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ニッポン・ロングセラー考 Vol.63 はごろもフーズ シーチキン 圧倒的な知名度の高さでツナ缶の代表選手に成長

初期のツナ缶は、ほとんどがアメリカ向けの輸出品だった

初代・後藤磯吉

はごろもフーズの礎を築いた後藤磯吉(初代)。商才に長け、豪放磊落な人柄だったという。

創業当時の工場

創業当時の後藤缶詰所・港橋工場。清水港も牧歌的な雰囲気。

創業当時の工場内の様子

港橋工場での作業の様子。まだほとんどの工程が手作業だった。

野菜サラダに添えたり、サンドイッチやおにぎりの具にしたり、はたまたパスタソースにからめたり。私たちの食生活で、ツナ缶は本当に出番が多い。そのままでも美味しいので、お腹が空いたときはついついまるごと一缶食べてしまうことも。ツナ缶は台所の常備品と言って良いかもしれない。缶を見てみると、そのブランドはおなじみの「シーチキン」。そう、ツナ缶といえばすぐに「シーチキン」を思い出すほど、このブランドは世間に広く浸透している。
ところが、「シーチキン」という名称は静岡県に本社を構えるはごろもフーズしか使えない。れっきとした登録商標なのだ。でも、ここでひとつ疑問が。鶏肉ではないのに、なぜチキンなの?

日本で初めて商業生産された魚の缶詰は、1877(明治10)年に北海道で作られたサケ缶だと言われている。明治時代の缶詰はそのほとんどが輸出用で、国内向けに回されるものは軍用食として消費されていた。庶民には縁のない食べ物だったのである。その後、缶詰は関東大震災をきっかけに徐々に庶民の間に普及していくが、昭和になると再び軍用、外貨獲得のための輸出品となっていく。
この頃、アメリカでは既に「マグロの油漬け缶詰」がポピュラーな食べ物になっていた。日本でも静岡県の水産試験場で研究開発が進み、1930年(昭和5)年、清水市(当時)のある会社が国産初のマグロの油漬け缶詰を製造し、アメリカへ輸出している。

その様子を、ある男が傍らから見ていた。名前は後藤磯吉(初代)。同じ清水市の漁業用縄問屋へ婿入りしていた磯吉は、いち早くマグロの油漬け缶詰の可能性を見抜き、1931(昭和6)年には水産試験場の技師に依頼した試作品を持参して訪米。そこで、現地よりも安く見栄えのする商品を作れることを確信した。磯吉は帰国後間もなく、原料になるビンナガマグロの盛漁期に合わせて清水市に缶詰工場を建設。後藤缶詰所、後のはごろもフーズの創業である。
缶詰の商標にしたのは「羽衣」。地元の三保の松原が羽衣伝説の舞台であり、天に昇る天女の姿が平和と繁栄につながることから選んだ。

「大雑把で大胆、同時に緻密な頭脳の持ち主」だった磯吉は、商才に長け、やる事が早かった。当時は不況で人件費が安い。しかもビンナガマグロの値段は豆腐よりも安かった。アメリカで高く売れることが分かれば、勝算は充分にある。磯吉はできたばかりのマグロの油漬け缶詰500箱(1箱4ダース入り)を持参し、東京の三井物産を訪問してこう切り出した。「これを輸出してくれないか。全財産をはたいて製造した。駄目なら缶詰製造は諦めて車引きでもやる」と。
交渉は成功し、工場は初年度から約1万箱を製造。この年の冬からはミカン缶詰の製造にも乗り出し、マグロの漁期が終わった後はミカンで周年操業する“静岡での二本立て”経営を実践する。
工場の数も増え、事業は順風満帆。と思われたが、磯吉は1946(昭和21)年に50歳の若さで急逝してしまう。跡を継いだのは、後藤家に婿入りした二代目の後藤磯吉だった。この二代目が、はごろもフーズを日本有数の缶詰メーカーに育て上げることになる。


