映画史上初めて未来都市とヒト型ロボットを登場させた作品と言えば1926年にドイツで製作された『メトロポリス』。モノクロのサイレント(無声)映画だが、後のさまざまな作品に影響を与えたことで知られるSF映画の名作だ。
物語の舞台は、地下で重労働に耐える労働者階級と、地上で悠々自適な生活を送る上流階級とに二分された2026年の大都市・メトロポリス。労働者達の心の支えとなっている娘マリアの存在を危険視した街の支配者は、彼女にそっくりのロボットを作り、その信頼を失わせようと画策する。
ここで登場する、マリアの姿をコピーする前のロボットこそ、史上初でありながら最高傑作と言われているメタリックボディの女性ロボット。『スターウォーズ』の人気キャラクター「C-3PO」もこれを真似たと言われるが、映画評論家の故・淀川長治氏が2つを比較してC-3POを酷評した話は有名だ。
また、ロボ・マリアを完成させた科学者が「完璧だが、魂だけはどうすることもできない」と言うのに対して、街の支配者が「魂などない方が良い」と答えるシーンも現実味があって印象に残る。
リアルな近未来描写でカルト的人気を誇る『ブレードランナー』も、実は『メトロポリス』の影響を色濃く残した作品の一つ。しかし、ロボットの機能はこちらの方が数段上で、自分自身の感情を持ち合わせている。
ところが、これは人間が望んで作った機能ではなく、高性能化を図った中での副産物。最新型のロボット(本作品では“レプリカント”と呼ばれる)に限り、作られてから数年たつと自然に感情が芽生え始めるようになったのだ。これを知った人間は、自らの存在が脅かされないよう彼らの寿命を4年とプログラムしてしまう。
作品全体を通して描かれているのは、人間の奴隷として危険な業務をあてがわれ、生死まで弄ばれるレプリカント達の怒りと悲しみ。次々と仲間を失い、“生”への望みも打ち砕かれて、慟哭する姿はあまりにも哀しい。
これに対して『A.I.』の主人公ロボットが執着したのは、母親への愛だ。
ロボットが大量生産され、人間の生活を支える近未来。少年型次世代ロボットとして開発されたデイビッドは、不治の病で冷凍保存状態の息子を持つ夫婦に引き取られ“母親への永遠の愛”をインプットされるが、息子が奇跡的に回復すると森へ捨てられてしまう。それでも母親に愛されようとする彼は、以前読んでもらった「ピノキオ」のストーリーを思い出し、人間にしてもらうためブルーフェアリーを探し始める。
『ブレードランナー』のレプリカント達の“生”への欲求も、デイビッドの“愛”への執着も、言わば人間が抱える永遠のテーマ。本来そうしたものを持ち合わせないはずのロボットにこうした感情を持たせることで、どう生きるか、どう愛するか、といった問題を、改めて我々“人間”の目の前に突き付けられたように感じる。
それと同時に気になってくるのが「魂などない方が良い」という『メトロポリス』のセリフで、いつか技術的に可能になったとしても、人間自身さえうまくコントロールできない心という厄介なシロモノを、ロボットに望むべきではないのだと痛感した。もちろん、それはまだまだ遠い未来の話なのだが…。
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