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くれ竹筆ぺん ニッポン・ロングセラー考 墨づくりの伝統から生まれた筆文字文化の継承者

固形墨から液体墨を経て、筆記具市場へと進出

腕の立つ製墨職人だった創業者の綿谷奈良吉。「優秀なる商品は必ず勝つ」という信念のもと、良質な固形墨を作り続け、現在の確固たる地位を築き上げた。
   
 
1958年に発売した業界初の液体墨「墨滴」。この2年前には、固形墨以外の初めての製品となる練り墨「墨のかおり」を発売している。

「年賀状、そろそろ書かないとなあ」。
12月に入り、年の瀬が近付いてくると、誰もが皆そう思う。パソコンが普及した今、年賀状は書くというより、作る、あるいは印刷するといった方が正確なのかもしれないが。
でも、つい数年前まではそうじゃなかった。ほとんどの人が、当たり前のように手間暇かけて手書きの年賀状をしたためていた。何枚も、何十枚も。人によっては何百枚も。

年賀状を書くときに欠かせない筆記具がある。
机の上のペン立てを見てほしい。あるいは、引き出しの中を探してみてほしい。鉛筆、ボールペン、シャープペンシルなどに混じって、筆ペンが並んでいないだろうか? そこにはたぶん、墨痕鮮やかにこう書かれているはずだ―「くれ竹筆ぺん」と。
硯も墨も筆も使わずに筆文字が書けるこの画期的な筆記具を作ったのは、1902(明治35)年、奈良に誕生した綿谷商会。現在の株式会社呉竹だ。

元々奈良は、1300年の歴史を持つ製墨業の町だった。腕のいい製墨職人だった綿谷奈良吉は、独立して綿谷商会を創業し、兄弟や息子たちと一緒に固形墨を販売していた。
戦前、戦中、戦後と、習字をめぐる教育政策が目まぐるしく変わるなか、後発だった綿谷商会は学校への訪問販売などで売り上げを伸ばし、固形墨の分野で「くれ竹」ブランドを確立。1958(昭和33)年には業界初の書道用液体墨「墨滴」を大ヒットさせ、自他共に認める製墨のトップメーカーとなった。

ただ、いかに売れているとはいえ、売り上げを墨滴だけに頼っていたのでは経営的に不安定。しかもこの頃から、書道人口には限りがあり、いずれは頭打ちになることが予想されていた。
「もう一つの書く分野へ進出しよう」。経営陣は迷わずそう判断した。
1963(昭和38)年、同社は初めての筆記具「クレタケドリームペン」を発売。これは当時流行の兆しを見せていたマーキングペン(サインペン)の一種で、国内外で爆発的な売り上げを記録した。生産が追いつかず、同社はペン生産部門を分離する形で別会社を作るほどだった。

 
1963年発売の「クレタケドリームペン」。同社が筆記具分野に進出する転換点となった製品であり、ペン先を研究するきっかけになった製品でもあった。

課題を一挙に解決した“スパイラル状のねじり”


1956年に新設した本社の研究室。墨滴、クレタケドリームペン、くれ竹筆ぺんなど、数々のヒット商品がここから生まれた。

1968年、クレタケドリームペンの成功を受けて、奈良市の本社近くにぺん工場を建設。

クレタケドリームペンのほかにも、呉竹はいくつかのサインペンを開発し、他社にOEM供給していた。売り上げは好調だったが、1971(昭和46)年、思いも寄らない事態が発生した。いわゆるドルショックによって円が切り上げられ、輸出産業全体が大打撃を受けたのだ。
この頃、呉竹にとってサインペンの海外輸出は、製墨と並ぶ経営の柱だった。
「ドリームペンに代わる新しい製品を開発しなければ……」。筆記具に進出した時とは事情が異なる。このままでは会社が危ない。切羽詰まっての製品開発を迫られていた。

ちょうどその頃、世間では老若男女を問わず、筆文字を書くのを苦手とする人々が増えていた。それには、戦後しばらく毛筆習字教育が正課を外れたこと、多彩な筆記具の登場で筆や墨を日常的に使わなくなったこと、筆文字を書くには墨、筆、硯などの道具を揃えなければならないことなど、さまざまな理由があった。
その一方で、芳名帳への記帳や熨斗紙への署名、暑中見舞いや年賀状など、筆文字が求められる場面は身近なところに沢山あった。
「できれば筆と墨で文字を書きたいと思っている人は多いはず。もっと簡単に筆文字が書ける筆記具があれば、売れるんじゃないか」。
このコンセプトなら、墨づくりの伝統をサインペンの開発で培った筆記具製造技術と結びつけることができる。呉竹の社運を賭けたプロジェクトがスタートした。