自社ブランドを持って国内販売する──「シーチキン」の誕生

二代目・後藤磯吉
はごろもフーズを日本を代表する食品加工会社に育て上げた、二代目・後藤磯吉。
はごろもニュース

シーチキンの発売を知らせる「はごろもニュース」(1957年7月発行)。食べ方を細かく説明している。

発売初期のシーチキン

発売初期のシーチキン。「ファンシー」はビンナガマグロ原料の商品に付けられた。

戦中・戦後の物資が不足した時代、缶詰の原料はほとんどが政府の統制下にあった。原料の配給制が終わった後も、マグロ缶詰の生産量は政府によって割当が決められ、会社の規模によって枠の配分が決まっていた。日本は主たる販売先であるアメリカ市場の安定を図るため、自主的に輸出量を調整していたのである。そのために設立されたのが共販会社であり、マグロ缶詰を手掛ける会社はラベルを巻かないまま共販会社へ商品を拠出。共販会社がオリジナルのラベルを巻いてアメリカへ輸出するという形を取っていた。
このアメリカ向け輸出が大きく伸びたことにより、戦後のマグロ缶詰業界は早い段階で立ち直ることになる。1950(昭和25)年には145万箱を輸出。これは戦前のピーク時の2倍以上の数字だった。
この頃から、アメリカのマグロ缶詰業者との間に摩擦が生じるようになる。アメリカ政府は51(昭和26)年から、マグロの油漬け缶詰の輸入関税を22.5%から45%に引き上げた。これに対抗し、日本のマグロ缶詰業界は輸出商品を低税率(12.5%)のマグロの塩水漬け缶詰に変更。わずか3年足らずで対米輸出水準を元に戻すことに成功した。業界は、正に飛ぶ鳥を落とす勢いでマグロの缶詰を輸出していたのである。

だが、はごろもフーズ(当時は後藤缶詰)を率いる後藤磯吉(二代目)は悩んでいた。
「輸出は順調だが、“缶詰御三家”と呼ばれる清水の3社の中では最も規模が小さく、割当量も少ない。しかもアメリカ側の輸出規制は年々厳しくなっている。いつまでもパッカーのままでいいのか」と。パッカーとは、缶詰を作るだけの「詰め屋」のこと。売るのは問屋や商社の仕事だから、どんなブランドで売られても気にしない。反対に、流通段階の最終消費まで責任を持つのがメーカーという存在。そのためにメーカーは自社ブランドを持ち、自ら市場を育てていかなければならない。「我が社は輸出でブランドを育てるには力不足だ。ならば、国内販売に力を入れよう。どの会社もやっていないからこそ、うちがやって、見事やり遂げてみせよう」
磯吉はメーカーになろうと決心したのである。

内販重視──磯吉のこの判断は、はごろもフーズの歴史の中でも最大の出来事だと言われている。輸出全盛期に、全く需要が見えない国内販売に乗り出すのは大きな冒険だったはず。だが、彼には確かな自信があった。
人々の住まいが団地に移り変わり、核家族化が進む。そうなれば昔のように室内で炭を使って魚を焼くことも少なくなるだろう。おそらく食生活自体も西洋化が進み、缶詰はごく普通の食べ物になるはずだ──磯吉には、未来の日本人の食卓がはっきりと見えていたのである。

1958(昭和33)年、はごろもフーズはそれまで作っていたマグロの油漬け缶詰を「シーチキン」と名付け、商標を登録した。この不思議な商品名は、原料のビンナガマグロの肉は色が白く、別名「海の鶏」とも呼ばれていたことに由来する。同時に磯吉には、「油漬けでは語感が悪い。若い人は自動車の油を連想し、食欲も起こらないだろう。この商品は若い人たちに食べてもらいたいんだ」という思いがあった。
「シーチキン」の発売に合わせ、缶詰のデザインも全て一新した。それまでの缶詰ラベルは原料の姿をそのまま描いたものばかり。新しい缶詰は中身を瑞々しく表現し、美味しさをダイレクトに伝えたかった。磯吉はプロのデザイナーと専属契約を結び、写真を多用したモダンなデザインを積極的に取り入れていく。また、創業時から使ってきた天女の商標を時代に合わせて次第に小さくし、数年後に現在の矢羽根に置き換えた。
初代が作ったマグロの油漬け缶詰が、誕生から約40年を経てシーチキンに生まれ変わったのである。

 


内販を成功へと導いた特約店改革とテレビCM

大陳コンクール

1975年には販売店向けの販促策として山積セールを実施。缶詰拡販の新手法として注目を集めた。

テレビCM「海のにわとり編」

1967年のテレビCM「海のにわとり編」。

テレビCM「シーチキン坊やのお使い編」

1970年のテレビCM「シーチキン坊やのお使い編」。

果たして「シーチキン」は市場に受け入れられるのか? アメリカでは市民権を得ているが、国内ではまだほとんど誰も食べたことがないマグロの缶詰である。磯吉はじめ、社員の誰もが不安だったに違いない。案の定、問屋筋の反応は芳しくなかった。いわく「そんな変な名前では売れない」「ハイカラすぎるだろう」「どうかしてるんじゃないか」等々。
考えてみれば、「シーチキン」はあまりにも常識破りの存在だった。「○○印のミカン缶詰」のように、缶詰は中身や素材をそのまま表現するのが当たり前の時代に、原料がよく分からない商品名を付けたのである。缶のデザインもまた、売る側にとってはモダン過ぎた。

