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かしこい生き方 民俗学者 小松和彦さん
不思議な事柄に説明をつける 妖怪は恐いだけじゃない

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妖怪を始め、異界のもの達を探ることで日本人について見えてくることは、たくさんあるのですが、最も印象的だったのは、異界のものという言葉の通り、彼らが「境界」に現れるということです。

小松

「境界」というのは、言葉を変えれば「自分たちが慣れ親しんでいる世界との限界」です。その境界というのは、子供の頃と大人になってからとではまったく違うでしょう。私達は、成長するにつれて慣れ親しんでいる世界を少しずつ広げていくわけですから。けれども書物を調べてみたり、噂話や昔話を検証してみたりすると、異界のものが出て来る所は、基本的にさまざまな境界だと分かります。

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なぜ境界に現れるのですか。

小松

子供の時は、せいぜい家を中心としながら、学校や自分が遊んでいる空間までが限界で、その空間の中のどこに誰が住んでいるのかを知っている程度です。その限界を超えて、学区が違う、あるいは橋や川があるなどというと、その「向こう側」をまったく知らない。行き慣れた商店街でも、線路の向こう側は、まったく別の世界に思えたりする。そうやってどこかに自分の世界の限界があって、本能的にも文化的にも、私達はその限界の向こう側に「怖さ」を感じるのです。そして、その境界を示す意味で「あそこにはお化けが出る」とか、親が「怖い鬼が居るんだよ」と言うんです。家や店が立ち並ぶ、普段から慣れ親しんだ道でも、一歩、路地を入ったら知らない場所だというのも意外に多いでしょう。つまりそこが境界なんです。私達は、知らないうちに境界をいろいろな所に作っているんです。

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そうした空間の質の違いを感じることはよくありますね。そしてそこに「怖さ」を感じもします。

小松

知らない場所、私は広い意味で「異界」と呼んでいますが、そこには知らない存在、つまり妖怪が居るんです。お祭りで隣村の人と交流を持つことになったとします。隣村は、本来、知らない世界であり「異界」だけれども、お祭りを通じて顔見知りになると怖さを感じない存在となる。しかし、その中に見たことのない人が入って来ると、「狸が化けているのかもしれない」「天狗が化けているのじゃないか」という考え方が出てくる。

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知らない存在を妖怪と呼ぶ…つまり妖怪やお化けは、私たち人間が生み出した社会的なシステムなのですか。

小松

動物もそうですが、人間にも縄張りがありますよね。人間の場合、生活空間を心理的な縄張りととらえる面もあり、それを文化的に説明しようとするため、さまざまなタブーが課せられるんです。例えば生活空間領域の「境界」に行くと、大人も子供も「ここから先は行ってはいけない場所」と感じて、戻って来るでしょう。それを「あの辻には魔物が出るから行ってはいけない」「夜は川向こうに行ってはいけない」という表現で教えられて、私達はその空間の質の違いを学習していくんです。

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江戸時代の妖怪も、町民長屋とお屋敷との間にも出てきますね。それもやはり境界が関係しているんですね。

小松

お屋敷というのは一般の町民には覗けない世界、つまり何があるのか分からない世界です。分からない、見えない世界は「怖い」ので、妖怪や化け物が出て来ますね。

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人間の持っている恐怖心を「妖怪」という存在で折り合いをつけようとしているかのようです。

小松

ええ。恐怖心のみならず、いろいろな仕組みや事象に説明をつけたい。その時に妖怪が登場するんです。現代社会と昔の社会では、何か不思議な事が起きた時の説明の仕方が違います。昔は何かあると「神様のせいだ」「化け物のせいだ」としてきたのですが、近代社会では当然、それを科学的な説明に置き換えてきました。けれども、僕らは科学的な思考をすべて知っているわけではないし、日常の中で、不審な出来事に遭遇する場面というのはたくさんあります。

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それは、理解できない病だったり、悲しい出来事だったり、ということですね。

