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香り×つながる 中村祥二

第10回 結婚の罠

現役の頃、研究所で一人の若い女性と香料の件で面談した。それまで彼女とは幾度か会っているが、このように美しく見えたのは初めてだった。その時の彼女は文字通り、光り輝くように見えた。彼女に何か個人的に嬉しいことがあったのではないかとも考えたが、どうもそれは彼女がつけている香水のせいらしいと思えてきた。女性をこれほど美しく見せる香りがあるとすれば、これは素晴らしいことだ。この香水とその名は強く印象に残っている。この話を女性向けの講演会で話すと、終了後に何人かの女性が来てその香水の名前を教えてほしいと頼まれる。
香水は女性の魅力を高め、個性や印象を強める。また、女性に喜びを与える力もある。それに、自分の好きな香りをかぐ、ということは気持ちの良いものだ。

画像 チュベローズ

和名を「月下香」というチュベローズ。ヒガンバナ科で暑い気候を好む。横浜では8月末頃に開花する。

女性が香りの力を借りて男性を誘うことは、古くから知られている。
エリザベス一世の時代である16世紀、イギリスは香水のとりこになった。1770年に議会が通過させた特別法は「香水を使用して男性を結婚の罠に落とすことは無効なり」と女性に警告している。そして、「そのような女性は魔女のレッテルを貼られるだろう」と。
20世紀初め、フランスでは良家の子女の香りと高級娼婦の香りとは、はっきりとした違いがあった。家柄の良い娘たちはバラやスミレの花の香りをほのかに漂わせていた。少し時代はさかのぼるが、ルイ十六世の王妃となったマリー・アントワネットもそうだった。彼女は特にバラとスミレの香りを愛し、それを自分の香りと決めていた。
これに対して高級娼婦の香りというのはジャスミン、チュベローズ、パッチュリ、動物性香料のムスクやアンバーを用いた、あからさまにセクシーな香りであった。19世紀終わりから20世紀初めにかけて女性がどのような素性であるのかは、漂わせる香りで知ることができたということだ。
チュベローズは花香の中で最もセクシーと言われている。暗くなるほど芳香が強まる、あでやかで濃艶な扇情的な夜の花である。18世紀イギリス、ヴィクトリア朝時代のチュベローズの花言葉は“危険な喜び”“なまめかしさ”とその香りの特性をよく表している。
今は時代も変わってきた。1979年頃から人気の高かったホワイトフローラル系の香り(白い花の花束の香り)の要素として欠かせないのがチュベローズである。ホワイトフローラル流行の先駆けとなった香水のコンセプトは「世間のけがれを知らない無邪気で純粋な若い女性のための香水」であった。この香水を普通に評価すると「女らしくノスタルジックで品が良く、洗練された香り」となるが、その中にはパフューマーの計算された男を誘う技が秘められていたのだ。
最近は『Marry me!(結婚して!)』というネーミングの香水まで現れている。婚活に熱心な日本の男性たちはセクシーな香りを巧みにまとった女性に、心して立ち向かわなくてはならない。

 

中村祥二(なかむら・しょうじ)プロフィール

1935年東京生まれ。58年東京大学農学部農芸化学科卒業後、株式会社資生堂に入社。資生堂リサーチセンター香料研究部部長、チーフパフューマーを経て、95〜99年まで常勤顧問。40年にわたり、香水、化粧品の香料創作及び花香に関する研究、香りの生理的、心理的効果の研究を行う。現在は、国際香りと文化の会会長として香り文化の普及に尽力。フランス調香師協会会員。著書に『調香師の手帖』(朝日文庫)、『香りを楽しむ本』(講談社)、『香りの世界をのぞいてみよう』(ポプラ社)など。

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