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かしこい生き方を考える COMZINE by NTT コムウェア

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COMZINE BACK NUMBER
ニッポン・ロングセラー考 Vol.46 資生堂 MG5 すべてが革命的だった男性化粧品初の総合ブランド

液体整髪料は60年代の若者文化を背景に生まれた

1964(昭和39)年の東京、銀座みゆき通りに現れた風変わりなファッションの若者たち。“みゆき族”と呼ばれた彼らは、こんな格好をしていた。
アウターはナチュラルショルダーでずん胴型シルエットのスーツやブレザー。インナーは洗いざらしのボタンダウンシャツ。ボトムはシンプルなコットンパンツで、なぜかくるぶしが見えるほど裾を上げている。小脇に抱えているのは、「VAN」のロゴが入った紙袋……。
アイビールックはアメリカに生まれ、日本ではVANヂャケットが火を付けて大きなブームになった。団塊の世代にとっては、リアルタイムで経験した大きなファッションムーブメントであり、60年代以降の若者文化の象徴として語られることも多い。

彼らのファッションは洋服だけに止まらなかった。ヘアスタイルも、短髪を七三分けにしてきちんと整えるアイビーカットに変わったのである。
40年代のGIカット、50年代の慎太郎カットに代表されるように、若者のヘアスタイルは徐々に短髪へと変わりつつあった。それまで多かったのは、戦後間もなく流行り出したリーゼントやオールバック。そこで使われたのは、油性でベタっとした使用感のあるポマードや固形整髪料のチックだった。だがアイビーカットは髪を自然のままソフトに仕上げるため、ポマードやチックではうまく整髪することができない。
みゆき族はポマードやチックには見向きもせず、発売されたばかりの新しい整髪料に目を向けた。

彼らがまず手に取ったのは、1962(昭和37)年にライオン歯磨(現ライオン)から発売された「バイタリス」だった(米ブリストル・マイヤーズ社の製品を提携販売)。油性の液体整髪料なので、ポマードやチックに劣らない整髪力を持ちながらも、テカテカ、ベタベタしない。若者向けのマーケティングが功を奏したこともあり、バイタリスは瞬く間に若者たちの間に浸透していった。
これを悔しい思いで見ていたのが資生堂だった。50年代半ばから後半にかけて、化粧品業界は女性化粧品の売れ行きが伸びず、どのメーカーも打開策を模索していた。その筆頭が欧米でマーケットが成立している男性化粧品、なかでも液体整髪料の分野で、各メーカーは新商品の開発に力を注いでいたのである。

資生堂は1959(昭和34)年、それまでバラバラに発売していた男性化粧品を統一し、「資生堂男子用化粧品」として新たに発売していた。「ブランド戦略」という言葉は当時まだなかったものの、販売面は好調。だが、ここにはまだ液体整髪料は含まれていなかった。
資生堂が液体整髪料「資生堂MG5リキッド」(香りはラベンダー、ジャスミンの2種)を発売したのは、バイタリスに遅れること約半年、63(昭和38)年2月のことだった。半液体の「資生堂MG5ソリッド」とともに発売され、当時の価格は300円。その後、他社からも次々と液体整髪料が発売され、男性化粧品業界はさながら液体整髪料革命が起こったかのようだった。
しかし、先行したバイタリスは強かった。販売面ではどの製品もバイタリスに追いつくことができなかったのである。

資生堂男子用化粧品

「MG5」以前の「資生堂男子用化粧品」。頭髪用以外の男性化粧品もラインナップされていた。ターゲットは、いわゆるおしゃれ紳士だった。

資生堂MG5リキッド&ソリッド

資生堂初の液体整髪料「資生堂MG5リキッド」と、半液体の「資生堂MG5ソリッド」。水溶性なのでバイタリスよりもベタつかず、水で完全に洗い流せた。

 
新聞広告

1964年の新聞広告。現代人のための“新しい”整髪料であることが強調されている。


記号的ネーミング、新感覚デザイン、そして総合ブランド化

巻頭口絵MG5ラインナップ
総合ブランドとして登場したMG5。全部で19品目、容量別では23種類にもなった。中身も土台となった資生堂男子用化粧品から大幅にリニューアルされた。
 
