)年からはセールスディビジョン制度を導入。全国各地に営業所を作り、本社が岡山の小都市にあるという販売面でのハンデを克服していった。この時期に販売網を整備したことが、後のビッグジョン成長への布石になっている。

1960年代後半、アメリカでヒッピームーブメントが巻き起こった。ジーンズは若者たちの間で自由や反体制を象徴するユニフォームのような存在になり、ワークウェアからファッションアイテムへと変貌を遂げる。その中で生まれてきたのが、裾広がりのシルエットを持つベルボトム・ジーンズだった。
ヒッピームーブメントは世界中の若者たちに影響を与え、日本でも長髪にヒゲ、ジーンズ姿の若者たちが街に溢れた。この若者文化の変化をいち早く察知し、日本で最初にベルボトム・ジーンズを発売したのがビッグジョンだった。1971(昭和46)年に全国発売された「S-70」は、男女を問わず多くの若者たちに受け入れられ、一大ブームを巻き起こした。60年代初期のストレートに始まり、スリムとベルボトムが加わって、ジーンズは若者ファッションの代名詞となったのである。

この時期、ビッグジョンが大きく飛躍した要因のひとつに、大規模な広告戦略があった。人気のテレビ番組「月曜ロードショー」へのスポンサー提供、当時若者ファッションのリーダー役を果たしていた雑誌「メンズクラブ」への広告出稿などにより、ビッグジョンの名は若者以外にも広く知られるようになる。
1973(昭和48)年からスタートした全国ネットのテレビCMは、ジーンズメーカーとしては初の試みだった。中でも話題になったのは、ジョン・デンバーの「太陽を背に受けて」をBGMに使ったCM。古き良きアメリカ文化を想起させるCM作りはその後も続き、ビッグジョンが国産ブランドであることに気付かない人々も多かったという。

70年代半ばは、ビッグジョンがジーンズメーカーからカジュアル衣料メーカーへ成長していく時代でもあった。1975(昭和50)年には「ワールドワーカーズ」を発売。ペインターやオーバーオールなど様々なアイテムをトータルに展開し、ワークウェアとしてのジーンズの新しい方向性を打ち出した。以降はダウンジャケットやネルシャツなども手掛け、ビッグジョンはジーンズを若者たちだけのキャンパスファッションから、年齢を気にせず着られるアウトドアファッションへと転換させてゆく。
同時に、ビッグジョンはジーンズそのもののトレンドにも敏感だった。レギュラーカットやブーツカットなどシルエットを拡充させると共に、1976(昭和51)年には従来よりも厚手のデニムを使用した「エクストラ」を発売。これは後に続くヘビーオンスデニムの先駆けとなった。また、1978(昭和53)年には「WE SAY CORDS」キャンペーンを打ち、コーデュロイジーンズを強力にプッシュ。デニム以外のジーンズの魅力を積極的にアピールした。

 


素材へのこだわりと、創意工夫に満ちた加工技術

シェービング加工

シェービング加工しているところ。着古した味を出すためには欠かせない作業だ。

工場内

工場での縫製過程。国内は山口県平生に、海外は香港に工場がある。

本社

岡山県倉敷市児島にある本社社屋。支社・支店は全国5ヵ所にある。

BIG JOHNブランドを語る上で忘れてならないのは、素材と加工というジーンズの2大要素における功績だろう。
ビッグジョンが1968(昭和43)年に業界で初めて採り入れたワンウォッシュ加工「ビッグウォッシング」は、その後のジーンズ加工のスタンダードとなった。これは、完成したジーンズを大きな洗い釜に入れて水洗いするというもの。デニム特有のゴワゴワ感をなくして独特の風合いを与え、優れた履き心地を実現した。同時に「洗うと縮む」「色落ちする」という、残る2つのデメリットも解消。国産ジーンズの洗いの歴史は、ここから始まったとも言える。

その後、ジーンズの洗い加工は塩素系漂白剤を使ったブリーチやフェードの時代を経て、ジーンズを石と一緒に洗うストーンウォッシュの時代に入る。ビッグジョンは1979(昭和54)年に水洗いとストーンウォッシュを併用した「Wウォッシュ」を開発。80年代に入って酸化剤を含ませた軽石と一緒に洗うケミカルウォッシュが主流になると、ビッグジョンもケミカルウォッシュの一種である「H/R(ハードロック)ウォッシュ」を導入。以降、ジーンズの洗い加工はセルロース分解酵素を使うバイオウォッシュなどを経て、今は各社が様々な加工を混合した独自の手法を採り入れている。
ビッグジョンに限らないが、こうした洗い加工は早くから専門の業者が請け負っていた。児島には染色やクリーニング業からジーンズの洗い加工に転身する業者が多く、ジーンズ業界の裾野をしっかりと支えているのである。

素材面での変化は70年代前半に起こった。ジーンズが世界的な商品になると共に、デニムの供給問題が発生したのである。当時、国産メーカーはみなアメリカのデニムメーカーからデニムを仕入れており、供給量も価格もデニムメーカーのコントロール下にあった。それだけでなく、納期が間に合わなかったり、届いたデニムの品質にバラツキがあったりもしたという。そうした中で、児島のメーカーを中心に、自分たちでデニムを生産しようじゃないかという機運が高まってきた。
ビッグジョンは、取引のあった地元の大手紡績メーカー「倉敷紡績」と協力してデニムの開発を進めた。だが倉敷紡績にもデニムを織る技術や織機はない。開発には時間がかかった。結局、従来の力織機に代えて高速自動織機を導入するなどして、1973(昭和48)年に初の国産デニム「KD-8」の開発に成功。同年、ビッグジョンはこのデニムを大々的にジーンズに採用した。

