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◆ 最終回:シリコンバレー総括
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◆ シリコンバレーの概要

早いもので、この連載を始めて10ヶ月経った。何度かネタ切れ、そして時間切れになりそうなのを、編集長に励まされながら、ここまでやって来られたことに感謝したい。さて、最終回ということで、題名にふさわしく、シリコンバレーについて筆者の知る限りで総括してみたい。

シリコンバレーとは、マウンテンビュー、サニーベール、サンタクララの3市にまたがる地域の俗称で、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタクララ郡に在る。今では、サンホセ(サンノゼ)市(同じサンタクララ郡)も、シリコンバレーの一部だと称しているようである。

ベイを渡った向こう側(イーストベイと呼ぶ)にはフリーモント市があり、ここはパソコン関係の会社(台湾韓国中国系)がいっぱい在り、これもシリコンバレーをさらにリッチにしている。そうそう、ここにはまた、トヨタのトラック生産工場が在ることでも知られている。また、秋葉原ほど有名ではないが、サニーベールのAMD本社の近くには、フライズ・エレクトロニクスが在る。その昔はここで、パソコンの新製品を見るのが楽しみであったが、今はもうその役目は終わったように思う。筆者が最初にパーム(パイロット)を見たのはフライズであった。

◆ 半導体産業が生まれたシリコンバレー

半導体会社は当初マウンテンビュー市にその多くが在ったようで、インテル社の最初の工場(FAB1)もそのひとつだ。多くの半導体工場はミドルフィールド通りに多く在った様に記憶している。かのフェアチャイルド社(ここから今ある半導体会社の幹部がスピンオフしたことで有名)もそこに在った。

シリコンバレーは元々、政治・労働組合に無縁だ。シリコンバレーに大統領が来るようになったのは90年後半からで、それ迄はいわゆるSIA(Semiconductor Industry Association)として、ダンピングなどの訴えを、政府に働きかけたり、技術系移民を増やすように働きかけをしたくらいであろう。そしてシリコンバレーに在るハイテク会社で、組合が有るという会社は今でも聞いたことが無い。トップの経営陣も東部の会社で働いた経験から、組合に好感を持たない人がいっぱい居ることと、組合を作る理由が無いからである。

60年頃迄はカリフォルニア州立大学バークレイ校の、特にChemical Engineering出身者がシリコンバレーでかなり活躍していたと聞くが、その後はやはりスタンフォード大学、特にPhD出身者が幅を利かせている。シリコンバレーに隣接するパロアルト市に在るスタンフォード大学の敷地は膨大で、敷地の一部は会社や研究所に貸し出されている。有名なものにゼロックスのパロアルト研究所が在った。その意味から、近くに優秀な大学が在り、優秀な人材を常に供給していたことも、シリコンバレーの発展に大変な影響を与えていると考えて良いだろう。

インテル社のクレイグ・バレット社長は若くしてスタンフォード大学の教授になった人で、その後インテル社に入社し、品質管理や製造技術の近代化に大きく寄与したことが、インテル社が486以降の製造で飛躍的成長を遂げた理由であると言って過言ではない。人材とは必ずしも学生とは限らない良い例である。

日本では会社から大学に行く例を、最近でこそかなり見受けるようになったが、大学から会社の幹部に行く例は余り無いのではないか?大学が会社や社会のニーズからほど遠いのが原因だろうが、これを直さない限り、日本の会社は本来必要のない新入社員の教育に相も変わらず多大な労力と費用を注ぎ込みながらも、学生の質の低さ、即戦力とならないことに不満を感じ続けるばかりだろう。

◆ シリコンバレーのコピーは可能か?

アメリカ国内でも第2のシリコンバレーを作ろうとする試みが有ったが、本家のシリコンバレー程に成功した話は聞かない。有名な大学と無数の小さな会社がこれだけ集まっていて、かつどんどん新しい会社にスピンオフしていくシリコンバレーは、今やソフト会社(多くはサンホセ市またはレッドウッド市にある)、ウェブホスティング会社(多くはサンフランシスコ市)を含めた、一大ベイエリア・ハイテク地帯と化している。今から考えるに、シリコンバレーはその時代にふさわしく誕生し、そして時代の要請に対応して発展して行った。半導体、そして集積回路の初期に、頭脳と人材、そして豊富なオフィスや小工場のスペース、最後に身近な住宅が相相まって発展した、というのが大きいだろう。そして常に何か新しい事をやりたいと言う人が現れて、新しい会社を創り、資金を集め、製品を生み出して行った。

筆者がサンタクララ市のオフィスを訪れるようになった80年代後半には、まだ毎日ハッピーアワーに皆が集まり、一杯飲んで1時間程議論をしてから家に帰るような習慣がシリコンバレーに残っていた。日本と同じように、決まったレストランやバーに行き、ビールを飲むのだが、違うのは、大抵はビール一本止まりで、議論も上司や会社の悪口を言うことは余りなかった様に記憶している。このハッピーアワーで仲間や上司と率直な話が出来、かつ他の会社の事などは、辞めて行った人の話を通じて知ることが出来た。

その頃気が付いたのは、仕事仲間や上司の友人がよその会社に居ることが多く、何か仕事で問題があった時など、そうした友人に相談することが多いということであった。今は、余りそういうことは聞かないが、シリコンバレーの発展に、こういう慣習が寄与したことは疑う余地が無い。

日本では筑波研究学園都市が、かなりシリコンバレーに似た雰囲気だと思うが、決定的に違うのが民間主導でないこと、中小のスタートアップ会社や工場の集まった地域でないこと、そして人の交流が無いことである。国や地方自治体が単にマネをしても、うまく行かないのは当然だろう。筆者が考えるに、先ずは大学を改革し、大学を真の知識と人材の供給源として、中小企業あるいは新興企業を育てる環境が出来れば、第二のシリコンバレーも夢ではないと考える。

伝え聞くに、イスラエルでは既にこの構想でかなり成功を収めていて、日本企業も合弁で研究所を設立していると聞く。詰まるに、日本も国が100年の計を図り、大学や新興企業を助成するも干渉はしないやり方で発展を見守ることが、成功の秘訣なのかも知れない。


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