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ニッポン・ロングセラー考 Vol.80 開明墨汁 開明 書の文化を支え続けて110年“墨汁の元祖”ここにあり

子供たちが文字を書く時間をつくってあげたい

創業者・田口精爾

開明株式会社の創業者・初代社長の田口精爾。

社訓の書

社訓「墨光開明」の書。2代目・田口明とともに書道振興に努めた書家・豊道春海(ぶんどうしゅんかい)の作。

錬墨

錬墨「墨の元」。

初代「開明墨汁」

今から110年前に誕生した「開明墨汁」は、黄色い缶に黒いキャップ、紫色の紐がトレードマーク。発売当時の価格は不明だが、戦後間もない頃の60cc入りが60円だった。

年末の忙しい時期に慌ただしく年賀状を書き、年が明けた翌日には子供の書き初めに付き合う。年末年始は、日本人が一年で最も毛筆に触れる機会かもしれない。
大人になると、筆と墨を使って文字を書くことからすっかり遠ざかってしまう。記憶にあるのは、小学生時代の書写の授業。慣れない筆で書いたつたない文字を、先生が朱色の墨で丁寧に修正してくれた。あの頃の記憶をたどると、不思議なことに硯で墨をすった記憶がほとんどない。そう、墨汁を使っていたのだ。覚えているのは、墨汁の容器に書かれていた「開明」の二文字。同じ記憶を持つ読者はきっと多いことだろう。何を隠そうこの「開明墨汁」こそ、墨汁の元祖なのだ。

時は明治半ばの1890年代。岐阜の山村にある小学校で教員を務めていた田口精爾は、習字の時間の子供たちを見て、いつもこう思っていた。「墨をするのに時間がかかり、文字を書く時間が足りない」「寒い冬にかじかんだ手で墨をするのは可哀相だ。こんな状況をなんとかしてあげたい」
思いが高じた精爾は、大胆にも教職を捨て、東京・蔵前にあった東京職工学校(現在の東京工業大学)に入学。そこで応用化学を学び、固形墨の主原料である油煙と膠(にかわ)の研究に没頭する。

油煙は油を不完全燃焼させて作る天然の炭素で、ランプブラックとも呼ばれる黒色の顔料。膠は動物の皮や骨などを煮出して作られる動物性蛋白質で、古来より接着剤として使われてきた。
固形墨は、油煙から採取した煤を膠で練り固めて作る。精爾が最初に着想したのは、墨を練って団子状に丸めた“錬墨”だった。固形墨を砕いて粘土状に加工すれば、水を含んだ筆で溶かして使うことができる。精爾はこの錬墨を「開明墨」と名付け、ブリキ缶に詰めて売り出した。名称の開明は、『すらずに使える墨汁』が、文明開化の最中に誕生した便利な道具であることにちなんでいる。そこには「この商品で書の文化をもっと広めたい」という、精爾の熱い思いが込められていた。

「開明墨」は、日本はもとより中国大陸にも輸出される程のヒット商品となったが、精爾はそれに満足していなかった。錬墨は確かに便利だが、使う時に水が必要な点は固形墨と変わりがない。理想は“水を使わない液体墨”だ。その研究はコロイド化学の分野にあたる。コロイドとは、ある媒質に微粒子や分子が分散・浮遊している状態のこと。研究意欲に燃えた精爾だったが、この時代、コロイド化学は学問的にほとんど解明されていなかった。そのため、開発までの道のりは苦難の連続だったという。

固形墨を水に溶かした液墨の特徴は、油煙の粒子が自由に水中を動き回り、膠が変質しない限り沈殿しない点にある。液体墨の開発にあたり、精爾は黒色顔料にカーボンブラック(石油や石炭から採れる重質油などを分解して作ったもの)を選んだ。常に一定の品質が得られるからだが、反面、カーボンブラックには自力でコロイド状態を保てないという弱点があった。精爾は研究に研究を重ね、カーボンブラックを膠で保護し、コロイド状態を保つことに成功。これに滑らかな筆運びを実現する湿潤剤、膠の臭いを消す香料、膠の品質を保つ防腐剤を加え、1898(明治31)年、ついに理想の液体墨を完成させた。
精爾は田口商会を創業し、黄色い缶に入れたこの商品を「開明墨汁」と名付け、文房具の卸業者を通じて全国販売した。黒いキャップには会社のロゴマークである梅鉢を印刷し、持ち運びを考えて紫色の紐を付けた。以降、黒と黄色の組み合わせは、110年にわたって「開明墨汁」のアイコンとなっていく。


