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かしこい生き方 メディアアーティスト 銅金裕司さん
確実に生きている植物の様植物の声を聞いてみた

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銅金さんは植物を扱った作品を多く制作されていますが、植物をテーマに据えたきっかけなどあるのでしょうか。

銅金

僕は今、美術の世界にいますが、元々はいわゆる理系が専門です。最初は海洋学。それから植物に興味が移り、ランの研究を専門としていました。ランは、とても種類が豊富で、例えば皆さんがよく知っているカトレヤもランの仲間です。他にもシンビジウムにコチョウランなど、地球上に約3万種あるんです。

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ランだけで3万種類ですか? ランを趣味とする方も多いですが。

銅金

僕にとっても魅力的な植物です。それで相当マニアックにランの研究をして(笑)、博士号まで取得したのですが、それでもまだまだランの事が分からない。ところが分からないけれど、日々、接していると「植物の様子」を感じるんです。例えば、今、ここにあるこのコチョウランは、どういう様子にあると思いますか?

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様子ですか…。

銅金

そんな事、聞かれても分からないですよね(笑)。どういう様子にあるか、その存在をどう受け止めれば良いかなんて、考えたことないでしょう? でもね、毎日接していると、ちょっと擬人的ですが「今日は機嫌が悪いのかな」「変だな。あ、花が咲くのかな?」という、植物の微細な変化が感じられるんです。その感覚を取り出す方法はないかと思って作ったのが「プラントロン」でした。

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発表されたのは1992年でしたよね。植物の葉などの表面に流れる微弱な電位変化を測定して、コンピュータで解析して、その変化を音に変換するという作品でした。

銅金

植物に限らず、人間やすべての生き物の表面上では、微細な電気変化(生体電位)が起きています。脳波のようなものですね。それを感知するために植物に電極を付けて、コンピュータにつなげて、その電気変化を視覚化、音響化したものが「プラントロン」なんです。検出された結果は、植物に触れている時に自分が感じた在り方と似ていなくもない。「調子が悪そうだな」と感じた日は、電気変化も低調だし「今日は頑張っているな」と感じた日は、変化に満ちている。もちろん、人間自身の体表上でも電気変化は起こっていますから、人間が植物に近づいたり離れたりするだけで干渉は起きます。けれども人間からしたら置物のような存在である植物が、根を張って、葉っぱをすっと伸ばして、殊によったら僕ら人間を感じているかもしれない。そういう、植物が確実に生きている様がそこにあるんです。

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プラントロンの展示は「植物が声を出しているとしたらこんな風なんだ」と思うと、植物が生きていることが急に生々しく感じられ、衝撃的でした。

銅金

そうでしょうね。更に植物は、二酸化炭素を吸って酸素を出している。僕らは、その酸素を吸って二酸化炭素を出している。そうやって僕らと植物はやりとりしながら、バランスを取ってそれぞれ活動しているんです。

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そうした、普段の生活で忘れてしまっていたことを、改めて意識させられた展示でした。

銅金

そうです。でも「プラントロン」で示した事は、僕自身は既に知っていた、感じていた事であって、未知のものをコンピュータで分析して解明したというのではない。僕らの五感が捉えた対象を、改めて分かりやすく見せるために機械がサポートしてくれるような仕掛けを作ったつもりで、そこが僕にとってはとても重要なんです。これは他の作品にも通じる点です。

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データを取ってみた結果「何かが分かった」のではなく、根底にまず人間の五感があると?

銅金

ええ。まずその対象を触ったり、嗅いだりする。その時に自分の五感で捉えた現象を機械を使って分かりやすくする。「プラントロン」の場合は、目の前の植物に対して自分がどのように感じていたかという事が前提としてありました。

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今回はランの置かれた大きなバルーン内の二酸化酸素濃度に応じて、灯りが付いたり消えたりするという展示です。バルーンの中にランだけの時には暗かった室内も、人間が中に入って呼吸していると、徐々に明るくなっていきます。

銅金

今から20年以上前に、植物が光合成を行う時に、葉がどれ位、二酸化炭素を吸収して酸素を出すかを計測しようとしたのです。ところが、当時も、いえ今ですら、葉の全体、ラン全体でどの程度の排出量かを計測する装置というのはないんです。「おかしいな」と思って、そこでラン全体で、どういう現象が起きているのか計測出来る装置を作ろう、植物を丸ごと覆うようなものを作ろうと考えたわけで、それが今回の作品につながっているんです。けれども計測して、結果が出るというだけではなくて、装置の中の二酸化炭素濃度がどう変化するのか、人間と植物が一緒にいると、どうバランスを取るのか示そうと思ったんです。昔に比べて、今は「CO2」などという言葉を皆が知っている状況ですし、今後数年で、二酸化炭素濃度も問題になってくるでしょう。

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濃度ですか?

