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ニッポン・ロングセラー考 Vol.70 はとバス はとバス 東京の町を快走するはとのマークの黄色いバス

バス10台、運転士7人でスタートした観光バス事業

東京定期観光バスの第1号車「富士」

東京定期観光バスの第1号車「富士」。当時のバスには代用燃料が使われることも多く、よく故障したらしい。

鳩のマーク2種

創業当時(左)と改訂後のシンボルマーク。改訂後のデザインでより鳩らしくなった。

初期の乗車券2枚組み初期の乗車券2枚組み

初期の乗車券。右は「都内半日Aコース」、左は「東京タワーAXコース」。

都心を歩いているとよく見かける、ひときわ大きな黄色いバス。ボディサイドに描かれているのは“HATO BUS”の赤い文字──東京観光といえば、誰もが連想するのはこの「はとバス」。その名は東京だけでなく、日本全国に広く知れ渡っている。「はとバス」は路線バスと同じように、決められた時間に発車して、決められたコースを運行する“定期観光バス”のひとつだ。定期観光バスは地域ごとにさまざまなバス会社があり、東京では「株式会社はとバス」だけが運行している。
「はとバス」による都内定期観光がスタートして、今年でちょうど60年。押しも押されもせぬロングセラーといっていい。今回はいつもとはちょっと趣向を変え、サービス業界のロングセラーを紹介しよう。

「株式会社はとバス」の前身にあたる新日本観光株式会社が設立されたのは、1948(昭和23)年の8月。設立に尽力したのは、東京地下鉄道出身の山本龍男という人物だった。終戦直後の混乱期にあって、山本は復興後の日本の姿を予見し、いち早く観光バス事業に目を付ける。東京で定期遊覧乗合バス(「青バス」と呼ばれた)の運行が開始されたのは25(大正14)年だが、戦争によって運行は一時休止。営業権は東京都が所有していた。都に営業権譲渡を申請していた山本は、タクシー会社と共同で会社を作って権利を取得。新日本観光は本社を上野に、車庫を中野に構えて業務を開始した。
同社が運行した最初の観光バスは、49(昭和24)年の元旦に出発した成田山初詣の団体貸し切りバス。会社が保有するバスは新車・中古車を合わせて10台あったが、運転士は7人だけ。仕方なくタクシー会社の乗務員を派遣してもらうこともあったという。

スタートこそ団体貸し切りバスだったが、新日本観光が本来の目的としていたのは、都内を巡る定期観光バスの運行だった。山本は、戦前の青バスのように都内を快走する新しい観光バスを夢見ていたのだろう。その夢が実現したのは、最初のバス運行から間もない1949(昭和24)年3月19日。「富士」と名付けられた第1号車は上野駅正面口から発車し、「都内半日Aコース」と名付けられたルートを3時間半かけて周遊した。
このコースの下車ポイントは、上野公園、皇居前、赤坂離宮(現在の迎賓館)、浅草観音の4ヵ所。午前と午後の1日2便を運行し、料金は大人250円だった。当時の大卒銀行員の初任給が3000円ほどだったから、かなり贅沢な観光だったといえるだろう。
スピード、平和、安全に元の場所に戻ってくるという信頼の証として、バスには鳩を図案化したシンボルマークが描かれた。翌年、このマークはより鳩らしく改訂され、同時に「はとバス」という愛称も正式に決定した。

人々の評判はどうだったのか。所々に戦禍の残る昭和20年代の東京には、それほど多くの見どころはなかった。「はとバス」も戦前までの名所旧跡を中心に回らざるを得ず、乗客が数人しかいない日もあったという。だが法的に路線バスと位置付けられる定期観光バスは、一人でもお客がいれば運行しなければならない。「はとバス」は辛抱強く運行を続け、やがて東京駅と新宿駅からも運行を開始。コースにも工夫を凝らし、毎年少しずつその数を増やしていった。
転機は昭和30年代以降にやって来た。高度経済成長と共に東京の町が急速に発展し、新しい見どころが次々と誕生したのである。空前の観光ブームにのり、以降「はとバス」は急成長を遂げてゆく。


時代を反映した多種多様なコースで乗客を魅了

松葉屋」のおいらんショー

夜のコースの目玉となった「松葉屋」のおいらんショー。

外国人向けコースのパンフレット

外国人向けコースのパンフレット。いずれも昭和30年代のもの。

納涼コースのガイド

1981(昭和56)年の「隅田川屋形船夕涼みコース」では浴衣姿のガイドが復活。

代々木プールとはとバス(左)乗車券

オリンピック開催時には「はとバス」が大活躍した。右は「オリンピック施設廻りコース」の乗車券。

ほとんどの観光バス会社はバスの運行のみに特化し、観光コースの設定などプラン作りは旅行代理店に任せている。「はとバス」が他の会社と違っているのはこの点だ。設立当時から一貫して自社で旅行プランを企画し、宣伝、営業を行っているのである。バスという乗り物を知り尽くしているからこそ、コースの面白さや斬新さだけでなく、バス旅行そのものの楽しさを追求できる。そうした観点から、開業以来「はとバス」は多種多様な観光コースを作成・運行してきた。代表的なコースをピックアップしてみよう。

