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金鳥蚊取り線香 ニッポン・ロングセラー考 〜ぐるぐる渦巻き101年

和歌山で蜜柑と除虫菊が出会った

昭和の何年頃までだったのだろう。
どこの家でも日が暮れると蚊取り線香をたき、夜は蚊帳を吊って眠っていたのは…。
夏の風物詩とも言える蚊取り線香は、「日本の殖産興業に尽くしたい」と願う男の信念から生まれた。

上山英一郎、24歳。
慶應義塾を卒業し、郷里の和歌山で家業の蜜柑園を手伝っていた英一郎は、蜜柑を世界に輸出しようと上山商店を設立。
ちょうどその頃、恩師・福沢諭吉の紹介で、米国で蜜柑の販売を計画していたH.E.アモア氏に出会い、蜜柑の苗を提供。そのお礼に譲り受けたのが除虫菊の種子。
今から120年程前、1886(明治19)年のことだ。

氏の手紙によると、米国には除虫菊で巨万の富を築いた人がたくさんいる、とある。
「荒れた土地でも栽培できる除虫菊なら、貧しい農家を救うことができるし、輸出すれば国も豊かになる」と考えた英一郎は、除虫菊の普及に奔走する。

ところが当時の農家は保守的で、熱心に栽培を勧める英一郎を“山師”“ペテン師”呼ばわりする。
それでも各地に赴き、講演をし、栽培書を発行するなどの努力を続けた結果、1890(明治23)年頃、やっと普及・量産への道に明かりが見え始めた。

蚊取り線香の生みの親、上山英一郎。福沢諭吉の薫陶を受けた彼には、除虫菊を輸出産品に育て上げ「貿易立国に尽くしたい」という強い思いがあった。
除虫菊の原産地はクロアチア。もともとは鑑賞用だったが、除虫菊を捨てた場所だけ虫がたくさん死んでいることから、除虫菊に含まれる成分(ピレトリン)に殺虫作用があることが分かる。

平安朝の昔から日本では、よもぎの葉やカヤの木を火にくべて煙を出す「蚊遣り火」という方法で、蚊を追い払っていた。
「蚊遣り火」は、大正初期までは日本の各地に残っていたそうだ。

ノミ取り粉から棒状蚊取り線香へ

世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」。
燃焼時間が短く線香自体も細いので、何本も使う必要があった。

当時、乾燥させた除虫菊は粉末にしてノミ取り粉として商品化されていた。
粉末をそのまま使うのではなく、もっと簡単に殺虫効果を高められないかと考えた英一郎は、日本古来の「蚊遣り火」に注目。
火鉢や香炉などの火種の周囲に、除虫菊粉とおがくずを混ぜてくべてみる。
その結果は大量の煙と灰…、「夏に火鉢」という無理な設定もあって普及には至らなかった。

そんな頃、全国行脚の途中で立ち寄った東京・本郷の旅館で、たまたま仏壇線香屋の息子と同宿した英一郎は、はたとひらめく。
「そうだ、線香に練り込めばいいんだ!」
線香からヒントを得て2年後の1890(明治23)年、世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した。

「金鳥香」は長さ約21センチの線香を、鉄製の台に3本立てるというもの。
だが、これでは40分程度しかもたない。
かといって長くすれば、折れやすくなってしまう。
もっと長時間、燃焼を持続させるには、どうすればいいのか…。

商標である鶏のマークは、中国の史記・蘇秦伝の一節「鶏口となるとも牛後となるなかれ」から生まれた。創業者・上山英一郎は、品質をはじめ、あらゆる面でトップを目指す気概をこの言葉に込めた。

窮地を救った妻・ゆきの一言

英一郎の前に立ちはだかる燃焼時間という壁に突破口を開いたのは、妻・ゆきの一言だった。「渦巻きにしたら、どうです?」
棒から渦巻きへ――。1895(明治28)年、蚊取り線香に新しい形が生まれる。

この渦巻き型で大量生産を開始しようとするが、またまた問題発生。
ここでネックとなったのが乾燥方法で、木の板の上で乾かせばくっつくし、吊るすとびろーんと伸びて形が崩れる。そんな時、ゆきがまた一言。
「金網の上で乾かしたら、どうです?」

ぐるぐるっと巻くことで、線香は約60センチまで長く、そして太くなり、約6時間燃え続ける。
妻の何気ない一言から誕生した渦巻き型蚊取り線香は、試行錯誤の末、1902(明治35)年に発売される。棒状蚊取り線香誕生から12年後のことだった。

ちなみに、この時、編み出された2つの技――、木の芯に2本同時に巻き付ける手巻方式は、機械化される1957(昭和32)年頃まで続き、金網の上で乾燥させる方法は現在も使われている。金網に勝る乾燥方法なし!