たゆまぬ研究で弱点を克服し、専門家も認める品質に

研究室

昭和30年代の研究室。固形墨に負けない高品質な墨汁はここから生まれた。

昔の工場

こちらは昭和30年代の工場。原料の溶解→混合・練り合わせ→分散→製墨→検査→容器充てんという製造行程は今も変わっていない。

二代目の「開明墨汁」
「開明墨汁」は昭和40年代初めに二代目へと進化。容器は缶からプラスチックになった。
現行の「開明書液」
学童用の「開明書液」(現行商品)。60ml入り210円を始め、7タイプを用意。
「花仙」
「花仙」は100mlで1500円の高級品。容量・種類のバリエーションは多彩だ。写真は400ml、5000円。

画期的な新商品「開明墨汁」は、主に商売の現場で重宝された。いちいち墨をすらずに済むので、帳簿を記載する作業が格段に楽になる。実用面からの評価は非常に高かった。反面、意外な程低かったのが、書道の教師や書家といった、毛筆で書くことを生業とする専門家たちの評価。彼らは「墨汁を使うと筆が傷むし、文字が光る」と言い、品質の点で墨汁は固形墨に及ばないと指摘した。確かに、戦前から戦後にかけて作られた初期の「開明墨汁」は、原料として使われている膠や塩化カルシウムの精製度が低く、そうした面も否定できなかったようだ。
だが、研究開発に力を注ぐことこそ、開明の基本ポリシー。初代社長・田口精爾の意を受け継いだ二代目の明が品質向上に努めた結果、市場における「開明墨汁」の評判は徐々に向上していった。

戦前「開明墨汁」に対する専門家の評価が厳しかったのは、書道そのものが持つ精神性にも原因がある。「墨をすることは精神修養。その大切な儀式を省略して、どこが書道なのか」という理屈だ。だが、皮肉なことにこうした主張は、敗戦によって一挙に覆されることとなった。戦後の日本では修身教育と共に、柔道・剣道・華道など“道”の付くものが国粋主義の象徴と見なされ、教育の現場からことごとく排除されたのだ。
「このままでは書道そのものが滅んでしまうかもしれない」──大きな危機感を抱いた二代目は、さっそく教育書道復活のための活動を開始した。1951(昭和26)年には書道禁止が解除されたものの、小学校での必修化を目指していたために活動を継続。翌年には全国書道用品生産連盟を結成し、その初代会長として、著名な書家と共に関係諸機関に働きかけた。1971(昭和46)年には、ついに小学校における必修科目化を実現。およそ20年の時を経て、書道は日本の教育現場に復活することとなった。

書道復活の動きに合わせるかのように、開明は商品の種類を徐々に増やしていった。1955(昭和30)年には、膠の代わりに合成樹脂を用いた墨汁「精製 墨の華」を発売。合成樹脂の墨汁は温度が下がってもゼリー状になりにくく、経年変化が少ないという特徴を持つ。筆運びが軽く乾きも速いので、1969(昭和44)年には同じく合成樹脂系の「開明書液」を発売した。この商品は今も数多くの小学校で使われており、同社のベストセラー商品となっている。黄色いボトルの「開明墨汁」には馴染みがなくても、縦長の黒いボトルに入った「開明書液」を覚えている人は多いはずだ。

この頃になると、かつては固形墨に及ばないとされた墨汁の品質は著しく向上し、「開明墨汁」は固形墨をも上回る高い表現力を持つようになる。一般に墨の粒子は細かい方が良いとされており、固形墨を硯ですった時の粒子の大きさは、およそ0.2〜0.6ミクロン程度。これに対して墨汁の粒子は、0.05〜0.25ミクロンと圧倒的に小さいのが特徴だ。
1988(昭和63)年、開明は古墨の味わいを持つ最高級墨汁「花仙」を発売。微粒子と手ずりに似た粗い粒子を絶妙なバランスで配合し、深い味わいのある墨色を実現した。粒子の大きさで墨の色を微調整した「花仙 茶墨」と「花仙 青墨」もあり、今では多くの著名な書家が、作品制作用にこの「花仙」を使っているという。墨汁が固形墨より低く見られていた時代は、もはや完全に過ぎ去った。