最初期の「都内半日Aコース」に続いて登場したのは、1951(昭和26)年の「夜の定期観光コース」だった。午後6時にスタートし、歌舞伎座とフロリダダンスホールで下車。当時の銀座はまだ寂しいものだったが、地方客にとってはいたく感激する風景だったらしい。350円の料金ながら人気を集め、以降も新しい下車スポットを組み込んだコースが続々と誕生する。よく知られているのは、51(昭和26)年に登場した「夜のお江戸Eコース」だろう。60(昭和35)年からは老舗料亭「松葉屋」でのおいらんショーが組み込まれ、人気はさらに高まった。現在の夜のコースはニューハーフショーを組み込んだ企画が中心だが、おいらんショーも現代風にアレンジされ、複数のコースに組み込まれている。

外国人向けコースの登場も早かった。1952(昭和27)年に「昼の外人Sコース」を導入して以来、歌舞伎や日本舞踊、相撲など日本文化を採り入れた個性的なコースを次々と運行。70(昭和45)年には、外国人向けコースの輸送人員がピークに達している。
季節限定のコースが多いのも「はとバス」の特徴。最も早く登場したのは51(昭和26)年の「納涼コース」だ。東銀座で温泉に入り、向島で団子を食べてアサヒビールの工場を見学するこのコースは夏の恒例となり、67(昭和42)年には趣向を変えた「納涼スリラーコース」も登場。他にも、相撲や野球などの開催時期に合わせたスポーツ観戦コースが定番となっている。

「はとバス」は東京に新名所ができると、いち早くコースに採り入れていった。1958(昭和33)年に東京タワーが完成すると、翌年には「東京タワーAXコース」を運行。昭和40年代に高層ビルの建築ラッシュが続くとすぐさまコースに組み込み、昭和末期から平成にかけて大型テーマパークのブームが到来した時は、「東京ディズニーランド一日」「サンリオ・ピューロランド一日」などのコースを運行している。平成になってからも、「臨海副都心とゆりかもめコース」「東京ベイサイドとアクアラインコース」など多数のコースが登場。新名所を巡るコースは常に人気が高いという。
大型イベントと絡めたコースも数多く登場している。1964(昭和39)年の東京オリンピック開催時に運行した「オリンピック記念コース」は大ヒットを記録。以降も78(昭和53)年の宇宙科学博覧会や89(平成元)年の横浜博覧会などで特別コースを運行し、入場客の便を図ってきた。

1960(昭和35)年の「ボウリング・ゴルフBGコース」、93(平成5)年の「夢舞台・ジュリアナ東京と舞浜リゾート」のように、世相を反映したコースも数多い。経済が成長して高級志向が加速した昭和50年代には「東京フレンチナイトコース」、バブル期には「粋と雅・赤坂高級料亭コース」などが登場。2万円近いコース料金にも関わらず、女性を中心に人気を集めた。

ロングセラーもあれば、短期間で姿を消すコースもある。60年の歴史で作成・運行されたコースの数は、もはや数え切れない。毎年5、6回発行されるパンフレットには、定期観光・募集型企画旅行合わせて常時100以上のコースが掲載され、ホームページ上には300種類以上のコースが掲載されている。もちろんすべてのコースが毎日運行されているわけではなく、季節や日時が限定されているものがほとんどだが、この選択肢の多さには舌を巻く。中にはそれほど人気のないコースもあるが、あえて残しているのは、利用者に「はとバスに乗れば東京のどこへでも行くことができる」という夢を持ってもらいたいからだという。
ちなみに最初に登場した「都内半日Aコース」は、名称(「東京半日Aコース」)とルートこそ変わったが、今もしっかり残っている。都内半日観光の決定版として、これだけあるコースの中でも人気は常にNo.1。選択肢は山のようにあるが、「はとバス」の原点は今も全く変わっていないのである。

 

