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矢野直明プロフィールへ 同窓会ウエブ「ゆびとま」の登録会員は270万人:小久保徳子さん 小久保徳子プロフィールへ

なにげなく作った高校時代の同窓会用連絡掲示板が、アッという間に登録者270万人を超える巨大同窓会サイトに成長した。「この指とまれ!」は、いまや全国5万校を網羅し、旧友や恩師との出会いを生み出すコミュニティサイトとして定着している。誠実で熱心な人柄によってボランティアの力をうまく引き出しながらサイトを発展させてきた小久保徳子さんに、「ゆびとま」を思いついた経緯や今後の計画などを聞いた。

index
Part1 「ゆびとま」の誕生

 コンピュータで何をやりたいのか!?
 ボランティアに後押しされて株式化を断行

Part2 自浄作用の働く空間

 ゆびとまは「セントラルパーク」

Part3 サイバーとリアルの融合

 良質の出会いを演出する”正しい”出会い系

Part1 「ゆびとま」の誕生

矢野

小久保さんは長崎で「この指とまれ!」(通称"ゆびとま")を立ち上げられて、それが瞬く間に全国的規模に拡大しました。まさにインターネット時代にふさわしいエピソードだと思いますが、コンピュータとネットには学生時代から興味を持っておられたのですか。

小久保

私が生まれ育ったのは長崎県の高島町という小さな島なんです。周囲6.4キロで人口900人という日本一小さな町ですが、かつては炭坑の島としてにぎわいました。この島で中学生のころ、先生がコンピュータについて教えてくれ、「これからは男女の区別なくがんばれる時代になる」とおっしゃったんです。そのことはしばらく忘れていたんですが、その後、長崎市内の高校に通って進学を考え始めたころ、ふいにこの先生の言葉を思い出しました。
 それでコンピュータを勉強したいと思ったのですが、1979年当時はコンピュータを教えてくれる大学もそれほどありません。仕方がないので、東京の鶯谷にあった千代田電算機学院に入学しました。勉強し始めると面白くて、すっかりはまってしまい、朝から晩までコンピュータと遊んでいました。もちろん普通の遊びも熱心にやりましたけど(笑)。

矢野

卒業後、就職された千代田コンピュータサービスは、学校と関係があるのですか。

小久保

名前はいっしょですが、まったく関係ありません。千代田コンピュータサービスはおじが関係している長崎の会社で、じつは東京へ勉強しに行く前から入社することが決まっていました。当時はまだオフコンの最盛期で、私はシステムエンジニア(SE)として給与や販売管理システムなどの構築を手伝っていました。最初、仕事が面白くて一所懸命にやっていたのですが、そのうちだんだん疑問を感じるようになりました。
 人減らしの道具としてオフコンを使っているが、コンピュータは本来、もっと人の生活に役立つものではないのか。ダウンサイジングが進んで、オフコンからパソコンが主流になることも見えてきたので、ゆくゆくコンピュータは生活の中に入るようになるだろう、さらにネットワークでつなげばコミュニケーションのツールとして使えるのではないかと思うようになりました。
 もう一つ、会社で不満だったのが、女性に対する処遇です。当時は社内で女性の地位が低くて、いくら優秀でも結婚すると辞めざるを得ない。私自身もやりたいことがやれないという不満が高まっていきました。それなら、主婦でも仕事ができる会社を作ろうと、90年にヌーベルバーグという有限会社を設立しました。
 得意先に出かけていって、そこのシステムを開発するというスタイルで始めたら、そのお得意先で次の仕事が入るようになって、業務拡大していきました。そこで、女性プログラマーを中心に人を増やし、10人ほどの規模になったんです。

コンピュータで何をやりたいのか!?

矢野

コンピュータはただの人減らしの道具ではないと思うようになったのは、お友だちの問いかけがきっかけとか?

小久保

オフコンの仕事に熱中しているとき、先輩が「コンピュータで何をやりたいのか!?」といきなり問いかけてきたんです。私は「お客さんが喜んでくれれば、自分も満足できる。毎日が楽しいのだから、なぜそんなことを聞くのですか」と答えました。すると、その先輩は「絵描きにたとえると、キャンバスがコンピュータなのだから、それでいったいあなたは何を描きたいのか」と聞くんです。
 私は答えに詰まってしまって、その瞬間、SEとして突き当たっていた壁はこれだったのかと目からウロコが落ちるように気づいたのです。コンピュータに対する漠然とした私の思いは、もっと他のところにある。それで、パソコンを使ったコミュニケーションやコミュニティづくりへの関心が強まっていきました。とはいえ、すぐに行動できたわけではなく、どうしようかなと思いながら、90年に会社を作った後もオフコンの仕事を相変わらず続けていたわけです。

矢野

僕が朝日新聞で『ASAHIパソコン』を創刊したのが1988年です。その頃、アメリカでインターネットの前身であるARPAネットがだんだんに拡大し、日本でも84年に東京大学、東京工業大学、慶応義塾大学をつなぐJUNETが実験を開始しました。80年末はまさにインターネットが広がり始めた草創期ですね。