アイデア・ウーマンだった英一郎の妻・上山ゆき。写真は1935(昭和10)年当時。
蚊取り線香の手巻き風景。写真は1953(昭和28)年頃のもの。

写真左は、大正11年頃のパッケージ「金鳥かやいらず」。
写真右は、昭和30年頃の「金鳥の渦巻」。
基本的なデザインは今も変わっていない。

左巻き渦巻きが市場を席捲

昭和初期、蚊取り線香が本格的に普及するに伴い、殺虫成分をほどんど含まない模造品や紛らわしい商標の類似品が出回る。
金鳥は、殺虫効果が高いという製品そのものの性能はもちろん、優良取扱店(卸店)の組織化、積極的な宣伝活動などの施策を次々に打ち出し、これに対抗。
さらに、1957(昭和32)年には機械化に合わせ、“ネジが緩む”と嫌われていた左巻きをあえて採用し、差別化を図った。
「金鳥」ブランドの蚊取り線香は、1979(昭和54)年に過去最高の売上げを達成する。その8年後、1987(昭和62)年にマット式の電気蚊取り器にトップの座を譲ったものの今でも同社の全殺虫剤の、売上げの28%を占めると言う。
マット式やリキッド式、ファン式など新製品が次々に開発されているにもかかわらず、蚊取り線香が売れ続けるのはなぜなのか?

「蚊取り線香は、合理的かつ理想的な剤型です。
というのは、開放的な空間でも煙の粒子に乗って殺虫成分がすばやく広がり、効果の立ち上がりが早い(速効性)。そして、マッチ1本で使える手軽さ、使用場所を選ばない簡便さ(電源不要)、睡眠時間に合わせて蚊を防ぐという生活への適合性…。さらに、これまで一度も“薬害”といったトラブルがなく、安心して使えるという商品イメージの定着も大きいですね」


本社の前に勢ぞろいした街頭宣伝隊。パッケージをかぶりモノにしている様子は、今見ても十分に面白い! 写真は1952〜53(昭和27〜28)年頃のもの。
1955(昭和30)年頃の懸賞付き宣伝チラシ。一等がホンダの「ベンリイ号オートバイ」、2等がナショナルの「電気洗濯機」。庶民の憧れが景品に。
1967(昭和42)年には歌謡界の大御所・美空ひばりをTVCMに起用。「金鳥の夏、日本の夏」というキャッチフレーズとともに、この路線は現在もほとんど変わっていない。

海外では、蚊が媒介する感染症であるマラリアやデング熱、黄熱病、そして最近では北米のウエストナイル熱などで命を落とす人々も多く、蚊取り線香を必要をする国はたくさんある。
日本でも、アウトドアでの需要は根強く、また使用後に灰しか残らないため、自然環境への負荷が少ないといった点でも見直されている。
新製品もさることながら、蚊取り線香を有用とする国や地域、生活シーンはまだまだ多いと言えよう。


取材協力:大日本除虫菊株式会社
http://www.kincho.co.jp/



殺虫成分「アレスリン」を遠くまで運ぶ蚊取り線香の煙

除虫菊にはピレトリンという天然の殺虫成分が含まれている。1955(昭和30)年頃、これに類似した成分を化学合成したピレスロイドが開発・実用化された。金鳥の蚊取り線香は、このピレスロイドの一つである「アレスリン」を主成分としており、アレスリンは蚊取り線香の燃焼部分(約700℃)から6〜8ミリ手前の部分(約200℃)から揮散し、殺虫効果を示す。
人間や温血動物は、体内の酵素がアレスリンを分解して体外に排出するので害はないが、蚊は体表から体内に入って神経がやられ、マヒ状態となって死んでしまう。
線香の煙自体には殺虫効果はないが、その粒子に殺虫成分を乗せて遠くまで運ぶという大切な役割があるのだ。

燃焼部分の6〜8ミリ手前から殺虫成分が揮散。

撮影/海野惶世(メイン、現在のパッケージ、コラム、プレゼント) Top of the page

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