“漫画の神様”はじめ、多数の漫画家が愛用

『マンガの描き方』

手塚治虫が「開明墨汁」について触れている『マンガの描き方』。

「まんが墨汁」

プロの漫画家はもちろん、漫画家志望者にも支持されている「まんが墨汁」。30ml入り550円。

「三種墨汁」

用途に合わせた少量入りの「三種墨汁」。日本の伝統を実感できそうな商品だ。

墨汁は書道や書写で使うもの──私たちはそう思いがちだが、実は昔から、墨汁は書道以外にも幅広い用途で使われてきた。業界のパイオニアとなった「開明墨汁」はその代表例で、事務用途は言うまでもなく、製図、版画、仏事、魚拓など、実に様々な分野で使用されている。
なかでもよく知られているのが、漫画の世界だ。“漫画の神様”手塚治虫が「開明墨汁」の熱烈な愛用者だったのは有名な話。こんなエピソードが残っている。
ある夜、手塚が「墨汁がないので漫画が描けない」と言い出したため、スタッフが夜中に文具屋を探し回った。ようやく買ってきた墨汁を見た手塚は「これは違います。僕は開明墨汁しか使いません」とひと言。理由を尋ねると、「墨汁ののりが違う」と言う。スタッフは開明墨汁を探し回ったが、見つけられずにうなだれて帰ったところ「ごめんごめん。開明墨汁、あったんだよ」と手塚が苦笑いしながら迎えてくれた…。
ちなみに、手塚が遺した漫画の指南書『マンガの描き方』の中でも、彼は「開明墨汁」の名を挙げて推薦している。手塚治虫以外にも『のらくろ』の田河水泡、『アンパンマン』のやなせたかしなど、昔も今も「開明墨汁」を愛用する漫画家はかなり多いようだ。

漫画家が「開明墨汁」を好むのはなぜだろうか? 漫画家がペン入れする時は乾きの速い製図用の耐水性インクを使うケースが多いが、「開明墨汁」には、製図用インクとは違った魅力があるらしい。いわく「微妙なタッチを出せる」「ベタ塗りしてもムラができにくい」「原稿の仕上がりが綺麗になる」等々。
漫画家やイラストレーターなどクリエイターの需要は意外に大きく、筆記具を扱うメーカーが積極的に参入している。書道用品の業界にとっても見逃せない市場だ。開明は2002(平成14)年、ターゲットを漫画家や漫画家志望者に想定したユニークな商品「まんが墨汁」を発売した。墨の伸びが良く、消しゴムで下絵を擦っても強いため、作業性の良さはそれまでの墨汁以上。乾きが速いだけでなく、乾くと耐水・耐アルコール性になるので、原稿にマーカーを入れる際にも重宝する。

漫画用途以外にも、開明は光沢があって滲みにくい「ペン習字用墨汁」、「かな・賞状」「仏事・うす墨」「写経」それぞれに適した墨汁をコンパクトな少量容器に入れた「三種墨汁」を発売している。また、乾いた後は洗濯しても落ちない布書き専用の「帛書墨(はくしょぼく)」、表札・塔婆用途を想定した「木簡墨」など、特殊用途のユニークな墨汁もラインアップ。もちろん、ここまで多様な墨汁を販売しているメーカーは開明をおいて他にない。


 
IT全盛の今だからこそ、手書きの文化を守りたい

現行の「開明墨汁」

現行の「開明墨汁」。蓋には筆置き用の切り込みが付けられた。70ml入り280円始め、全部で6サイズある。

日本の義務教育では、国語科の書写として、小学3年生以上の授業で毛筆による指導が学習指導要領で定められている。高等学校でも、芸術科には音楽や美術などと並んで、書道が選択科目として置かれている。こうした背景を考えると墨汁の未来はまだまだ明るいようにも思えるが、実際はなかなか厳しいらしい。開明の現社長である田中葉子氏は、毛筆に代表される手書き文化の将来に危機感を抱いている。「市場規模は小さくないけれど、少子化の影響は確実に受けています。バブル期には中高年のカルチャー需要で盛り返しましたが、IT全盛の今は手書き文化そのものが衰退しつつあるようで、残念でなりません」