小久保

90年にカナダのSOFTARC社が、パソコン通信のホストを構築するために、アップル社のMacをサーバーとするBBSソフト「FirstClass」を開発しました。これはグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)を活用した画期的なシステムで、まだネットスケープはおろかモザイクすらなかった時代ですが、パソコン通信をつなげてメールや掲示板などの機能を使える世界的なネットワークを作ろうとしたのですから、発想はインターネットと同じでした。
 私はこのソフトを見て驚き、仲間と一緒にGUI通信ホストを開局し、当時日本で100局ほどのホスト局につながっていたFirstClassに連結しました。これで全国の人たちと電子メールを送り合うことができるようになり、その後の自分にとって大きな支えになりました。この経験を通して、最新鋭のパワフルなサーバー機を使わなくても、ネットワーク環境の中ならパソコンで十分に代替できると気づいたのです。FirstClassで教わったことはインターネットに移行した後も、役立ちましたね。

矢野

ゆびとまを作ったきっかけは何ですか。

小久保

その後、インターネットが普及し始め、私も95年頃から使うようになりました。その魅力を知り始めた頃、高校時代の同窓会を20年ぶりに開こうという話が持ち上がったんです。1学年450人に連絡を取るだけでも大変な手間です。仕事が忙しくて幹事の手伝いはできないし、出席できるかどうかもわからないと返事した後、ふと連絡手段にインターネットを使えないかと思いつきました。
 そこで、高校の先輩に相談すると、「いいアイデアじゃないか」と言われて、さっそくインターネット上に掲示板を開きました。当時はパソコンを持っている人さえ少なく、450人中、登録者は10人でした。最初はメーリングリストの機能もなく、単なる伝言板でしたね。
 当初は役目が終わったら、この掲示板も閉じようかと思っていましたが、先輩が自分たちの学年の掲示板も作ってくれと言いだして、どうせなら全学年をやろう、全学年をやるなら長崎県全体に広げられる、こうなったらもう全国版だ、と話はどんどん展開し、5月の連休中に仕事の合間を縫ってシステムを作り、96年5月末にゆびとまを開設しました。「この指とまれ!」という名前はすぐに思い浮かびました。
 登録者が増え始めると同時に「登録したいのに学校がない」という文句が出始めました。最初は長崎県内の学校しか登録していなかったんです。「それじゃ、登録したい学校名を教えてください」と言って、4人〜5人の方々がボランティアで学校名の登録作業をしましたが、多すぎて追いつかない。
 業を煮やしたユーザーが自分で作業すると言いだして、次第に「学校整備担当者」という名の全国的なボランティアが自発的に増えていき、しまいには各県1人ずつ50人ほどになりました。みなさんはとくにパソコンおたくでもないし、インターネットにとりわけ詳しいわけでもない。「昨日パソコンを買った」という人も協力してくださいました。

ボランティアに後押しされて株式化を断行

矢野

技術的にも最初はボランティアが熱心に協力してくれたようですね。

小久保

初期段階では、コミュニティのインフラをおカネをかけずにいかに作り上げるかという難題に、インターネット技術の面から挑戦したいという技術者のみなさんが多かったです。実際、アクセスが集中するようになると、何度もサーバーがダウンしました。最初はフロリダにあるホスティングサーバーを借りましたが、だんだん間に合わなくなって、その後、ジャストネットにご協力いただいて、無償でサーバーを使わせてもらっていた時代もあります。ゆびとまは全員がボランティアだったんです。登録会員が30万人ほどに増えたころ、ボランティアは500人〜600人いました。現在は1200人ほどの方に手伝っていただいています。

矢野

ボランティアではサイトが維持できなくなって、2000年に外部から資本を導入して株式会社にされるわけですね。

小久保

本格的にサーバーも強化しなければいけないし、セキュリティを気にする会員も増えてきました。しかし、強化するには億単位のお金が必要です。1年間模索して悩みました。このままではつぶすしかないし、続けるには外部から資本を入れるしかない。
 そこで2000年1月にヌーベルバーグの資本金を1000万円に増やし、2月に「株式会社ゆびとま」へと組織と名称を変更しました。この会社の決算期が3月末ですから、ギリギリまで悩んで、3月31日に2億5000万円をベンチャーキャピタルなどから入れて資本金を増やしました。

矢野

株式会社にすることで、離れていったボランティアもいたそうですね。

小久保

それまで技術面を支えてくれた優秀な中核的ボランティアの人たちが、「ボランタリーなら手伝えるが、勤め人である以上、企業をサポートすることはできない」とやむを得ず離れていきました。ゆびとまにとっては大きな損失ですが、社員として雇うのは難しく、今は個人的なブレーンとして支えてくれています。
 ただし、多くのボランティアのみなさんはゆびとまの継続を望んでいましたし、重い決断でしたが、私も株式会社化を選んだわけです。こうしてヌーベルバーグからは4人が入社し、私を含めて6人でスタートしたのです。

Part2 「自浄作用の働く空間」
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