ところが、開発陣はすぐさま大きな問題に直面した。目指していたのは筆圧の強弱によって太い文字、あるいは細い文字が自在に書けるペンだったが、それを実現するペン先の開発が困難を極めたのだ。
美しい筆文字を実現するためには、トメやハネ、ハライなど、書に必要な基本的な筆の運びと表現ができなければならない。が、ペン先が柔らかければ太い線しか書けないし、硬ければ細い線しか書けない。同じペン先でこれをどのように書き分ければいいのか。また、インクをペン先までスムーズに流す工夫も必要だった。

開発スタートから2年あまり。考えられるペン先の材質や形状はすべて試作してみたが、思うようなペン先はまだできずにいた。開発陣の試行錯誤は1973(昭和48)年まで続いたが、彼らは決して弱音を吐かなかった。「この新しいペンに会社の命運がかかっている。諦めるわけにはいかない」。思いは一つだった。
そして、光が射した。ナイロン製の芯の射出成型時にスパイラル状のねじりを加えると、これまでの問題が一気に解決することが判明したのだ。
筆圧をゆっくりとかけると、ナイロン芯のねじれた部分が開き、そこへインキが供給されて太い文字を書くことができる。筆圧をかけなければ、ナイロン芯のねじった部分は絞り込まれているので、インキはあまり流れず細い文字を書くことができる。これなら、トメやハネ、ハライの表現も自由自在だ。
加えて、もう一つの課題だったペン先へのインキ供給も、成型時に形作られるナイロン芯表面のスリットが通路の役目を果たすため、きれいに流れることが分かった。

完成した製品は「くれ竹筆ぺん」と名付けられた。墨づくりの伝統とサインペンの開発技術が融合した、筆記具の歴史に残る画期的な製品だった。

初期の「くれ竹筆ぺん」。添付のインキボトルにインキ含湿材を差し込み、それを再び軸に差し込んで使う仕組みだった。製品ロゴは著名な書家 花田峰堂氏の手になるもの。

オイルショック不況を乗り越え、会社の主力商品に

  使い方を分かりやすく記した「くれ竹筆ぺん虎の巻」を付けたのはグッドアイデアだった。当時の消費者はみな、簡単に筆文字が書けることに驚いたことだろう。写真は共に1976年に発売された商品。右は年賀状用のスタンプ付き。
同社は販促チラシやキャンペーン案内を配布し、くれ竹筆ぺんの告知に力を尽くした。
店頭ディスプレイにも工夫を凝らした。これは当時人気の高かったイラストレーター、水森亜土をキャラクターに採用したもの。

呉竹の苦難は製品が開発された後も続いた。くれ竹筆ぺんが開発された1973年10月、日本中を大混乱に巻き込んだオイルショックが到来。製造業は深刻な打撃を受け、くれ竹筆ぺんも原材料の入手が困難になった。
一時は製造延期も想定されたが、同社は関係各方面に依頼して原材料を確保。急ピッチの生産スケジュールで、11月に行う関西圏でのテスト販売までに、なんとか10万本を生産することができた。

テスト販売した製品は、現在の製品とは異なり、添付のインキボトルにインキ含湿材(中綿)を差し込み、それを再び軸に差し込んで使う仕組みだった。販売価格は200円。初めて世に出る製品なので、使い方を分かりやすく記した「くれ竹筆ぺん虎の巻」も付けた。
結果は、予想を上回るものだった。代理店からは「もっと商品を回してくれ」という声が相次いだ。消費者に対する情報収集の結果、ペンを強く押せば太く書け、力を抜くと細く書けるという、自在な筆遣いに対する評価が高いことが分かった。
「製品のコンセプトは間違っていなかった。これならいける」。社内の誰もが、手応えを感じていた。

1974(昭和49)年初め、同社はくれ竹筆ぺんの需要を411万本と予測し、増産体制を取った。狙いは、年賀状と並んで日本人の時候の挨拶として定着している暑中見舞いの需要。ところが、予想に反して商品はさっぱり売れなかった。暑中見舞いは年賀状ほど改まった気分を人々に与えず、筆文字にこだわるまでには至らなかったのだ。
経営陣は焦ったが、「こうなったら本命の年賀状商戦に賭けるしかない」と戦略を練り直し、年末に向けた積極的な販売攻勢に出ることにした。
9月からは、鬼のキャラクターを使ったテレビCMを全国展開。同時に東京の国鉄車両には中吊り広告を打った。また、10月からは役員や部長自らが大阪のデパートで実演販売を実施。コーナーには「毛筆の苦手な人でも手軽に筆文字が書けるぺん」というキャッチフレーズを盛り込んだポスターを貼って、人々に強くアピールした。
努力は実った。夏の終わりには不良在庫になるかと心配された大量のくれ竹筆ぺんは、12月初旬にはほぼ完売していた。
その好調な売れ行きは、営業マンに深刻な品不足を心配させる程だった。