小松

そうですね。例えば、昔は人の精神的な病を「狐が憑いたからだ」と説明していたわけです。それを近代科学は狐が憑くなんてことがあるものかと否定するわけですが、ではそれを否定したところで、「狐憑き」、つまり異常な状態は解決しない。現代は、それを心や精神の問題、精神病だと説明します。視点を変えれば、病を躁うつ病という個人単位で説明したものと言えます。一方「狐」というのは、ある意味、外に原因があるとも捉えられる。外に原因があるから、操作出来る。「狐に油揚げをあげた方が良いだろうか」とか、狐を通して外から自分の内面を見るというのでしょうか。ストレスから起きたうつかもしれなくても、狐のせいにすることで、原因を外側に持つことが出来ます。

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狐のせいに出来れば、本人も周りも楽なようにも思えます。

小松

楽かどうかはまた別の話なんですね。というのも、一方では「隣の家の主人がうちを妬んで狐を操っているのだ」と言われたりするんです。そうした社会関係のゆがみをも狐によって説明しようとしていたのです。

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そんな事もあるんですか!

小松

狐だけに限らず、犬神が憑いているといった憑き物信仰があったのです。病気や災いなどを説明するため、あるいは経済的に豊かなものに対しての妬みといった共同体内部の富の偏りなどを説明するために、「憑き物」という形で説明していたんですね。
あるいは、例えば、昔は、子供が川に流されてしまった時「河童に連れて行かれた」と説明するようなこともありました。諦めでもあるけれど、何ら説明もなく、子供が居なくなってしまったという現実を、どう受け止めればいいのか…。私たちは、何の説明も出来ない事象の中に放り出されたら生きてはいけません。文化を持っている以上、考えて、そして説明したがる。だから現代から見たら、何の説明にもなっていないと思われるかもしれませんが、説明出来ない不思議な現象なり、起きてしまった悲しい事態を、狐や狸、河童や天狗のせいだと説明することによって、宙づりにされた心を落ち着かせ、その事態を諦められるという面があったのだと思います。

 

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「境界」というのは、空間だけでなく、時間的にも存在していると伺いました。

小松

節分には鬼が登場しますが、なぜ鬼が出て来るのか分かりますか。

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時間的な節目だからでしょうか。

小松

そうです。暦は人為的に作ったものですよね。つまり「ここからが春」などと、人間が一年を春夏秋冬に分けた。そして更にはそこに「時間の裂け目」が出来たと見るわけです。となれば、そこから異界のものがこちら側に出てきてしまう。それで春分、つまり節分に鬼が出るのです。例えば大晦日と正月とは、事象的には、夜が更けて朝が来てというだけ。今日の明日だから何も変わらない。それに年の終わりは、別に4月だって5月だって良かったんです。人為的に作ったものだからこそ、大晦日には、年が変わるということを皆が納得するために、服や食べ物を変えたり、正月飾りを飾ったりといった仕掛けを作ったんです。その一つが時間の裂け目を通ってやってくる、お正月さまのような神さま、ご先祖さま、そしてそれらと一緒にやってくる異界のものです。
ちなみにこれら良いもの、悪いものがドッキングしたような存在が「なまはげ」ですね。なまはげは、大晦日の夜にやって来る神様でもあるけれど、子供にとっては怖い鬼でもあります。いずれにせよ大人にとっても子供にとっても、普段慣れ親しんでいるものではない異界のもの。そうした神様や魔物といった存在が裂け目に登場しているわけです。

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時間的な裂け目を作った上に、そこからやって来ようとするものがいるという、その仕掛けは壮大ですね。

小松

ええ。地域ごとに異なりますが、例えば5月5日は子供の日ですが、昔話などを見ると、その日にやって来る魔物を追い払うために菖蒲をお風呂に入れたとあります。菖蒲には独特の香りがありますから、魔除けには効きそうですね(笑)。こうした形で語り継がれているものはたくさんあります。7月7日は、元来、中国などにおける節供の一つが日本に入ってきたものですが、その時を、我々の先達たちが特別な時間にしてきたのです。この日に七夕飾りを作ったり、集まって家を回ったりする地方もある。青森のねぶたなども、七夕の灯籠流しが変形したものだと言われています。昔は7月7日の夜に、ねぶたを壊して海に流していたので、「ねぶた流し」と言われていたんです。ねぶたというのは「ねぶりけ」が転じたもので、「ねぶりけ=怠け者」を示します。夏場、暑くて怠けてしまうところを、そうした睡魔や汚れ(けがれ)をねぶたに託して、壊して流す事で、真面目に働けるようにと始まったものなんです。

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そうだったのですか!

