ナビゲーションを読み飛ばすにはここでエンターキーを押してください。
一覧に戻る
COMZINE BACK NUMBER

香り×つながる 中村祥二

第3回 のこり香

すれ違った女性ののこり香が素敵だと思うことがある。振り向いて後を追うのもなにかはしたない気がするので、思いとどまる。のこり香をフランス語で「シアージュ(Sillage)」という。元々は、モーターボートが湖面に残す航跡を表すという綺麗な表現だ。日本では「追風」という美しい言葉がある。『源氏物語』には、光源氏が素晴らしい薫物を自分の着ているものにたきしめていて、光源氏の後を追う風のように薫物の良い香りがあたりに奥ゆかしく漂い広がるさまが描かれている。
香水を創作するときにのこり香を大切にしたことがある。
1986年のニューヨークメトロポリタン美術館「ダンス展200年の歴史」に資生堂が協賛することになり、その一環として招待者に新しい香水をプレゼントすることになった。「ダンス展にふさわしい香水」というのがコンセプトで、名前は エンチャンティング・ダンス(Enchanting Dance=「魅惑のダンス」)、ボトルはアールヌーボーのガラス工芸家リュシアン・ガイヤールが、個人用に創作した香水瓶を復刻して用いるという内容だ。香りづくりは私が担当することになった。
東京で概ねの香りの骨格を準備して、ニューヨークにある、共同研究先のルール・デュポン社の研究所で全体を仕上げることにした。実質的に香りは私が任されてニューヨークで決めなくてはならない厳しいスケジュールだった。美術館では衣装部門の部長から展示概要の説明を聞いた。ウエストの細いアンティークのダンス衣装は少しほこりくさかった。

著者が調香を手がけた「エンチャンティング・ダンス(Enchanting Dance)」。目をつぶると、その香りをかげば、美しい男女が踊る姿が浮かんでくるやもしれない

著者が調香を手がけた「エンチャンティング・ダンス(Enchanting Dance)」。目をつぶると、その香りをかげば、美しい男女が踊る姿が浮かんでくるやもしれない。瓶はメトロポリタン美術館に所蔵されている。

香水の香りは研究段階では細長いろ紙で出来たにおい紙を使って行うが、最終段階では女性の肌にのせてテストをする必要がある。におい紙の上では良くても、肌の上では良くないことがあるからだ。逆ににおい紙の上ではこんな香りの何処がいいんだと感じる香りが、肌の上では素晴らしい力を発揮することもある。
3人の女性に協力をしてもらいテストすることにした。50人ほどが会議できる部屋を借りて、女性が香りを付けてから、歩いてもらい、私が後について一人ずつ彼女たちの残す香りを調べるという方法だ。知らない人が見たら訝るような光景だろう。付け方や如何にと見ていると香水瓶の口から人差指に香水を付け、自分の左右の耳たぶにパッパッと付ける。まあ、オーソドックスな方法だ。
彼女達からたなびく香りはダンスにふさわしい広がりのある華やかな調和のよく取れた「フロリエンタル調」の香りで、きらびやかに着飾った招待の女性にも快く受け入れられる香りと判断した。その後、本社の役員会でも無事OKが出て、この香水が世に出ることになった。ダンス展という企画展に合わせて日本でも数量限定で発売された香水は好評だった。
他の方法もあるかもしれないが、身を寄せ合わないでも新しい香りを速く評価できたのは、のこり香を追ったお陰である。

 

中村祥二(なかむら・しょうじ)プロフィール

1935年東京生まれ。58年東京大学農学部農芸化学科卒業後、株式会社資生堂に入社。資生堂リサーチセンター香料研究部部長、チーフパフューマーを経て、95〜99年まで常勤顧問。40年にわたり、香水、化粧品の香料創作及び花香に関する研究、香りの生理的、心理的効果の研究を行う。現在は、国際香りと文化の会会長として香り文化の普及に尽力。フランス調香師協会会員。著書に『調香師の手帖』(朝日文庫)、『香りを楽しむ本』(講談社)、『香りの世界をのぞいてみよう』(ポプラ社)など。

Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]