実はこれが素材を含めた純国産のジーンズ第1号なのだが、意外なことに、当時ビッグジョンは国産デニムを使っていることを公表していない。これは、消費者の間に「ジーンズは舶来品の方が物がいい」という先入観が根強くあったからだ。今でこそ国産デニムの品質が認められ、世界中から引く手あまたになっているが、ほんの10年ほど前まで、日本の消費者は国産デニムにほとんど目を向けていなかったのである。


 
再び注目されるビッグジョンの生まれ故郷、“ジーンズの聖地”児島

輸出用
レアジーンズ

輸出用ジーンズのフラッシャー。

国産ヴィンテージジーンズの源流とも言える「レアジーンズ」。当時のマニアも仰天する内容だった。

SP104
MH402B

ファーストモデル「M1002」のコンセプトを受け継いだ現行商品「SP104」。専門店またはネットショップでしか買えない。

数少ない現行ベルボトム・ジーンズのひとつ。シルエットは「S-70」と変わらない。購入は専門店またはネットショップにて。

黄金の70年代が終わり、80年代に入るとジーンズはデザインの時代に入る。ジーンズの流行はアメリカ西海岸の老舗ブランドから東海岸のデザイナーズブランドへ、更にはヨーロッパへと移り、いわゆる「ディナージーンズ」が隆盛を極める。ビッグジョンもデザインカテゴリーをまとめた新ブランド「スパナ」を販売したが、ベーシックな商品群ほどには売れなかった。
一方で、海外バイヤーの見方は違っていた。1980年(昭和55)年にドイツのケルンで開催されたジーンズの世界見本市で、ビッグジョン始めとする日本の国産ブランドのデニムの品質やフィット感が高く評価されたのだ。自信を得たビッグジョンはその翌年にアメリカ進出を果たし、BIG JOHNブランドのレディースジーンズを発売。商品は多くの百貨店で飛ぶように売れた。

90年代以降、消費者のジーンズに対する嗜好はどんどん多様化し、複数のムーブメントが連続的に発生してくるようになる。「テンセル」素材を使ったソフトジーンズが婦人物を中心に流行ったかと思えば、ベルボトム・ジーンズが復活したり、カラータイトジーンズのブームが起こったりと、簡単には消費者ニーズを掴みにくい時代になった。
そんな中、メンズの世界ではセレクトショップを発信源に、いわゆる「渋カジ」が新たなブームになる。ここから火が付いたのがヴィンテージジーンズだった。

国産ジーンズのヴィンテージを追っていくと、ビッグジョンが1980(昭和55)年に発売した「レアジーンズ」の話が必ず出てくる。これは同社が世界最高峰を目指して開発したジーンズで、わざわざ古い力織機を持ち出して織ったデニムを使うほど凝ったものだった。価格は通常のジーンズの約3倍にもなる1万8000円。企画が早すぎたためか販売的には失敗したが、偶然にも力織機で作ったデニム生地という財産が残った。昔ながらの風合いを持つそのデニムが、80年代に大阪を中心としたジーンズショップの目に止まり、ヴィンテージテイストのジーンズを生み出してゆくことになる。
「あの生地はどこで作っている?」ヴィンテージジーンズのファンが、ビッグジョンが国産ジーンズ第1号を作った1960(昭和35)年から約40年の時を経て、児島にスポットを当てたのだ。やがて児島は“ジーンズの聖地”と呼ばれるようになる。

ここ数年、トップスを含むジーンズの年間総生産量は約8000万着前後を推移しており、90年代からあまり変わっていない。だが、ビッグジョンにとってはそう安穏としていられる状況でもないようだ。高価格商品のマーケットにはセレクトショップを中心に展開するオリジナルブランドという強敵が存在し、低価格商品のマーケットは総合カジュアルメーカーに奪われつつあるからだ。老舗のビッグジョンといえども、厳しい状況が続いているのである。
それでも、BIG JOHNブランドのジーンズは、これからもロングセラーであり続けることだろう。
常に高い品質を維持しながら、素材や加工で新たなチャレンジを続けてきたパイオニアスピリットは、今も全く変わっていない。

 
取材協力:株式会社ビッグジョン(http://www.bigjohn.co.jp
     
最新のBIG JOHNジーンズは仕立屋が作る?
ザ・テーラードMF1041
「ザ・テーラード」MF1041は、ふくらはぎから裾にかけてまっすぐ伸びたパイプドストレート。

ヴィンテージジーンズのブームは続いているが、ビッグジョンのような大手メーカーにとって、絶対数は決して多くない。販売の主力は、やはり付加価値の高い上級ラインの製品ということになる。昨年、ビッグジョンが発売したプレミアムジーンズが「ザ・テーラード」だ。
まるで仕立屋があつらえたかのようなフィット感を備えているのが特徴だという。シルエットは「パイプドストレート」「シューカット」「テーパード」の3タイプが用意され、それぞれ膝から裾にかけてのシルエットが異なる。細身のシルエットだけでここまでこだわるのも凄いが、ジーンズの差別化ポイントはこういうレベルにまで来ているということなのだろう。カラーはそれぞれに3タイプある。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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