手書き文化復興の担い手になるべく、開明は今、様々な試みにチャレンジしている。2008(平成20)年からは、「手書き普及キャンペーン」をうたった独自のセット商品をネット販売し、「墨汁で遊ぼう!」と題した来場者参加型のイベントを開催。漫画家やイラストレーターとのコラボレーションにも積極的で、150人のイラストレーターが「開明墨汁」だけで描いた作品展「墨一色展」を開催したり、著名な漫画家による指導教室やトークイベントなどを実施している。
「子供時代に書写を経験する日本人には、もともと書の心が根付いているはず。でも授業では書いた文字を直されて、あまりいい記憶がありません。私たちは墨汁で遊ぶことを通して、手書きの楽しさに気付いてもらいたいんです」と田中社長は語る。

そんな活動が注目を集めたせいか、最近はインテリア業界から声がかかった。LED照明と素材のコラボレーションイベントに協力し、墨汁を使ったアーティスティックな書を配した和室空間を展示。もしかしたら「開明墨汁」にもう一つ、新たな利用シーンが生まれるかもしれない。

「開明墨汁」が最も売れたのは、昭和40〜50年代にかけて。日本が目覚ましい経済成長を遂げて、ほっとひと息ついた時期にあたる。多忙な毎日の中で、ともすれば見失いがちな自分の姿を再発見するのに、書の世界はぴったりだったのかもしれない。
現行の「開明墨汁」は1974(昭和49)年、ちょうどその頃にリニューアルされている。墨池型の容器は丸みを帯びた角形になり、大きなキャップに開明伝統の黄色をアレンジ。360ml入りの縦長容器は昔ながらの黄色いボトルを採用している。その一方で墨汁としての本質は全く変わっていない。墨の伸びや光沢、筆運びの滑らかさなど、「開明墨汁」が伝統的に受け継いできた持ち味は、今もしっかりと守られている。

前回のリニューアルから35年。時代は変わり、今や年賀状すらパソコンで作るのが当たり前になった。残念ながら、大人が日常で墨汁を使う場面はあまりない。だが、年賀状に添えられた手書きの文字を目にすると、私たちはどこかほっとした気持ちになる。子供が一生懸命書いた書写を見ると、愛おしさで胸がいっぱいになる。
手書きの文字からは、書いた人の心が伝わってくるのだ。その心を少しでも多く伝えたいから、開明の創業者は墨をする行為から人々を開放した。

年が明けたら、子供と一緒に書き初めに挑戦してみよう。書道ケースの中には、きっと「開明書液」が入っているはずだ。

 
取材協力:開明株式会社(http://www.kaimei1898.com
     
隠れた人気商品「カートリッジ式ふとふで」
「書写筆」
気軽に書道が楽しめる「カートリッジ式ふとふで」。写真は「書写筆」。2000円。

「本格的な書道用品を買う前に、試しに毛筆で書いてみたい」「筆ペンでは難しい、太い文字を書いてみたい」という用途にぴったりなのが、開明の隠れた人気商品「カートリッジ式ふとふで」。一見すると普通の太筆のようだが、実はこの商品、筆軸の部分がそのままカートリッジになっており、中に墨汁が入っている。一般的な筆ペンを二回り程大きくしたような形だが、穂先が純毛筆なので、書き味は普通の太筆となんら変わらない。書道ケースを持ち歩かなくても、これさえあればどこでも気軽に書道が楽しめるのだ。バリエーションは、学校書道に適した「書写筆」、柔らかくてまとまりの良い穂先が特徴の「皇龍」、授業中の添削に最適な「朱筆」の3種類。筆ペンでは物足りないという場面は意外に多いもの。カバンの中に常備しておけば、いつか役に立つかもしれない。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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