シュリンクフィルム

MG5のデザインを特徴付ける円柱ボトル。ラベルは従来の糊で貼り付ける紙ラベルではなく、今や常識となったシュリンクフィルムを採用した。

60年代前半に登場した液体整髪料が牽引役となり、男性化粧品全体の消費は徐々に拡大していく。とは言え、女性化粧品市場の大きさに比べたら足元にも及ばない。液体整髪料のMG5は好評だったが、資生堂の企画・開発担当者らは満足していなかった。彼らには、男性化粧品という新たな市場を開拓し、日本の男性に化粧品の使用習慣を根付かせるという、壮大な目的があったのである。
生まれたばかりのこの市場を育てるためには、長期にわたるユーザーが必要。従って今までのような中年男性ではなく、高校生や大学生、社会に出て間もない若年サラリーマンがターゲットになる。おしゃれを自然の行為として取り入れていく若者たちに、もっと強くアピールする必要があった。

資生堂の企画・開発担当者らが考えたのは、一連の商品群すべてを取り込んだ総合ブランドの確立だった。男性化粧品の総合ブランドはまだ日本にはなく、前代未聞の試みである。しかしだからこそ若者に与えるインパクトも大きい。彼らはそう考えた。
ちょうど資生堂男子用化粧品がリニューアルするタイミングだったのに合わせ、それを基本に整髪料のMG5を加えることにした。アイテムは全23種類。ブランド名は既に広く知られているMG5でいく。1967(昭和42)年8月1日、総合ブランドとしての「MG5」が完成し、全国一斉に発売された。若者向けであるため、平均価格は600円と低めに抑えられた。

ここで、MG5という不思議なネーミングについて説明しておこう。整髪料のMG5が開発される際、ネーミングを決める商標委員会には様々な候補が持ち寄られた。数ある候補から最終的に残ったのが、アルファベットと数字の組み合わせからなる、まるで記号のようなこのネーミング。当時のある開発責任者は、「その頃MGというクルマが流行っていたし、モダン・ジェントルマンの意味からもMGがいいと思った。ただそれだけでは上層部を説得しにくいので、“ベタベタしない”“テカテカ光らない”“ソフトに仕上がる”“栄養を与える”“簡単に洗い落とせる”という5つの特徴を設定し、5をくっつけた」と語っている。
それでもこの大胆すぎるネーミングは波紋を呼んだ。「こんな名前にならないブランド名は二度と許さない」と、宣伝担当の常務は激怒したという。

もうひとつMG5が画期的だった点は、容器・外装のパッケージデザインにある。今も高く評価されているこのデザインは、社内デザイナー・杉浦俊作の手になるものだ。
総合ブランド化されたMG5は、素材に当時開発されたばかりのPP樹脂(ポリプロピレン)を使うことが決まっていた。PP樹脂は折り曲げに対する強度が強く、ガラス瓶よりずっと自由にデザインできる。杉浦はまずキャップを本体と同じ太さにし、全体を円柱形にした。それまでの常識だった広口瓶+小さなキャップは女性的なイメージだが、この円柱デザインはいかにもシンプルで男性的である。
さらにMG5を特徴付けるのが、あの黒と銀のダイヤカットだろう。日本の市松模様とも違うし、ヨーロッパのギンガムチェックでもない独特の格子状デザイン。普遍的なパターンがここまで完成度の高いデザインに昇華されている例は極めて珍しい。このデザインもまた、アルミホイルへの特殊印刷とシュリンクフィルム印刷(プラスチック薄膜への印刷技術)という、最先端の製造技術によって可能になったものだった。


物語性あるテレビCMが若者たちの共感を呼んだ

雑誌広告
総合ブランド化したMG5初の雑誌広告。当初のコピーは「MG5の黒の時代はじまる」だったが、黒は縁起が悪いと変更された。
 
テレビCM
テレビCM「ただいま青春・上野駅」(1972年)。上京したばかりの若者3人が登場。ここまで明確な物語性があるCMはかつてなかった。

MG5の後を追うように、他メーカーもまた男性化粧品の総合ブランドを展開していった。数ブランドが入り乱れての市場競争となったが、結果は早々に現れた。発売から1年後、MG5はバイタリスを抜いてシェアトップに立ったのである。
それは、ブランド化によって高められたMG5の商品価値を若者たちが認めた証拠だった。この時からMG5は、男性化粧品という単なるモノとしての存在ではなく、若者のライフスタイルを象徴する、モノを超えた社会的・文化的な存在へと変貌していく。60年代から70年代にかけて若者のファッションは、アイビーからモッズ、サイケデリック、さらにはヒッピーへと多様化し、ヘアスタイルも徐々に長髪へと変化していったが、MG5はいつの時代の若者にも熱く支持された。

