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矢野
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『自由を考える』にはもう一つ、素晴らしい発言がありました。「労働者が自分の労働力を売って対価をもらっている。何が悪いんだと言われたら悪いわけではない。この状況を『疎外』という概念でとらえ返すことで、マルクス主義が出てきたわけですよね。それは概念の発明です。今求められているのも、同じタイプの発明だと思うんです。個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、そのどこがいけないのか。いけなくないんですよ。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱いているということです。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない」と。
僕はユビキタス・コンピューティングは限りなく監視社会に近いと思いますが、ユビキタス社会の便益を享受しつつ、監視社会は嫌だというのは無理です。そういう状況をトータルに理解して、その中でどう生きていくかを考えないといけない。そのときに問題状況を分かりやすく提示する概念がほしいわけですね。
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東
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ケータイも持たなければクレジットカードも持たず、自動改札機も通らないという、あるプライバシー運動家がいます。それはそれで立派なことですが、そういうライフスタイルを選ばなければ監視社会に抵抗できないとすると、誰も抵抗しなくなるでしょう。そうなるとスローフード運動のような一つの運動になってしまう。とにかく気に入らないから不便に耐えてもユビキタス社会に抵抗するというのは議論としては弱い。
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矢野
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個人でそういうライフスタイルを選択するのは自由だと思いますが、たとえ古代中国の「竹林の七賢」のように竹林の中で誰にも知られず琴を奏でていたいと思っても、監視衛星で写されてしまいますからねえ。サイバースペースの網から逃れる方法というのはやはり考えたい。村井純さんがICタグをめぐる国領二郎さんとの対談で「カバンの中に入れているものを知られたくないと思えば、カバン業界は、アルミ素材を使った『Auto-IDフリー』の新商品を開発すればいいわけです」と冗談まじりに話していました。たしかに音楽ホールにケータイの電波妨害シェルターを設置するなど、技術的なシェルターをつくるという手もある。また、自分の情報のデジタル化に対する拒否権を持つべきだと主張する人もいます。いま大事なのは既存の考え方を改善したり、てこ入れしたりするだけではダメで、ラディカルな発想の転換をしなければならないということだと思いますね。
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東
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監視社会について話をすると、「みんなが監視社会はいいと思っているのに、なぜ問題にするのか」とよく言われます。しかし、これは議論が逆さまになっている。問題は、「どうして僕たちはみな監視社会を欲望するようになってしまったのか」なのですね。
これは具体的な話です。産業社会化が進んで、商品が物から「差異」になった、というのは一昔前よく言われた話です。しかし、いまや「不安」が商品にされている。たとえば、子どもにGPSを付けて居場所をチェックできるサービスが人気があると言われる。それはそうなのでしょう。しかし、企業側が何もしないのに保護者が集まって運動が起きたわけではない。広告宣伝で不安をあおり、その結果として作られたサービスなんです。その本質は、記号や差異が商品だ、と言われていた80年代の消費社会と変わらない。それは「赤い服より青い服が格好いい」という言説が人々の欲望を作り出していくように、いまは、「GPSがないよりある方が安心」という言説が人々の欲望を作り出している。言説を流してニーズを作り出し、そのニーズに応える形でサービスを提供する。監視カメラも1台より2台の方が安心でしょう、2台より3台の方がいいと、どんどん増えていく。いまや安心とリスクは新しい商品を生み出す道具になっています。
したがって、僕は、単純に人々が監視社会がいいと言っているとは思わないのです。ウルリヒ・ベックが『危険社会』で指摘したように、僕たちは「リスク」をつねに意識しなければならない社会に生きている。それは言い換えれば、リスクが商品になる社会ということです。そのなかで監視が求められている。しかもその欲望はますます強化されている。その裏にあるのは、単純な資本の原理です。服のデザインより不安の方がおカネになるというだけのことです。昔は不安の商品化といえば保険業でしたが、いまはダイレクトな技術として不安をコントロールする製品やサービスができるようになった。そのためどんどん監視の密度が高くなっている。
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矢野
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奈良市の小学校1年生が誘拐殺害された事件では、ケータイが皮肉な役割を果たしました。子どもの安全のために持たせたケータイが、必ずしも防犯に結びつかなかったという例もありますしね。
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東
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そうなると今度は、電源を切ると自動的に連絡が入るようなGPSケータイサービスが開発されるのでしょうね。ケータイをもっていても誘拐されたのだから、セキュリティ・サービスは実は役立たないのではないか、という議論には繋がらない。不思議です。
リスクの商品化といてば保険なのですが、保険といっても地震などの被災はカバーできないように、保険をかければ防げるリスクと防げないリスクがある。保険は集団でリスクをシェアして、ダメージをならすことが役割ですが、誘拐殺人といった危険に対して、子ども全員にケータイを持たせても何の保証にもならないでしょう。ケータイにはそうしたダメージを軽減する機能はない。リスクの商品化といったときに、実際にはリスク軽減効果がないものもあることを認識すべきです。言わば「リスクのリテラシー」が必要になるでしょう。
いまや人々はみな監視されたがっているのだ、という粗っぽい話は、バブル期に広告代理店が「人々はみな差異を求めて」と言っていたのと同じ精度しかもたない。人々の欲望の現れは時代によって簡単に変わる。そして、人々の欲望をつねに全肯定するのは単純に思考停止です。宗教団体のつぼでも、買っている人は買いたいから買っている。だから仕方ないのだ、では何も議論は進まない。セキュリティへの欲望にもそれに近い部分がある。本当の意味で安心で安全な生活を望むのと、監視カメラやGPS商品に多額の金を投じるのは違うことなのだ、ということを明確にするべきだと思います。
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矢野
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なかなか鋭い分析ですね。isedのこれからの活動がいよいよ楽しみになってきました。今後のご活躍をお祈りします。本日はどうもありがとうございました。
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