ナビゲーションを読み飛ばすにはここでエンターキーを押してください。
一覧に戻る
COMZINE BACK NUMBER

香り×つながる 中村祥二

第7回 赤ちゃんがお母さんに送るにおいの信号

南アフリカの大草原で生きるヌーの大きな群れを見ると、母親と子牛をつなぐ何らかの信号があるのは確かである。生まれた子牛は自分の母親からしか乳をもらえない。他の雌牛のところに行っても、ただ邪魔にされて追い払われるだけである。生後すぐに母と子のはっきりとしたつながりが認識できなければ、子牛は生き延びることができない。母親は出産するとすぐに子牛のにおいを嗅ぐし、自分自身のにおいを子牛に嗅がせる。子牛は母親のにおいを脳に刻み込み、母と子の命を支える絆ができるのである。

においでつながる母子

授乳期の子どもははっきりと乳のにおいがするし、子どもは母親のにおいを嗅ぐことで安心する。においがもたらすつながりが強く意識される経験だ。

人間の場合はどうだろうか。ごくまれに産院で子どもの取り違えがある。子どもが大きくなってから「両親とどうも似ていない。これはおかしい」と訝しく思い産院の記録をたどってみると、同時期に出産した別の家庭で育っている子どもが、本当の自分たちの子どもだと分かる悲劇が起こる。大切に育ててきた子どもを改めてお互いに取り替えようとすれば、心に強い葛藤が生じる。
私はお母さんを対象に香りの話をするとき、「あなたがたは、出産の後すぐにご自分の赤ちゃんのにおいを嗅ぎましたか」と尋ねることにしている。驚いたことに、これまで赤ちゃんのにおいを嗅いだという人はいなかった。ただ一人例外があり、私の妻だけは貴重な経験を話してくれた。「産まれてすぐの赤ちゃんは、皆、においが違うのよ。自分の子どもはすぐ分かるの」。産院では、生まれた子どもが出産後の母親の元に戻ってくると、女性同士でお互いの子どもを見せ合ったり、抱かせてもらったりするらしい。授乳が進んでくると子どもの体臭は少し変わってくるから、新生児の時期こそが、その子ども本来の体臭−生涯変わらない指紋のような、その人の個性ともいうべきにおい「臭紋」−を感じることができる、とても大切な時期なのだ。母親には出産したらできるだけ早く、大切な赤ちゃんのにおいを嗅ぐよう勧めたい。
私も新生児のにおいを嗅いだことがある。嗅覚と味覚に関する科学では世界で唯一の総合研究所である、フィラデルフィアのモネル化学感覚研究所を訪れた時のことである。同所に勤務する山崎邦郎博士から新生児の尿を嗅いでほしいと言われた。それは、小さな瓶に入れられた1mlほどの液体で、冷凍保存されていた。実は人間の体臭は、尿に最もよく現れるのだ。嗅ぐのは、私の目の前で手のひらに包むようにして温め、室温に戻された小瓶だった。3本の瓶があり、そのうち2本は同じで1本だけ違うサンプルがあるから、それを選んでほしいというテストだ。すぐに分かった。2種類のにおいは驚くほど違うものだった。これほどの違いだったら誰にでも分かるはずだ。
山崎博士は「各人が特有の指紋を有するように、それぞれの人が特有の体臭を有すること、そしてこの体臭は免疫機能を支配するのと同じ特別な遺伝子群「MHC」によってコントロールされていることを筆者らの研究が明らかにした」と述べている。
妊娠中、すでに赤ちゃんのにおいがインプリンティングされてお母さんの脳に刻み込まれている、という説もある。たいへん興味深い話である。

 

中村祥二(なかむら・しょうじ)プロフィール

1935年東京生まれ。58年東京大学農学部農芸化学科卒業後、株式会社資生堂に入社。資生堂リサーチセンター香料研究部部長、チーフパフューマーを経て、95〜99年まで常勤顧問。40年にわたり、香水、化粧品の香料創作及び花香に関する研究、香りの生理的、心理的効果の研究を行う。現在は、国際香りと文化の会会長として香り文化の普及に尽力。フランス調香師協会会員。著書に『調香師の手帖』(朝日文庫)、『香りを楽しむ本』(講談社)、『香りの世界をのぞいてみよう』(ポプラ社)など。

Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]