この時の売り上げに占める商品別の比率を見ると、くれ竹筆ぺんが38%、墨滴などの液体墨が36%、初心者用の書道セットが13%、固形墨が7%、ペン類が6%となっている。
くれ竹筆ぺんは、本格的な販売がスタートしたその年から、同社の主力製品となったのだ。ある有力スーパーが75年末にリストアップした売れ筋商品の中で、くれ竹筆ぺんは全品目中4位の売り上げを記録。まさに会社の窮地を救った救世主だった。


 

今こそ求められる、手書きによる筆文字の温かさ

第5代社長の綿谷基氏。創業者・綿谷奈良吉の曾孫にあたる。
現在販売されている「くれ竹筆ぺん」は全12種類。写真は軟筆+硬筆の太・細万能タイプ(右端)。筆ぺん以外の関連商品として筆風サインペン「筆ごこち」(写真中央)、「くれ竹万年毛筆・夢銀河」(写真左端)などがある。
 

その後、筆ペン市場には他社が数多く参入し、1976(昭和51)年には年間約3000万本もの市場が形成された。呉竹は同年6月に「くれ竹筆ぺん 軟筆」を、78〜80年にかけては「くれ竹筆ぺん中細タイプ」「くれ竹毛筆ぺん」「くれ竹筆ぺん・二本立て」「くれ竹慶弔筆ぺん」を相次いで発売し、製品アイテムを充実させていった。
90年代に入っても、筆ペン市場は順調に推移していた。年間生産本数は約2600〜2700万本。呉竹はそのうちの約30%を占めるトップブランドであり続けた。

ところが21世紀に入ると、筆ペンのみならず、筆記具業界全体に陰りが見え始める。パソコンの急激な普及により、人々が手書きの文字を書く機会がどんどん減少していったのだ。ビジネスレターはもちろん、年賀状や暑中見舞いといった日本人の文化に根ざした書状まで、パソコンで作り、プリンタで印刷するのが普通になってしまった。
加えて、筆ペンの場合は少子化の影響も少なくなかった。書道人口の減少が売れ行きに直結したのだ。くれ竹筆ぺんは年々、その生産数を減らしていった。

だが、同社代表取締役社長の綿谷基氏はこう語る。
「筆文字を手書きで書くという行為には、人間性の回復につながる何かがあると思います。コンピュータが普及し、多くの事がデジタルで処理される今だからこそ、アナログの温かさが求められているんじゃないでしょうか」。
実際、昨年は市場にやや揺り戻しが起こり、くれ竹筆ぺんも販売数が前年より伸びたという。同社は久しぶりにテレビCMを打った。何かが変わりつつあるのかもしれない。

私たちは、もうすっかり印刷された年賀状に慣れてしまっている。けれど、たまに手書きの筆文字で書かれた年賀状を貰うと、妙に嬉しくならないだろうか。
「この人は私宛の年賀状を書くのに、これだけ時間と労力を割いてくれている」。そう思うと相手の気持ちが伝わってきて、なんだかこちらまで心が癒されたような気分になる。手書きの筆文字が、離れた所にいる人々の心をつないでくれるのだ。
いかがだろう、今年の暮れは、筆ぺんで年賀状を書いてみては?

取材協力:株式会社 呉竹(http://www.kuretake.co.jp/


筆記具からアート&クラフトへ__呉竹が目指す新たな事業領域

2年前に創立100周年を迎えた呉竹。少子化に伴う書道マーケットの縮小、パソコンの普及による筆ぺん需要の減少など、同社を取り巻く昨今のマーケット環境は厳しいものがあるが、同社は事業領域の拡大を図ることで新たな方向性を見つけつつある。
それが、「書く・画く・描く かく文化の創造」という企業スローガンのもとで展開される「アート&クラフト」事業。
具体的には、写真アルバムに手書きで装飾を施すスクラップブッキングや、絵と文字を組み合わせてメッセージを送る絵てがみを指す。呉竹はこれらを楽しむための製品を開発、販売するだけでなく、カルチャー教室と物販ショップの複合店舗「DUO(デュオ)」も同時に展開。同店は直営の5店に加え、今後はフランチャイズ店も増やしていく予定だ。
墨で「書く」ビジネスから、「描く」ことを楽しむ新しいビジネスへと舵を切り始めた呉竹。こうした果敢なチャレンジができるのも、100年にわたる製墨の伝統があるからこそ。書くことに対する信頼がこれほど厚い会社は、他にない。

奈良市南京終にある呉竹本社ビル。製墨の工場が併設されている。


撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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