だが、磯吉の「独自のブランドで市場を開拓してみせる」という強い信念は、いささかも揺るがなかった。その強い思いは現場の営業マンにもしっかりと伝わり、新しい特約店づくりへとつながっていく。
はごろもフーズは戦前から商品の販売を大手食品卸に頼っていたが、大手はそれぞれプライベートブランドを持っている。特約店とはいえ、はごろもフーズの販売はどうしても二の次になってしまっていた。これでは「シーチキン」の販売は期待できない。そこで、プライベートブランドを持たない地域密着型の卸問屋を開拓することにした。そういう店は、はごろもブランドを気に入ってくれればとことん味方になってくれる。磯吉は特約店づくりを進めるため、業界に先駆けて全国の主要拠点に次々と営業所を開設していった。営業マンはそこをベースに足で歩いて「シーチキン」を売り込み、サービスを強化していったのである。やがて、全国各地にはごろも製品を販売する特約店組織「はごろも会」が結成されていった。

「シーチキン」の内販を成功させたもうひとつの要因はテレビCMだった。はごろもフーズのテレビCMは、1963(昭和38)年、静岡テレビ放送で放映したみつ豆のCMに始まる。その頃はまだ「シーチキン」のCMは放映されていなかったが、市場は徐々に変わり始めていた。輸出が厳しくなり、どのメーカーも内販に力を入れ出したのである。
磯吉は新たなテレビCMのアイデアを名古屋の有力特約店に相談した。この店の社長が、磯吉に重要なアドバイスを与える。「どこでも売っているミカンやモモの缶詰は宣伝しても効果が薄い。これからは“シーチキン”を重点的に宣伝するべきだと思う。ただ、消費者は“シーチキン”の食べ方をよく知らないから、料理方法も一緒に宣伝してはどうか」と。

このアドバイスに基づいて作られたのが、1967(昭和42)年に名古屋の東海テレビで放映された「奥さま、今夜のおかずにシーチキンはいかが…」で始まるCM。これは単に商品名を連呼するのではなく、「シーチキン」を使った料理を見せるメニュー提案型のCMで、当時としては画期的なものだった。家庭の主婦はこのCMによって、初めて「シーチキン」が野菜サラダやコロッケ、カレーライスなどに使えることを知ったのである。
このCMが人気を集めたため、はごろもフーズは6年後に全国ネットを通じてCMを放映。宣伝費は年間15億円にも達したが、売れ行きもCM開始前の年間3万箱から約10年で250万箱にまで伸びた。後に磯吉はこう述懐している。
「他社に先駆けて内販に方向転換し、業界全体が輸出不振で苦しんでいる時にテレビCMで量販体制を作り上げることができた。実にラッキーだったというほかない。今やメーカーは、テレビを通じて直接消費者へアピールする時代になった」
宣伝戦略でも、磯吉には特筆すべき先見性があったのである。


 
消費者ニーズをキャッチ、早くから健康志向の商品を発売

シーチキンお料理番
健康志向商品の第1弾となった「シーチキンお料理番」(過去商品)。
「油あっさり」シリーズ

従来品と比較して油の量を減らして人気を博した「油あっさり」シリーズ(過去商品)。

現行商品「素材そのまま シーチキンLフレーク」

現行の健康商品「素材そのまま シーチキンLフレーク」。80g、160円。

現行商品「シーチキンマイルド(エコナ)」)」「シーチキンマイルドキャノーラ」

同じくヘルシー系の(左)「シーチキンマイルド(エコナ)」、(右)「シーチキンマイルドキャノーラ」。

1960〜70年代にかけて「シーチキン」の販売量は急激に伸びたが、新たな問題が表面化してきた。「シーチキン」の原料であるビンナガマグロの資源問題である。この頃、はごろもフーズは日本に水揚げされるビンナガマグロの約半分を消費していた。この状態には無理があるし、「シーチキン」の販売量を更に伸ばすためにも新しい原料が必要だった。
業界では、ビンナガマグロをホワイトミートツナと呼び、キハダマグロやカツオをライトミートツナと呼ぶ。特にカツオは原料が豊富にあり価格が安いため、商品を安く提供できる。「ポストシーチキン」は消費者ニーズに応えるための商品でもあった。81(昭和56)年、はごろもフーズはキハダマグロを原料にした「シーチキンL」と、カツオを原料にした「シーチキンマイルド」を市場に投入。味にはそれぞれ独自のノウハウを導入し、短期間のうちにホワイトミートツナを凌ぐ主力商品に育て上げた。