観光の花形、バスガイドは女の子の憧れの職業だった

初期のバスガイド
最初の制服

乗客をもてなす「はとバス」ガイド。写真は昭和30年代の初め頃。

記念すべき「はとバス」初の制服。色は濃紺で地味な印象。

手描きのコース地図

コースを覚えるのは大変だった。写真はあるガイドが使っていた勉強用ノート。

森英恵デザインの制服2パターン
森英恵デザインの制服2パターン

森英恵デザインの制服。上は昼コースの冬服、下は昼コースの夏服 。

いつも爽やかな笑顔で乗客をもてなしてくれるバスガイド。「はとバス」60年の歴史は、ガイドという名のキャリアウーマンがたどってきた道でもある。
意外にも、「はとバス」が開業時に運行した団体貸し切りバスにガイド(当時は「案内ガール」と呼ばれた)は乗務していなかった。内勤の男性職員が車掌と添乗員を兼務していたのである。女性のガイドは戦前の青バス時代から活躍していたから、おそらく雇う余裕がなかったのだろう。だが、都内を走る定期観光バスともなると男性職員では務まらない。そこで女性のガイドを採用することになったが、「はとバス」ガイド第一期生となる5人の採用が決まったのは、なんと運行の5日前。彼女たちはわずか数日でルートや観光ポイントを懸命に勉強し、ほぼぶっつけ本番で初乗務に臨んだ。当時のバスにはマイクが装備されていなかったため、業務を終える頃にはすっかり声がかれていたという。

「はとバス」が急成長した昭和30年代以降、ガイドも世間から大きな注目を集めるようになった。女性の社会進出が進んだなかでも、東京の町を舞台に華々しく活躍できるバスガイドは、女の子にとって憧れの職業だったのである。その人気はスチュワーデスにも負けないほどで、1957(昭和32)年には初代コロムビア・ローズが歌う「東京のバスガール」という歌が大ヒットしている。なかでも知名度の高い「はとバス」は社会的信用度も高く、親が就職を勧めるケースも多かったらしい。
それだけに、採用条件はなかなか厳しかった。募集に際しては「身長150cm以上、視力は裸眼で0.6以上(眼鏡不可)」などいくつもの条件が課せられていたが、希望者が減ることはなく、採用倍率はいつも10倍以上。バスガイドへの道は、かなりの難関だったのである。

難関をクリアしたガイドの卵は、約1ヶ月の厳しい研修を経て実務に就く。そのまま長く勤務してくれればいいのだが、困った事にほとんどのガイドは入社して3、4年で辞めてしまった。最大の理由は結婚。昭和30〜40年代には、結婚したら家庭に入る女性が圧倒的に多かったのである。
ガイド不足に悩まされたこの時期、社内にはガイド不要論まで出たという。だが、ガイドは観光バス会社の顔であり、その案内は大切なサービスである。顧客アンケートを見ても、ガイドの印象について語っているものがほとんどだ。「はとバス」は労働時間や賃金の見直し、福利厚生などさまざまな対策を講じて離職率の低減に努めた。現在、ガイドの数は約190人。在勤10年を越えるガイドが20人以上おり、結婚後も仕事を続けるガイドが増えているという。

最新の制服

今年の春から登場する最新の制服。清楚なイメージが印象的 。

「はとバス」のガイドについては、そのファッションを抜きにしては語れない。最初に採用した5人のガイドは私服で乗務していたが、1951(昭和26)年に初の制服が決定。いかめしく大仰なデザインだったが、何度かのマイナーチェンジを重ねるうちに洗練されたデザインに変わっていった。2000(平成12)年まで、「はとバス」ガイドの制服は昼コースと夜コースで分かれており、それぞれに夏服と冬服があった。夏服と冬服の間に着る合服が用意された時期もある。
最も話題になったのは、1968(昭和43)年に登場した森英恵デザインの制服だろう。流行を大胆に採り入れ、ミニスカートとクラウン型の帽子を採用。やや地味だったそれまでの印象が、明るく軽やかなイメージに変わった。平成に入ると女性のファッションは個性化と多様化が進んだが、「はとバス」ガイドの制服は逆に機能的でトラッドな方向へとシフト。最新の制服はより洗練度が増し、清潔感を感じさせるものになっている。


 
懐かしのボンネットバスからスーパーハイデッカーへ

最初のボンネットバス
初期に運行していたボンネットバス。「都内半日Aコース」を走った「富士」はこの中の1台だ。
「オープンバス」

香港を思わせるかつての「オープンバス」。

「スーパーパノラマカー」

「スーパーパノラマカー」。屋根の上のクーラーダクトがひときわ目を引いた。

ドルクメーラーの「ヨーロコメット」

西ドイツ・ドルクメーラー社製の「ヨーロコメット」。定期コースを運行した。

「はとまるくん」
オリジナル車両「はとまるくん」。2001年のグッドデザイン賞を受賞した。
「ニューガーラ」

現在の主力車両「ニューガーラ」。サロンカーにも変身する。

「はとバス」のもうひとつの顔、バスの変遷も興味深い。開業当時に使っていたのは、国産のボンネットバス。ガソリン車だったが燃料の確保が難しく、天然ガス仕様に改造して運行していた。ガスボンベは1本で40kmほどしか走行できないから、「都内半日Aコース」でも予備ボンベが欠かせない。しかも燃料の質が低いため馬力が出ず、坂道を上るときは常に青息吐息だった。この頃の運転士に求められたのは、粗悪な燃料で長距離を走らせる技術。整備士に求められたのは、どんな故障もその場で直せる器用さだったという。

