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ニッポン・ロングセラー考 模型飛行機とともに成長した、日本初の化学接着剤 セメダインC

外国製接着剤を市場から「攻め(セメ)」出せ!

創業者・今村善次郎。大正期における日本の化学工業はひどく遅れており、接着剤のように地味な製品の国産化に目を向ける者は誰もいなかった。ひとり、進取の気運に溢れていた善次郎だけがチャレンジャーだった。

黄色いチューブに黒い帯、その上に赤く力強い文字で描かれたロゴタイプ。
「セメダインC」──多くの中高年男性にとって、その名は子供の頃の無邪気な記憶とダイレクトに結びついている。
大空高く飛ばすことを夢見た模型飛行機を作るとき、誕生日に買ってもらったプラモデルを作るとき、そして夏休みの課題だった工作物を作るとき、男の子たちの手には、必ずセメダインCがあった。

セメダインCは、日本における化学接着剤の草分け的存在である。生みの親は1890(明治23)年、富山県生まれの今村善次郎。東京に出てさまざまな職業を転々としながら夜間中学を卒業した善次郎は、独立して個人商店を開業し、自ら開発した家具用ワックスや靴ずみなどと共に、外国製の接着剤を販売していた。
当時市場で隆盛を極めていたのは、イギリス製の「メンダイン」、アメリカ製の「テナシチン」など外国製品ばかり。どれもニカワをコロイド状にしてチューブに詰めただけのものだったが、その頃の日本はでんぷんを主原料にした「糊」が中心で、冬でも固まらず、夏は適当な硬さを維持する外国製品は人気の的だった。

善次郎は、この状態が我慢ならなかった。「形ある物は必ず壊れる。これを補修する接着剤の需要は無限にあるはずだ」と考えた彼は、借家住まいの一室をにわか作りの研究室にあて、家中を糊でべとべとにしながら、日々、研究を続けた。
チューブ詰めにしても固まらない溶液型接着剤の開発は困難を極めたが、1923(大正12)年11月、ついに国産初の化学接着剤が完成。善次郎は製品を「セメダイン」と名付け、当時各地で行われていた博覧会に出品した。また、有名デパートで実演販売を行い、自ら積極的に消費者に売り込んだ。

セメダインという名称の由来は、結合材としての「セメント」と力の単位を表す「ダイン」の造語、というのが通説だ。が、当時隆盛を極めていた外国製接着剤を市場から「攻め(セメ)」出すという意味から付けられた、という説もある。確かに、こちらの方が血気盛んだった善次郎の人柄を彷彿とさせて面白い。


「桜のり」から「セメダインC」の完成まで


発売当時の各製品ラベル。「CEMEDINE C」と記されたアルファベットのロゴは、現在の製品とほとんど同じだ。事務用の「さくら糊」、写真用の「櫻糊」を覚えている人もいることだろう。

セメダインCの製造を行っていた東京工場。その後、敷地内には研究所も併設された。

日本初の化学接着剤となったセメダインだが、残念ながら正確な記録が残されていない。製品としての記録が残されているのは、1927(昭和2)年に発売された事務用・写真用「桜のり」からだ。これは、旧来の国産糊に大幅な改良を加えた、デキストリン系の製品だった。
次いで、黄色地に赤文字を配したカラフルなラベルを身にまとった「セメダインA」が登場。当時高まりを見せていた国産品愛用の動きもあり、製品は予想を上回る売れ行きを示した。

ところが、善次郎は満足していなかった。セメダインAは新しい接着剤だったが、ニカワを化学処理してチューブ詰めにしたという点では、従来の外国製品と変わるところがなかったのである。耐水性・耐熱性に問題がある点も同じだった。
善次郎はセメダインAの改良に着手し、ニカワに変えてミルクカゼインを原料とする新しい接着剤「セメダインB」を開発した。残念ながら思ったほどには売れなかったが、水に弱いという弱点は見事に克服した。