その大きな要因になったのが、資生堂が展開した広告戦略である。
若者たちにMG5という商品を直接訴求するのではなく、ライフスタイルそのものを提案するという戦略。しかも雑誌やポスターなどのグラフィック広告をテレビCMと連動させ、相乗効果を狙う。この広告戦略でテレビCMを手掛けたのが、当時既にヒットメーカーとなっていた杉山登志と、彼が率いる制作グループだった。
最初のCMは、MG5のボトルがだるま落としのように上から落ちて来るというもの。1967(昭和42)年後半から70(昭和45)年までは、団時朗がMG5のチェック柄を連想させる大きなグレートデンと絡むCMがオンエアされた。団時朗は、若者たちにとって「ああいう大人になりたい」と思わせる憧れの存在として描かれている。

以降、MG5のCMは徐々に物語性が強調され、商品ではなく若者たちの生き方そのものがメッセージとして打ち出されるようになる。70年から翌年にかけては団時朗が兄貴的存在となり、新たに爽やかイメージの草刈正雄と普通の若者がひとり加わった。「おお、兄弟。」という広告コピーは、当時の若者たちが抱いていた連帯感の象徴だった。
72(昭和47)年から翌年にかけては、草刈正雄を中心とした男2人、女1人による「ただいま青春」シリーズがオンエアされた。ここで描かれたのは、田舎から出てきた3人が都会での生活を謳歌し、やがて故郷に帰っていくというストーリー。このシリーズCMは当時の若者の心情にシンクロし、深い共感を呼んだ。

1973(昭和48)年のオイルショック以降、MG5のテレビCMは休止されていたが、76(昭和51)年に復活する。草刈正雄の後を受けた新たなキャラクターは、俳優の加納竜だった。
MG5は再び同時代の若者に向けてメッセージを発信するが、時代は徐々に変わり始めていた。若者たちの趣味・嗜好は細分化し、価値観の多様化が目立ってくる。資生堂自体も男性化粧品ブランドの多角化を進めていた。
MG5は発売15年目にあたる78(昭和53)年とその翌年、MG5ユーザーの元若者に向けたキャンペーンを実施した。「青春、何年目?」というコピーが、MG5がいかに長く若者に愛されてきたかを物語っている。80(昭和55)年、MG5の広告は一部を除き正式に打ち切られた。

ポスター

団時朗とグレートデンがクロスしているポスター(1968年)。初期のMG5を代表するグラフィックだ。

 
ポスター

「おお、兄弟。」というコピーが新鮮だった中期のポスター(1972年)。ヒッピームーブメントの影響が伺える。

 
雑誌広告

「ただいま青春」シリーズ最後の雑誌広告(1973年)。3人の若者が夜汽車で田舎へ帰っていく。男女3人の設定にはフランス映画『冒険者たち』の影響があるという。


 
MG5──それは60〜70年代の若者文化のシンボルだった

フィルムステッカー

チェーンストア販促に使われたフィルムステッカー。場所を取るポスターは無理でも、小さなステッカーなら貼ってもらえた。

 
等身大立看板
店頭に飾られた団時朗の等身大立看板。当時こんな大きな看板は珍しく、MG5の知名度アップにひと役買った。
ノベルティー
MG5人気を後押ししたノベルティグッズの数々。あまりの人気に品切れする店が相次いだという。
 
講習会
相撲部屋へも美容部員を派遣し、MG5の使い方をレクチュアした。

もちろん、MG5が売れた理由は広告戦略だけではない。今とは違い、60年代当時の化粧品販売ルートはメーカー系のチェーンストア(全国で約1万6千店)に限られていた。しかもそこでの主役は、あくまでも女性化粧品。せっかく総合ブランド化したMG5も、最初はポスターすら貼ってもらえなかったという。チェーンストアには、売れるかどうかも分からない男性ブランドを大きく扱うという発想がなかったのである。
しかし、商品を売る窓口はここしかない。販促部隊は男性が抵抗なくお店に入れるよう、店先に置けるスタンド式販売台や団時朗等身大立看板の設置、男性向け美容テキスト、MG5のロゴ入りステッカーの配布など、チェーンストアに対し様々な提案を行った。