銅金

例えば、二酸化炭素濃度が1000ppm以下なら大丈夫、1500ppm以上ならば注意が必要といった事が流布していくと思いますよ。

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先程、私もバルーンの中に入りましたが、銅金さんがバルーンへの空気送風用のチューブを手で握って閉じた瞬間「酸素が無くなる!」と焦りました。

銅金

この展示のポイントの一つはそこです(笑)。空気って普段、意識しないものですよね。身の回りにたくさんあるはずなのだけど見えないし、得体が知れない。けれど空気が無いと大変な事になるという感覚は、皆持っているでしょう? だからチューブが閉じられると「あれ? 閉じたら、まずい事になるんじゃないの?」と中に入っている人は感じるし、同時にバルーンの中の二酸化炭素濃度が上がって、室内が明るくなっていく。そうやって初めて、僕らが何を吸って何を吐いているのか気付くんです。

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「二酸化炭素はCO2」「酸素はO2」などといった知識があっても、それを意識することはありませんね。

銅金

そこに確かに存在するけれど、茫洋として分かりにくいもの、その感覚を捕まえて、数値として分かりやすく表現する、感じやすくする。それが今回の展示の目的です。「僕らが五感で感じられる世界」と言ったら大げさかもしれないけれど、空気や水、植物、人間でもいい、その五感で感じ得る何かについて、脳の中でシミュレーション的に知っている事がたくさんあります。その「空気版」を体験出来るようにしたのが、今回の展示です。

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銅金さんの動作を見ているだけで妙に息苦しくなり、「今、私は酸素を吸っていたんだ」と気付いた瞬間でした。

銅金

今この瞬間も、僕らは酸素を吸っているわけですが、この酸素は植物しか作り出せないものです。私達はそれを無限に享受している。逆に、個人が二酸化炭素をいくら出しても、特に怒られるわけじゃない。

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怒られた事は無いですね(笑)。

銅金

空気や水が無条件で与えられているということは、本当はすごい事なんじゃないか、と思うんです。それに植物や人間の関係性についても考えています。どれもテーマとしては、ともすれば暮らしの中で背景になってしまうものだけれど、我々を支えている、重要な基盤だと思うんです。それをしっかりと考えなければいけないという問題意識があります。

 

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植物は、二酸化炭素は出さないんですか?

銅金

夜は出します。でもランの一部は夜でも出しません。そこが興味深いところでもあって「光合成」と言うように、植物は光の元で生化学反応を行って酸素を放出し、一方、夜は呼吸だけになるので二酸化炭素を出します。でも夜間、二酸化炭素を吸収するだけの植物もいます。例えばランがそうなんですが、そういう植物は、植物界全体からしたらごく小数派。ところが、なぜかそうした特殊な植物が人間の周りには非常に多い。そして、そういうマイナーな植物程、きれいな花を咲かせるんですよね。「きれいな花」と思うのは人間の思いこみですから、向こうは人間に近づこうと思って、花を咲かせているわけではないと思いますけれど。

   

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不思議ですね。人間が知らない植物の戦略にも思えてきそうな。

銅金

ランに頼まれたわけでもないのに(笑)、人間は温室を作って、一生懸命頑張って花を咲かせようとする。他の生き物なんて、温室の中で育てても最後は人間が食べて終わりなのに、ランの花が枯れたら「心が痛む」となる。おかしいですね(笑)。

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私達は、極端な話、植物を「静物」と見なしている部分があります。それをプラントロンによって、「生物」であると気付かされた瞬間、当たり前の事であるはずなのに、戸惑うと言いますか。