1931(昭和6)年、セメダインAの普及とともに競合相手が現れてきたため、善次郎は「セメダイン」の名称を商標登録した。同時に、耐水性・耐熱性・速乾性など、接着剤に求められるすべての要件を満たした、まったく新しい製品の開発に着手する。
ポイントは、新しい素材にあった。ニカワやミルクカゼインといった天然物の代わりに、人工材料のニトロセルローズを使用したのである。7年後の1938(昭和13)年3月、ついに画期的な溶剤型接着剤「セメダインC」が完成した。

セメダインCは耐水性・耐熱性・速乾性に優れているだけでなく、無色透明なため、仕上がりが美しかった。発売当時のキャッチフレーズには、「なんでもよくつくセメダイン。無色透明、耐水、耐熱、速乾性良し」とある。その品質と性能の高さが評判となり、セメダインCは瞬く間にヒット商品となった。
もはや外国製接着剤は敵ではなかった。「セメダインC」は、外国製接着剤を市場から完全に駆逐してしまったのである。善次郎の願いは叶った。

1961(昭和36)年製のセメダインC。23ml入りで40円だった。当時の現物はセメダイン本社にも残っておらず、これはユーザーの手元に残っていた新品を寄贈された貴重品。  

模型飛行機ブームとともに、売り上げも急上昇

戦後行われた模型飛行機大会の様子。日本全国の子供たちが夢中になって参加した一大イベントだった。極東航空(全日空の前身)とタイアップして行うこともあったという。
当時の大阪では宣伝カーが大流行しており、官公庁も広報活動に利用していたほど。しかしながら、当時としてもこの異様はかなり人目を引いたに違いない。人気のほどは写真からも伺える。
 
高度成長期には、ホーロー看板や専用陳列ケースなど、文具向け製品の宣伝が積極的に行われた。  

1941(昭和16)年、個人商店の限界を痛感していた善次郎は、有限会社今村化学研究所を設立。同時に接着剤以外の商品を整理統合し、接着剤専門メーカーとして再スタートを切った。
時は太平洋戦争突入の直前。以降、戦火は大陸、南方へと急速に拡大していく。
軍需品の生産が最優先され、平和産業がどんどん衰退していくなか、不思議なことに民生用のセメダインCは、依然として好調な売れ行きを維持し続けていた。

その背景にあったのが、学童たちの間に巻き起こった模型飛行機ブームである。ブームは1931(昭和6)年の満州事変あたりから起こり、1939(昭和14)年、東京日日新聞が主催したニッポン号による世界一周飛行の成功によってピークを迎えた。
戦意高揚の目的から軍当局が模型飛行機大会などの催しを積極的に後押ししたこともあり、各地で行われた大会はどこも大盛況だったという。
模型飛行機には強力な接着剤が必要だ。子供たちは皆、ロウソクの火であぶって竹ひごを曲げ、セメダインCで接着してから翼に紙を貼った。ゴム動力の簡素なプロペラ機が、全国各地で大空高く舞い上がった。
セメダインCの売り上げもまた、急上昇を続けた。

この模型飛行機による競技大会は終戦後しばらく中断していたが、民間航空の再開によって飛行機への関心が高まったことから、1955(昭和30)年、セメダイン株式会社(1951年に改組)がスポンサーとなって久方ぶりに再開された。
大会の舞台は多摩川のオリンピア球場。戦時中に劣らぬ数の子供たちが集まったという。そこには子供たちだけでなく、昔を懐かしむ大人たちの姿もあった。
競技大会は1963(昭和38)年まで、9回にわたって開催された。

戦後の復興期、セメダインは東京から大阪へと販売網を拡大していった。製品開発当時から販売戦略に熱心だった善次郎は、いくつかのアイデア作戦を展開してセメダインの知名度アップを図っていく。
なかでも話題を呼んだのが、1953(昭和28)年に登場したステージ付きの宣伝カーだった。これは製品のチューブを模したスピーカーを2本備えた特注車で、10人位が乗り込み、あたかも芸人一座のごとく各地でさまざまな余興を行ったという。車の値段は当時で300万円だったというから、途方もない金額をかけた宣伝イベントだったに違いない。


 