小松

あの地域では、正月と同時に、7月7日も重要な時間の境目ですから、その日を、さまざまな仕掛けを設えて、特別なものにしてきたのです。ねぶたはその境目から出て来る「ねぶりけ」という悪い精霊を追い払う、節分の鬼のような意味を持っているんです。

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なるほど。となると、節分の豆まきも特別な日たらしめる演出の一つと言えますね。

小松

節分は全国的に、一年で一度、必ず鬼がやって来る日。鬼は人間の良くない物を表した存在ですが、残念ながら「良くないもの」が無くなった時代はありませんね(笑)。ですから毎年、それを追い出さなくてはいけません。そして、その「良くないもの」が出て行くことを演劇的に、目に見える形で示すために、豆を撒いて、鬼が出て行くんです。「鬼は出て行った。これから一年きれいな状態で過ごせる」…そのためにも鬼が出て来てくれないといけないでしょう?

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ああ!逆説的かもしれませんが、だからこそ鬼が出て来るわけですね。

小松

私の一年間の良くないものを、鬼というもので表現しているわけです。川流しの儀なども、体の中に溜まった一年間の汚れを人形に移して川に流し、それによって自分はきれいになるというもの。つまり鬼は、自分の身代わりとして出て来てくれる存在なのですよ。

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何だか、すっきりする気がします!よく出来たシステムですね(笑)。

小松

よく出来てますよ(笑)。それを、いろいろな形で作ってきたわけです。

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お話を伺うと、鬼や妖怪といった異界のものは、外的な要素とともに、自分の中にある要素とも密接に関わって生まれたものと感じます。

小松

鬼や妖怪を通じて、内面にあるものを外に出す、と同時に外にあるものが内面に入って来るから自分がだめになる。内面と外面はコミュニケートしているんです。

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自分が意識しない内面の闇みたいなものを妖怪や鬼という形で表現している面もありますね。腹が立って仕方がない、あるいは嫉妬に狂いそうだといった時、文字通り、自分が自分ではなくなるような…。

小松

そうして人間の枠を超えてしまった時に「あなたの中に鬼がいる」となる。それをどうやって治すのかといった時、現代の精神医学というのは、ストレスやトラウマといった個人史や社会史を念頭に起きながら説明しようとしますが、昔は、もっとコスモロジカルに鬼や妖怪という存在をもって説明していたということです。

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なるほど。それにしても、日本には、ずいぶんたくさんの妖怪がいますね。なぜでしょう。

小松

我々の研究課題でもあるのですが、日本の風土の根底に「アニミズム(animism)」的な考えがあるからだと言われています。アニミズムとは万物に魂が宿るという自然崇拝の考えです。その考えの上に仏教が入ってきて、更に中国から道教といったものが入ってきたり、キリスト教が入ってきたりしたわけですが、根底はアニミズム的な、存在するものすべて、名前の付いているものすべてに魂があるという考え方です。
更に、人々が自然から離れ、文化に囲まれた生活を送るようになると、道具のような人工物にも魂が宿ると考えられるようになりました。しかもその魂は、非常に擬人化されていて、怒ったり、泣いたり、笑ったりもする。喜んでくれている状態であれば、人間と良い関係にあるのですが、逆に怒りは祟りという形で表される。怒りを納めるために、お祭りを要求したりもする。つまり怒った状態が「鬼」「魔物」と表現されたのです。ではなぜ、これほど多様な鬼や化け物がいるかというと、その物自体がどういった形をしているのかも考えて、一つひとつを差別化しようとしたため。その結果、「付喪神絵巻(つくもがみえまき)」や「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」などの絵巻に描かれたように、さまざまな形をした妖怪が生まれたのです。

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江戸時代には、着物の裏地に妖怪を描いてみたりと、妖怪をキャラクター化して楽しんでいたりしますね。

小松

妖怪は人間が作ったものでしたが、そこに宿っているのは、「山には山の神様がいる」というように、人間が作ったものではない、人間以前からあるものだからどうしようもないという考えがありました。しかし江戸時代頃からでしょうか、人間が妖怪を作るようになったんです。例えば、このペンに目鼻を付けて歩かせれば、ほら、たちまち私が作った妖怪になります。そうやって、いろいろな妖怪を絵にして楽しんだわけですね。

