クレタケドリームペンのほかにも、呉竹はいくつかのサインペンを開発し、他社にOEM供給していた。売り上げは好調だったが、1971(昭和46)年、思いも寄らない事態が発生した。いわゆるドルショックによって円が切り上げられ、輸出産業全体が大打撃を受けたのだ。
この頃、呉竹にとってサインペンの海外輸出は、製墨と並ぶ経営の柱だった。
「ドリームペンに代わる新しい製品を開発しなければ……」。筆記具に進出した時とは事情が異なる。このままでは会社が危ない。切羽詰まっての製品開発を迫られていた。
ちょうどその頃、世間では老若男女を問わず、筆文字を書くのを苦手とする人々が増えていた。それには、戦後しばらく毛筆習字教育が正課を外れたこと、多彩な筆記具の登場で筆や墨を日常的に使わなくなったこと、筆文字を書くには墨、筆、硯などの道具を揃えなければならないことなど、さまざまな理由があった。
その一方で、芳名帳への記帳や熨斗紙への署名、暑中見舞いや年賀状など、筆文字が求められる場面は身近なところに沢山あった。
「できれば筆と墨で文字を書きたいと思っている人は多いはず。もっと簡単に筆文字が書ける筆記具があれば、売れるんじゃないか」。
このコンセプトなら、墨づくりの伝統をサインペンの開発で培った筆記具製造技術と結びつけることができる。呉竹の社運を賭けたプロジェクトがスタートした。
ところが、開発陣はすぐさま大きな問題に直面した。目指していたのは筆圧の強弱によって太い文字、あるいは細い文字が自在に書けるペンだったが、それを実現するペン先の開発が困難を極めたのだ。
美しい筆文字を実現するためには、トメやハネ、ハライなど、書に必要な基本的な筆の運びと表現ができなければならない。が、ペン先が柔らかければ太い線しか書けないし、硬ければ細い線しか書けない。同じペン先でこれをどのように書き分ければいいのか。また、インクをペン先までスムーズに流す工夫も必要だった。
開発スタートから2年あまり。考えられるペン先の材質や形状はすべて試作してみたが、思うようなペン先はまだできずにいた。開発陣の試行錯誤は1973(昭和48)年まで続いたが、彼らは決して弱音を吐かなかった。「この新しいペンに会社の命運がかかっている。諦めるわけにはいかない」。思いは一つだった。
そして、光が射した。ナイロン製の芯の射出成型時にスパイラル状のねじりを加えると、これまでの問題が一気に解決することが判明したのだ。
筆圧をゆっくりとかけると、ナイロン芯のねじれた部分が開き、そこへインキが供給されて太い文字を書くことができる。筆圧をかけなければ、ナイロン芯のねじった部分は絞り込まれているので、インキはあまり流れず細い文字を書くことができる。これなら、トメやハネ、ハライの表現も自由自在だ。
加えて、もう一つの課題だったペン先へのインキ供給も、成型時に形作られるナイロン芯表面のスリットが通路の役目を果たすため、きれいに流れることが分かった。
完成した製品は「くれ竹筆ぺん」と名付けられた。墨づくりの伝統とサインペンの開発技術が融合した、筆記具の歴史に残る画期的な製品だった。 |