発売から現在に至るまで、常にツナ缶市場をリードしてきた「シーチキン」。成功の要因は内販戦略よる市場創造が大きいが、常に消費者ニーズを先取りした商品を発売してきた先進性も見逃せない。
一例が、1982(昭和57)年に始まるアルミ製イージーオープン缶の導入。消費者の利便性を考えると、缶切りを使わずプルトップで開けられるイージーオープン缶は是非とも導入したい。だが、品質変化やコストアップの問題もある。はごろもフーズはそうした難題を次々とクリアし、業界に先駆けて、86(昭和61)年にはホワイトミートツナの、その翌年にはライトミートツナの全面イージーオープン缶化を実現した。
また、このイージーオープン缶化に合わせて、小容量の缶を上下にぴったりと重ね合わせるスタック缶も開発。今はこのスタック缶のパック商品が販売の主流となっている。

「シーチキン」は、今は当たり前になっている健康志向型商品の市場導入も早かった。ローファット、ローカロリーをコンセプトに、サラダ油を使用しない水煮タイプの「シーチキンお料理番」シリーズを発売したのは1984(昭和59)年。92(平成4)年には従来品と比較して油の量を減らした「油あっさり」シリーズへと発展し、現在、同社の健康志向型商品はオイル無添加タイプの「素材そのままシーチキン」シリーズと「食塩・オイル無添加」シリーズ、さらには特定保健用食品の花王「エコナクッキングオイル」を使用した「シーチキンエコナ」をラインナップしている。

「シーチキン」の特徴は、そのシンプルな商品ラインナップによく現れている。はごろもフーズはフルーツ缶や各種パスタなど、全部で1000種類以上の商品を販売しているが、「シーチキン」ブランドの商品は、容量の大小やパック商品を除けばわずか24種類にすぎない。その内訳も、基本的には3種類の原料(ビンナガマグロ・キハダマグロ・カツオ)、3種類の形状(ブロックタイプ・チャンクタイプ=大きめのほぐし・フレークタイプ)、大きく分けて2種類の調理法(油漬け・水煮)の組み合わせからなっている。
これらのバリエーションは、ツナ缶が市場に登場した早い時期からあったもの。味に関しても、これが秘伝の味といったものはないという。だからこそ、日常の使いやすさや健康志向など、消費者ニーズを先取りした形で、メーカー自らが市場を開拓していく必要があるのだろう。

ここ10〜15年ほど、「シーチキン」の販売数は横ばい状態にある。それでも「シーチキン」は、はごろもフーズの全売り上げの半分を稼ぎ出し、市場シェアは実に5割を超えている。圧倒的な知名度を持つガリバーブランドなのである。
ここ数年で水産資源不足が再び表面化し、「シーチキン」も値上げを余儀なくされた。それでも、「シーチキン」が私たちにとって最も身近なツナ缶であることに変わりはない。今日もまた、数え切れないほどの「シーチキン」が日本中の食卓を飾っているはずである。

 
取材協力:はごろもフーズ株式会社(http://www.hagoromofoods.co.jp
※「シーチキン」は、はごろもフーズ(株)の登録商標です。
 
     
1缶に2種類の具材をIN!──「シーチキン」はもっと手軽に、健康に
現行商品「シーチキンPLUS」3種類
「シーチキンPLUS」3種類。各80g、160円。
シーチキンの最新商品は、今年2月に発売された「シーチキンPLUS」。「シーチキン」と相性が良い「コーン」「大豆」「ポテト」を組み合わせ、それぞれを1缶に詰めて商品化した。はごろもフーズによると、4〜5人家族が当たり前だった高度経済成長期は、「シーチキン」ともう一つ総菜缶詰を使うのが主流だったという。核家族化が進み、単身家庭やDINKSが増えた現在は、もっと簡単・手軽に料理できることが求められている。そんな発想から生まれたのが、1缶に2種類の具材を入れるというアイデアだった。
プラスしているのは、どれも健康イメージが高い具材ばかり。ターゲットにしている30代の主婦からも、「忙しい食事の時間にもう一品加えたいとき重宝する」と好評を得ている。

   
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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