“本”がネット上で販売されていることを御存知だろうか。紙の書籍そのものの通信販売のことではない。デジタル化された書籍の中身、つまりコンテンツそのものがダウンロード販売されていることを。 これらのコンテンツは、一般には電子書籍と呼ばれている。 もちろん、書店に並ぶ数に比べればまだほんの一部に過ぎないが、音楽や映像などのコンテンツが急速にデジタル化されつつあるのと同様、書籍の世界にも静かにデジタル化の波が押し寄せようとしているのだ。 とはいっても書籍は依然として紙のままだ。それには理由がある。携帯性に優れ、読みたい時にさっと取り出して読むことができるのは、“本”という形があるからこそ。携帯音楽プレーヤーのように電池は必要ないし、読書を中断しても栞を挟んでおけばいい。条件さえ良ければ、保存性も極めて高い。価格だって、お小遣いで買える程度に収まっている。 一方、書籍をデジタル化すれば、データだけを保存すればいいので本の収納に場所をとられることもないし、紙パルプという資源を消費することもない。検索性が格段に上がることは言わずもがな。テキストだけでなく、音声や画像、映像と組み合わせたマルチメディア書籍を作ることもできる。 こうしたメリットがあることから、日本では1990年代、既にパッケージとしての電子書籍が登場していた。比較的普及したのは、電子ブックと呼ばれていた8cmCD-ROMに収められた辞書類や、EPWING形式で収録された12cmCD-ROM版の百科事典など。ほかにもエキスパンドブック形式で作られたCD-ROMなどがあったが、ほとんど普及しなかった。 その後、デジタル化されたコンテンツをダウンロード販売するサイトがいくつか登場。それらを読むための端末も、パソコン、PDA、さらには携帯電話などに拡大していったが、専用端末の話題は久しく途絶えていた。 松下電器産業が今年2月に発売した「ΣBook(シグマブック)」は、久々に登場した電子書籍専用端末だ。専用というからには、既存の端末にはない独自の特徴を備えているに違いない。パナソニック システムソリューションズ社 電子書籍事業グループの佐藤真さんと、開発を担当した川上香葉子さんに話を伺った。 佐藤さん曰く「当社が電子書籍端末を手がけるのはこれが初めてです。2001年度からスタートした『創生21プロジェクト』の下、まったく新しいビジネスをやってみようということになりまして、それならば、これからの市場創造を期待できる書籍のコンテンツ配信をやろうじゃないかと。でもシステム、コンテンツ、端末のすべてを同時に開発することになり、予想以上に大変でした」。 結局、ΣBookが世に出るまでに約3年かかった。果たせるかなそれは、既存の製品とはまったく異なるコンセプトで作られた電子書籍端末だった。
まずは写真を見ていただきたい。ΣBookのサイズは、四六判と呼ばれる単行本とほぼ同じ。電池を除いた重さは約520gで、厚めの単行本に近い。外側は落ち着いた印象を与えるつや消しブラックに塗られている。 これを、開いて使う。そう、ΣBookは見開き型の電子書籍端末なのだ。既存の端末はすべて1ページ型だから、まず、ここが大きく違う。2枚の液晶パネルは青白表示。描画スピードは紙の書籍のページを繰る感覚に近く、ほとんどストレスを感じない。しかしなぜ見開き型にしたのだろう? 単純に考えても液晶パネルは2枚必要になるし、消費電力も増すはずなのだが。 「紙の書籍が見開きで読むように作られているのに、1ページ単位で表示していたらおかしいじゃないですか(笑)。テキスト中心のコンテンツはもちろん、特に見開き構成の絵が多い漫画は、1ページずつ表示するわけにいきません」(佐藤)。 なるほど確かにそのとおりだ。見開きだから手に持った時の印象も紙の書籍に近く、最新の電子機器を使っているという意識は薄い。 操作ボタンも必要最小限で、画面の下に5つあるだけ。ページ送り/戻りは両端のボタンを使って行う仕組みだ。 そもそもΣBookは、既存の電子書籍と紙の書籍の狭間を埋めることを狙って開発されたのだという。メール文化にどっぷり浸った若者たちは、PDAや携帯電話の小さな画面でテキストを読むことに慣れているから、書籍のような長文でもさほど違和感なく読むことができる。 一方、40歳代以上の大人にとって、小さな画面での読書はかなり辛い。