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作られた妖怪には怖さを感じないですね(笑)。

小松

妖怪の存在が、境界の内側になるから、怖くないんです。自分たちが作ったものですからね。作った妖怪は可愛らしいし、一つの物語の中で役割を果たしているものも可愛い。

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現代の私達にとっては、「トイレの花子さん」など都市伝説的な話題が、当時の人達にとっての妖怪なのでしょうか。

小松

トイレの花子さんは、いわゆる「幽霊」ですね。ああした学校やトイレにまつわる話は、ずっと以前からありましたね。
現代の都市という新しい空間の中で、我々の境界をどこに持って行くかといった時、それは例えば昼と夜とで一変する場所かもしれない。時間、空間、明るさ、それから物音といった質が昼とは違う――空間の質が変わる事で、その場所は怖い空間に、つまり境界になる。だから、そこから何かが出て来てもおかしくないとなる。トイレは、昼と夜のみならず、他の場所とも空間の質が違いますから、「トイレは怖い。夜ならなおのこと」となるのでしょう。それにトイレに入っている時って、一番人間が無防備な状態ですから、何かに襲われたらどうしようという心理も働く。

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怖いです。今でもちょっと怖いです。

小松

人間の身体にも境界が存在するんです。無防備な頭上や背中、肩を後ろから触られると怖いですよね。つまり人間の身体においても、境界があるという事。背後霊がいる、と言うのもそのためでしょう。空間的、時間的、そして身体や意識的にも、いろいろな所に境界はあるんです。

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先生ご自身は、「境界」を必要と考えているのですか?

小松

いろいろと質の違う空間があった方が良いと思っています。同じ服を着た、同じ顔をした人間ばかり、そして区別がつかないような同じような建物が並んでいるというのは耐えられない。凸凹があって、陰影があるのが人間の世界だと思うんです。人間の住んでいる家の中でも質の違う空間があった方が良いと思うし、町にも陰影があった方が、人間的な世界だという気がします。

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均質的なものが並ぶ世界のほうが、一層不気味ですね。

小松

境界や異界というものを想定して、日本人は、あるいは人間は生きてきたわけです。空間的な向こう側はもちろん、生まれた後、死んだ後――それらをつなげた時空というものを想定してきたのです。しかし、近代の科学は説明出来ないものは説明しません。説明出来る世界の中だけ考えていく…つまり、子供ならば、線路の向こう側の事は考えてはいけないということ。だって自分が知らない世界ですからね。
でも、子供のようなファンタジーに富んだ世界は、ファンタジーであるが故に、人間世界を批判的に描き、見る事も出来る。つまり人間世界の中に入ってしまうと見る事は出来ないものを、人間世界の向こう側から描く事が出来ます。

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現実的な意味合いで言っても、異界の目というのは、必要ですね。

小松

必要だと思います。異界が「ある」「ない」ではなくて、外側に目を持つという事は大事だと思います。日本文化を、アメリカやヨーロッパの視点から見た方が、よく分かると言われますが、同じように死者や妖怪、神の視点から生活を外から見る――それによって異文化からの目に近くなるはずだと思います。

空間の分かれ目、時間の分かれ目に 妖怪は表れる
小松和彦(こまつ・かずひこ)
1947年東京生まれ。文化人類学、民俗学専攻。東京都立大学大学院社会人類学博士課程修了。信州大学助教授、大阪大学教授を経て、現在は国際日本文化研究センター教授。妖怪、異人を軸に日本文化の深奥を探る。著書に『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書)、『京都魔界案内-出かけよう、「発見の旅」へ』(知恵の森文庫)、『異人論-民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫)、『憑依信仰論-妖怪研究への試み』(講談社学術文庫)、『鬼がつくった国・日本-歴史を動かしてきた「闇」の力とは』(光文社文庫)他多数。
妖怪のことを知りたい方は、「怪異・妖怪伝承データベース」を参照。
 
●取材後記
小松先生いわく、妖怪や鬼といった異界のものを想定して、空間や時間を組織化したそうだ。日本人の人との関わり方や社会の作り方を考えると、自分達の力の及ばないものをつくることで、社会生活を円滑に運ぼうという発想、日本人の私も確かに思い当たる…。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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