なかでも効果が大きかったのがノベルティグッズだった。フラッグ、サマーバッグ、タオル、キーホルダー、ミニチュアボトルなど、若者の興味を引きそうなアイテムにMG5のロゴを入れ、半年ごとに提供。これが大当たりし、若者たちが自らチェーンストアに足を運ぶようになったのである。後はチェーンストアならではの対面販売力を活かして充分な商品説明を行えば、複数買いが期待できる。
また資生堂自体も、自社の美容部員を講師にした「おしゃれ講習」を全国各地で開催した。1968(昭和43)年7〜9月に実施した「男性専科・MG5マスターコース」には、全国で約8万8千人もの若者たちが参加したという。こうしてMG5は右肩上がりに販売数を伸ばしていった。
若者文化が一挙に花開いた60年代後半から70年代にかけて。それはMG5が最も輝いていた時代でもあった。

その後のMG5はどうなったか。「えっ、今もあるの?」と驚く人もいるかもしれない。
どうしてどうして。MG5はバブルに踊った80年代を乗り越え、「失われた10年」と呼ばれた90年代をやり過ごし、混迷深まる2000年代をしっかりと生き抜いている。
総合ブランド化から今年で丸40年。時代を生き抜くための積極的なブランドメンテナンスを行ってきたわけではない。香りも使い心地もパッケージデザインも、発売当時のままだ(現在のラインアップは11品種13種類)。広告はとうの昔に止めている。70年代に一世を風靡した若者ブランドは、今ではすっかり中年ブランドになってしまったかのようだ。実際、団塊世代の中には高校生の頃から使い続けているというユーザーが少なくない。

現状を見ると淋しい気もするが、一方で「MG5はこれでいいんじゃないか」とも思う。
なぜなら、MG5はただの男性化粧品ではなかったからだ。60〜70年代を駆け抜けた若者たちは、MG5によって今までとは全く違う自由で新しいライフスタイルを知り、おしゃれを通して自分を表現することの楽しさや大切さを学んだ。若者たちはMG5の機能的な商品価値を認め、それ以上にMG5の文化的価値を認めたのである。過去を振り返る文脈の中で、MG5が常にファッションや音楽、映画、文学などと同列に語られる理由はここにある。
MG5は役目を果たしたのだ。21世紀には21世紀の若者文化が生まれることだろう。そこにMG5のようなシンボルがあるかどうかは分からないけれども。

 
*参考文献:『MG5物語』(資生堂企業文化部+前田和男著、求龍堂)

取材協力:(株)資生堂(http://www.shiseido.co.jp/
     
MG5以降に誕生した資生堂の男性化粧品ブランド
ウーノ商品群
若者向けのメガブランド「ウーノ」。
MG5発売以降、資生堂の男性化粧品ブランドはどのように推移したのか。
1969(昭和44)年、資生堂は早くもMG5のシニアブランドとして「ブラバス」を発売している。71(昭和46)年にはおしゃれに敏感な層を狙った「MG5ギャラック」を、72(昭和47)年には中高年向けの高級ブランド「ロードス」を発売。75年にはロードスとブラバスの中間層を対象にした「ヴィンテージ」を、その3年後の78(昭和53)年にはインターナショナルに活躍する男性をイメージした「タクティクス」を発売している。
つまり、70年代はMG5が最も売れた時代であると同時に、資生堂の男性化粧品ブランドが高級化・多角化した時代でもあったのだ。驚くべきことに資生堂はMG5ギャラックを除き、これら全てのブランドをいまでも継続販売している。さすがにどのブランドも往年の勢いはないが。
今、同社は増えすぎたブランドを減らして少数のブランドに集中するメガブランド戦略を取っている。男性化粧品のメガブランドは若者をターゲットにした「ウーノ」。その他の現行ブランドとして、新しい時代のスキンケアを標榜する「資生堂メン」、スカルプケアの「アデノゲン」がある。近年、「ウーノ」は多数のお笑いタレントを擁したテレビCMで話題になった。あれは多様化する現代の若者像を象徴していたのだろうか。

撮影/海野惶世(タイトル部) タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 Top of the page

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