既存の端末は総じて画面解像度が低いため、無理に読もうとして目が疲れるのだ。電子書籍のコンテンツによっては縦書きをサポートしていないものもある。 「今の電子書籍が普及しないのは、紙の書籍とのギャップが大きすぎるからだと思います。ΣBookがターゲットにしているのは、30〜50歳代のビジネスマン。最も本を読むであろう世代です。彼らに電子書籍であることをなるべく意識せず使ってもらいたい。見開きにしたのはそのためなんです」と佐藤さん。 実際にΣBookで書籍を読むための手順を紹介しよう。 コンテンツはネット上の2つのサイト「ΣBookJp」(http://www.sigmabook.jp/)と「10DaysBook」(http://bb.10daysbook.com/)で販売されている(決済はクレジットカード)。ユーザーは読みたい書籍のデータを自分のパソコンにダウンロード。次にデータをSDメモリーカードに移動し、それを常時ΣBookに差したまま読む。ΣBook本体にメモリー機能はない。 2004年7月現在で、コンテンツ数は約6000タイトル。ジャンルも長編小説、ビジネス書、専門書、名作漫画など多種多様だ。価格はまちまちだが、だいたい紙の書籍の5〜7割ほど。 512MBのSDメモリーカードに、小説なら約50冊(1冊200ページ、約13Mバイトを想定)、漫画なら約25冊(1冊200ページ、約21Mバイトを想定)を収めることができる。
紙の書籍に近い電子書籍端末を作る── 開発の狙いは明確だったが、実際は苦労の連続だったという。 液晶パネルを2枚使うとなると、消費電力とサイズが問題になってくる。ユーザーに頻繁に電池を交換させるわけにはいかないので、バックライトを常時点灯する透過型液晶は使えない。画面は紙の書籍の文面サイズにしたいが、パネル周りの回路設計は極力コンパクトにしたい。 それを可能にしたのは、記憶型液晶と呼ばれる液晶パネルの存在だった。 「記憶型液晶は、一度画面に描画したら、電源を切ってもその描画を保持するという特殊な性質を持っています。つまりΣBookを開いて一度ページを描画したら、電源は自動的に切れている。ですからΣBookには電源ボタンがないんですよ」とは開発者の川上さんの弁。 記憶型液晶自体は昔からあったのだが、カラーが優先される日本の市場ではなかなか使い道が見つからなかった。日本で商品化されたのはΣBookが初めてだという。 電源は単三アルカリ乾電池2本。1日80ページを閲覧すると計算して、約3ヶ月持つ。 液晶パネルは、ユーザーの目を疲れさせないようXGA(1024×768ドット)の解像度を実現した。実際、かなり細かい欧文も判読できるし、漢字のルビもちゃんと読める。 「しかも16階調のグレースケールまで表示することができます。テキストだけなら4階調もあれば充分なんですが、漫画を読むことを考えると豊かな階調表現が欠かせません」(佐藤)。 高解像度、そしてサイズが大きいという点で、ΣBookの液晶パネルはほかの端末に大きな差を付けている。
液晶パネル以外にも、ΣBookには独自のアイデアが盛り込まれている。コンテンツの形式にイメージデータを採用し、コンテンツ提供者が紙の書籍のレイアウトやデザインを崩すことなく、ほぼ元のままの形でデータ化できるようにしたこともそのひとつ。既存の端末の場合、同じコンテンツであっても紙の書籍とはレイアウトが大幅に異なるのが普通だ。どちらが本を読むという感覚に近いかは、言うまでもない。 また、SDメモリーカードを使った書籍専用の著作権保護システムを実装し、コンテンツ提供者の権利をしっかり守っている点も評価できる。 川上さんは「モックアップから始めて、何度も試作機を作りました。問題はコストと機能・スペックをどのあたりでまとめるか。例えば、当初は内蔵フォントの種類とサイズのバリエーションをもう少し多く考えていましたが、メモリのコストを削減するために絞りました。また、操作ボタンの数も必要最小限にとどめました。最終的には、バランスの取れたところで製品化できたと思います」と語る。 実際、ΣBookは松下電器産業が手掛ける初めての電子書籍製品とは思えないほどよくできている。何より、デジタルでありながら紙の書籍を読むアナログ的な感覚を残している点がいい。 ユーザーからは「液晶をカラーにしてほしい」「もう少し軽く」等々、さまざまな声が上がっているという。ただΣBookはあくまでも書籍を読むためのハードウェア。開発陣は、PDAのように読書以外の機能を搭載するつもりはないと語る。