昭和30年代以降、「はとバス」が急成長を遂げる頃になると、バスの信頼性や安全性も大幅に高まってゆく。また、乗客のニーズに応じてバスの形態そのものも変化していった。
車体がボンネットバスから普通の箱形に変わったのは、昭和20年代の後半。以降、バスの装備はどんどん豪華になっていった。1963(昭和38)年には、後方の席を高くして見晴らしを良くした「スーパーデラックスバスAタイプ/Bタイプ」が登場。Bタイプは大きなガラス窓を持ち、さらに開放感を高めていた。さらに開放的だったのは、65(昭和40)年に登場した「オープンバス」。24人乗りサロンカーの屋根を取り去ったバスで、複数の定期コースに導入された。話題性は十分だったが、帽子が飛んだり雨に濡れたりするので、乗客の評判は今ひとつだったという。
1971(昭和46)年には、初のエアコンバス「スーパーパノラマカー」が運行を開始。これはクーラーダクトを屋根に乗せたオリジナル車で、おなじみのレモンイエローに塗られた最初のバスでもあった。

車体や装備のデラックス化は進んだが、昭和50年代後半までの国産バスは肝心の自動車技術がそれに追い付かず、トラブルが多かった。この頃、「はとバス」は信頼性が高く乗客を大量に輸送できるドイツ製の大型バスを積極的に導入している。西ドイツのドルクメーラー社からダブルデッカー(2階建てバス)やスーパーハイデッカー(中2階バス。眺望を良くするため床面を上げ、床下に荷物室やトイレを設置している)を輸入し、一部の定期コースや箱根方面への貸し切りバスとして運行した。

ドイツ製バスは乗客の評判が良かったが、維持費が高く付くという難点があった。平成に入ると「はとバス」は、性能が向上した国産バスの導入を進めてゆく。代表的な車両は、1997(平成9)年に登場したアイドリングストップバス「ガーラV」、2001(平成13)年の完全オーダーメイド特別車両「はとまるくん」、05(平成17)年の「ハローキティバス」など。現在の主力はジェイ・バス製の「ニューガーラ」。ハイテクを装備した53人乗りのスーパーハイデッカーで、都内の定期観光ルートを毎日快走している。

現在、「はとバス」が所有しているバスは137台。運転士の数は約170人にもなる。開業当時、バスは10台、運転士は7人、ガイドは5人しかいなかった。煙を吐きながら坂道を上っていたボンネットバスは、故障知らずの快適なスーパーハイデッカーに変わった。
だが、これまでの道のりが決して平坦だったわけではない。創業期を除いても、昭和30〜40年代のガイド不足、1973(昭和48)年のオイルショックによる燃料の高騰、平成不況によるレジャー産業全体への打撃など、会社は何度も危機的状況に見舞われている。今回の世界同時不況の影響もゼロではないが、意外にも昨年後半の売り上げは前年比で約8%も増加しているという。手頃な価格、近場で楽しめる、短い時間でOKという「はとバス」本来の魅力が、「安・近・短」を志向する最近の日本人のニーズにぴったりと合っているのだ。

都内観光のロングセラー「東京半日Aコース」の料金は、大人が5800円、子供は3200円。親子2人なら、昼食代を入れても1万円ちょっとで気軽に東京観光が楽しめる。何より、親子がバスの中でじっくり話ができるのがいい。加えて、中年層にとっては心をくすぐるポイントがもうひとつある。「はとバス」に乗っていると、子供の頃の遠足を思い出すのだ。友だちの顔、先生の姿、楽しかった出来事、ほろ苦い思い出……それらが一緒になって、車窓の風景に重なるのである。

 
取材協力:株式会社はとバス
     
定期観光バスもエコの時代へ──ハイブリッドバスの導入
「ハイブリッドバス」
グリーンに塗られた「ハイブリッドバス」。都内でたまに見かける。

これからの都市交通を担う企業に求められているのは、環境問題への積極的な取り組み。「はとバス」は創立60周年記念事業の一環として、昨年7月19日から4台のハイブリッドバスを都内の定期観光ルートで運行している。ハイブリッドバスの運行は一部の路線バスでは導入済みだが、定期観光バスとしての導入はこれが初めて。導入車両はパラレル方式のハイブリッドシステムを搭載し、エンジンとモーターの駆動力を切り換えたり、一方の動力が他方を補完したりしながら走行させる仕組みだ。実際に乗ってみると、普通のバスに比べてかなり静か。微振動がほとんどないので、乗っていて気持ちがいい。車体と社内はグリーンで統一されていて、乗っている自分までエコな人間に思えてくる。興味のある方はパンフレットやホームページから探してみてほしい。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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