銅金

自分達が今もっている感性の中で植物を捉えたら、動きのない、静止した「静物」でしょう。でも僕らの中には、植物的な部分が多々あります。例えば、髪や爪が伸びる事、あるいは内臓の世界というのは、非常にゆっくりゆっくりと動く植物的な動きと言えるでしょう。ウイルスで病気になったというような場合は別として、体調ってじわっと変化しますよね。そうした植物的な変化を「今日、治して、明日会社に行こう」と、我々は短時間で解決しようとする。変化を自覚した瞬間に動物的になるんですよね。だから病院に行って点滴を打ったり、薬を飲んで仕事をしたりする。本来は、そこに至るまでと同じ時間、例えばランが花を咲かせて散っていくというような植物的な時間をかけないといけない問題だと思うんです。そうした僕らの体にある植物的な世界をノックしてちょっと耳を澄ませば、植物に尋ねなくとも、おのずと返事が聞けるはずです。

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なるほど、私達は自分達自身にそういう時間軸を持っていましたね。

銅金

そうです。例えば、この小指の事を考えた事はありますか? 日頃、そんなこと考える人はいないでしょう? 小指に向かって「今日は、元気?」なんて言ったら変だし(笑)。考え出すときりがないし考えもしないけれど、ちょっとした傷が出来た途端に気になって仕方がない。そうやって、日頃、無視しているけれど実は大層なものが全身に細々とあるわけで、そうしたものを、植物時間というのかな――寝る前のひととき、植物が動いているような時の流れで自分を感じてみる。逆に植物が、どうあれば健やかなのだろうかと、植物を身近において感じる事は、ひいては僕達人間の事を考える事だと思うんです。

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目の前に動いている事だけでなく、じっくり見渡してみようというわけですね。

銅金

植物は僕らの身近にあります。野山にもあるし、花屋さんに行っても、公園に行ってもあるものですから、それらを自分の生活に取り込む事はとても簡単です。僕の場合は、植木鉢のまま、植物を自分の生活に引き寄せて一緒に暮らしています。そうして、それが一体どういうものなのかと日々感じる事で、その感性が他の所へと染み出していき、自分や周囲の人の事を考える上で、アプローチの仕方も変わってくる、視点がちょっと変わってくる。だからでしょうか、人からよく「変なところばかり見ている」と言われます(笑)。でも、意外に本質的な部分だったりするんです。

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実際、一連の作品を通して、私達の見方を刺激しているようにも感じます。

銅金

作品を見終わって「家に帰ったら、ちゃんと植木に水をあげます」と懺悔している人も結構います。「自宅の近所に街路樹があったことに気付いた」「庭に苔が生えていたのを見つけた」などなど、口にする人も少なくありません。そうやって日頃は見えていないものが見える、つまり展示を通して、その人の視野が広がったり、ものの見方がちょっと変わるのかもしれません。美術の作品として「きれいなものを見せる」という論調もあるでしょうが、僕は観る人の感性を、ちょっと突ついてみたい、ちょっと変えてみたいと思っています。

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ただ、植物が側にあることで、気持ちが穏やかになるのは間違いないようですが。

銅金

「植物は心の温泉」と言えば良いのでしょうか。人によって植物との相性はありますが、そうやって日々接して、感じる事で、心がぽわっと温かくなれる存在です。植物の感性を感じ取れる力があれば、だいぶ違う世界が見えてきて、人生が豊かになるのは間違いないと思っています。

ゆっくりと変わっていく植物的な時間を意識する
銅金裕司(どうがね・ゆうじ)
神戸市生まれ。学術博士 Ph.D(植物生理学、園芸学)、工学修士(海洋学)。東京芸術大学先端芸術表現学科非常勤講師。海洋学を修めた後、園芸に転向し千葉大学大学院博士課程修了。その後、学術的な新しい試みに挑戦しつつ、メディアアートで美術館、ギャラリーなどで作品展示、ワークショップ多数。http://wiki.livedoor.jp/dogane/
 
●取材後記
取材を終えて、ランをいただいた。帰宅してお気に入りの赤いガラスの皿を鉢の下に敷いて水をやる。踊り場の出窓に置いて、通る時には声をかけるようにした。花が咲いていてきれいだが、散ったらどうなるのだろう。プラントロンの展示を拝見した時には衝撃的だったが、今回、お話を伺った後だと、植物時間を意識して、何かとんでもない変化が訪れたらどうしようなんて気もして、楽しみだったり、緊張したり。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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