ΣBookは大手書店を中心とした書店と松下グループのショッピングサイト「パナセンス」(http://www.sense.panasonic.co.jp/)で販売されている。家電ルートで大々的に販売されないのは、電子書籍がハードウェア単独で完結する商品ではないからだ。 大切なことは、何をおいてもコンテンツ。読者が読みたいと思う書籍が充分に用意されない限り、どんなにハードウェアが進化しても電子書籍の普及は望めない。 現在、在庫のある紙の書籍の流通可能点数は約60万点と言われている。それに対し、電子書籍の刊行点数は2〜3万点ほど。紙の書籍の市場には遠く及ばない。 普及が進まない理由として、乱立するコンテンツ形式の問題が挙げられる。著作権者の思惑が入り乱れ、電子書籍はさまざまな形式で販売されているのだ(表参照)。もちろん、端末に搭載されているビューワソフト(=コンテンツを表示するソフト)が読みたい書籍の形式に対応していないと、読むことができない。その点はΣBookも同じだ。 規格が統一されたら問題は解決すると思われるが、なかなか難しいようだ。2003年9月には出版・印刷業界が中心となって電子書籍の普及を促進する「電子書籍ビジネスコンソーシアム」が設立されたが、規格統一に向けた目立った動きは見られない。 しかしながら、ΣBookの登場によって、電子書籍普及の端緒は開かれるかもしれない。読書以外の機能を持たず、見た目も紙の書籍を彷彿とさせるΣBookは、読者だけでなくコンテンツホルダーである出版社から見ても、非常に理解しやすい端末だからだ。 「これなら紙からデジタルへの移行がしやすい」── そう考える出版社は少なくないはず。電子書籍が完全に普及すれば、書籍の在庫問題は解消する。紙資源は無駄に消費されず、店頭から瞬く間に消え去る数多の書籍も、デジタルの形で命を長らえることができるだろう。 消費者(読者)と生産者(出版社)双方にメリットがあれば、コンテンツのデジタル化は急速に進む。音楽(CD)や映像(DVD)がそうであったように。 若年層はPDAや携帯電話で本を読み、中高年は紙の書籍に似た専用端末で読む。街の要所要所には、いつでも自由に書籍をダウンロードできる専用スポットが設置されている……ΣBookは、そんな読書の未来形を想起させる端末だ。
名称
アドレス
概要
主なデータ形式
電子書店 パピレス
1995年にスタートした日本初の電子書籍販売サイト。小説・実用書・漫画・写真集など、あらゆるジャンルの書籍を扱っている。
Adobe PDF、 Adobe eBook、 XMDF、TXT、 HTML
楽天 ダウンロード
書籍だけでなく、ゲームや PCソフトなども扱う総合ダウンロードサイト。コミックや写真集も充実している。
XMDF、Adobe PDF、EBI.j、TXT、HTML
青空文庫
著作権が消滅した作品や、無料公開が認められた作品を電子化して公開しているインターネット電子図書館。
TXT、HTML、.book
Space Town ブックス
「ザウルス」を販売するシャープが運営するサイト。XMDF形式がメインで、文芸・ビジネス・実用など幅広いジャンルの書籍を用意する。
XMDF、TXT
PDABOOK.JP
PDAで読める電子書籍を中心に販売。サイト上で作品毎にOSが確認でき、購入しやすいのが特徴。
Adobe PDF、 XMDF、.book、 TXT、ZIP
取材協力:松下電器産業株式会社(http://panasonic.jp/)
●書店店頭でもΣBookのコンテンツが買える
ΣBookは電気系の大手量販店ではなく、書店の店頭で販売されている。であるならコンテンツも同じ場所で購入できたほうが絶対便利。というわけで今夏、旭屋書店(銀座店)、紀伊國屋書店(新宿本店)、八重洲ブックセンター(本店)にて、「ダウンロードBox」が設置された。これによりSDメモリーカードとクレジットカードさえあれば、パソコンを持っていなくてもΣBookを使うことができるようになった(パソコンがあった方が購入した書籍をストックしておくには便利だが)。より幅広いユーザーに訴求するためには、ぜひとも必要なサービスだったと言える。