クラフト需要がある限り、セメダインCが消えることはない


接着剤の知名度アップに大きな役割を果たしたPR誌。上から、「セメダインクラフト」「セメダインレビュー」。これ以外に「セメダインサークル」が発行されていた。
現在のセメダインC。チューブ入り、ブリスターパック入りとも、容量は20ml(小売価格157円)と50ml(同315円)がある。紙や木などの接着に適しており、今も学校工作などで幅広く使われている。

戦後の高度経済成長期、セメダインはそれまでにも増してPR活動に力を注いだ。他社との競争が激化し、ユーザーの取り込みが急務だったからである。数多いPR活動のなかでも、目覚ましい効果を上げたのが3種類のPR誌の存在だった。
研究者向けの「セメダインレビュー」、代理店向けの「セメダインサークル」、小中学校の工作の教師を対象にした「セメダインクラフト」は、それぞれのユーザーにセメダイン製品をアピールしただけでなく、接着剤そのものの認知度を高める役割も果たした。
なかでもセメダインクラフトは、戦後教育を受けた子供たちに対し、目に見えない形で少なからぬ影響を与えていたはずだ。

1950〜70年代にかけて、セメダインCは最後のピークを迎えることになる。この頃、市場ではいくつかのプラモデルメーカーが競い合って製品を販売。子供たちのみならず、大人たちをも巻き込んだプラモデルブームが起こったのだ。
箱の中には、必ず「プラモデル用セメダイン」が入っていた。赤いキャップが付いたそれは、市販のセメダインよりもコンパクトで使いやすかった。子供の頃、戦闘機やレーシングカー、そしてガンダムのプラモデルを熱心に作っていた人なら、パーツからはみ出したセメダインを拭って指先がパリパリになってしまった経験や、床に置いたセメダインを知らずに踏み、あたり一面接着剤だらけにした経験があるのではないだろうか。
セメダインの記憶は、そうした子供の頃の楽しい体験と密接に結びついている。だから、言ってしまえば単なる接着剤にすぎないのに、私たちはセメダインの存在を忘れることができない。

そのプラモデルブームも、80年代前半から起こったミニ四駆ブームによって、静かに消え去った。はめ込み式のミニ四駆は、接着剤を必要としなかったのである。
子供たちは工作の楽しさから遠ざかり、出来合いの玩具で遊ぶようになった。クラフト需要が減るにつれ、セメダインCの売り上げも徐々に減少していった。

今、同社の全売り上げにおけるセメダインCの割合は、わずかである。プラモデル用セメダインや、セメダインCはもはや主役とはいえなくなってしまった。それでも、同社の広報担当者は、「模型やプラモデル作りはセメダインでなくては、というファンの方もいらっしゃいます。クラフト需要がゼロにならない限り、セメダインCやプラモデル用セメダインの生産を止めるわけにはいきません。それがうちの使命ですから」と語る。

黄色いチューブに黒い帯、その上に赤く力強い文字で描かれたロゴタイプ。
セメダインCには、創業者・今村善次郎の熱い魂が宿っている。
そこには、「外国製品なんのその、俺が日本初の優秀な製品を作ってみせる」という、モノを作る人間の心意気がある。

取材協力:セメダイン株式会社(http://www.cemedine.co.jp/


セメダインCの伝統を受け継ぐ新製品「スーパーX」

一時代を築いたセメダインCに代わる同社の主力製品が、この「スーパーX」だ。万能に限りなく近づいた超多用途接着剤で、屋外でも使える優れた耐久性・耐水性・耐熱性が大きな特徴。つける材料の両面に塗り、しばらく乾かしてから貼り合わせることで、ずれない仮止め効果を発揮する。
新登場の「スーパーX2」は、接着面に塗ってすぐ貼り合わせると、約5分で動かなくなる速硬性がセールスポイント。こちらは小物の接着に向いている。
ともに、黄色の帯に赤で大きくXの文字が描かれたパッケージデザイン。セメダインCの伝統を受け継いでいる証だ。

現在、同社における家庭用接着剤の主力製品がこの二つ。「スーパーX」(20ml入り、525円)、「スーパーX2」(20ml入り、577円)とも、接着物の色に合わせてホワイト・ブラック・クリアの3色がある。


撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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