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ニッポン・ロングセラー考 Vol.96 ヒロタのシュークリーム 洋菓子のヒロタ

昔も今もお土産人気No.1!大阪生まれの庶民派洋菓子

INDEX

洋菓子修行の後、取引先の店先を借りて実演販売

創業社長・廣田定一氏

洋菓子のヒロタを興した廣田定一。10代の頃から腕の立つ菓子職人だった。

戎橋店

会社としてのヒロタ1号店となる戎橋店。1階が洋菓子店店舗、2階は喫茶室だった。

子供の頃、会社の帰りに父がお土産を買ってきてくれることがあった。どんなものだったかほとんど思い出せないのだが、ひとつだけ、はっきり覚えているお土産がある。
「ヒロタのシュークリーム」。今のように4個入りの細長いパッケージではなく、大きめの四角い箱にたくさんのシュークリームが並んで入っていた。ふわふわのシューと、とろりとまろやかなカスタードクリーム。子供にとっては夢のようなおやつだった。一口で食べるのがもったいなくて、チマチマ時間をかけて食べていた。
40代以上の関西出身者に聞くと、同じような経験を持つ人が意外に多い。「大人になったらヒロタのシュークリームを腹いっぱい食べるのが夢やったね」。そんな声も耳にする。現在は関東にも店舗があるが、ヒロタは大阪生まれの洋菓子メーカーなのだ。

創業者の廣田定一(さだいち)が大阪市上福島の自宅を改装し、洋菓子の製造販売業を始めたのは1924(大正13)年のこと。定一は和菓子・洋菓子・ベーカリーなどさまざまな食の現場で修行を積んだ苦労人で、独立したときはまだ23歳という若さだった。
最初は販売店からの注文に応じてデコレーションケーキなどを作っていたが、定一の夢は大阪の中心街に自分の店を持つこと。34(昭和9)年、堺筋にチョコレートショップを開店したが、客が入らずあえなく失敗した。手元に残ったのはお菓子を焼く電気窯だけ。これを活用すべく思い付いたのが、シュークリームの製造販売だった。

日本でシュークリームが売り出されたのは、明治時代の初め頃。定一が店を出した当時は、一部の洋菓子店だけで販売される高級洋菓子だった。1935(昭和10)年2月、定一は戎橋筋にある取引先の菓子店に頼み込み、軒先を借りてシュークリームの実演販売を始めた。
客の目の前で、焼き上がったシューにクリームを詰めていく。立ち上る甘い香りに引き寄せられ、大人も子供も次々と店の前で足を止める。「シュークリームは初めて見たけど、おもろいもんやな。一箱もらおか」。そんな声が相次ぎ、実演販売は大成功。1日で5000個も売れたという。

定一がシュークリームに付けた値段は1個2銭。それを10個箱に入れ、20銭で販売した。高級洋菓子店で売られていたシュークリームは大ぶりで値段も高かったが、定一は誰もが気軽に食べられるよう、サイズを小さくして1個あたりの値段を下げたのだ。この時初めて、シュークリームは庶民の手が届く身近なお菓子になった。
1948(昭和24)年、定一は戦後発祥の地となる神戸の元町に店舗をオープンした。この店をベースに、翌年、株式会社「洋菓子のヒロタ」を設立。その2年後には記念すべき戎橋の地に新たな店を開き、大阪、そして関西一円へと進出した。50年代半ばには、「ヒロタのシュークリーム」は既に洋菓子の代名詞的な存在になっていた。


東京へ、そして花の都パリにも進出した70年代

箱詰めのシュークリーム

箱詰めのシュークリーム(1970年頃)。初期のシュークリームは個数別に箱入りで販売されていた。

吉祥寺店

東京出店の先陣を切った吉祥寺店。70年代半ば、ヒロタは東西で30店近くを運営していた。

移動販売車

70〜80年代にかけて活躍した移動販売車。子供が大勢集まった。

パリ・エトワール店

凱旋門近くにあったエトワール店。3年後にはパリ15区に2号店をオープンした。

シュークリームによって関西における地歩を確立した洋菓子のヒロタは、50年代後半から東京への進出を図る。1957(昭和32)年、日本橋の三越百貨店で「なにわのうまいもの会」という催し物が開かれることになり、ヒロタもそこに出店することになったのだ。
マロングラッセが農林水産省の品評会で1位になったヒロタだったが、洋菓子の本場はやはり東京。定一はあらためて何を売るべきかを考えた。

三越は東京の上流階級が足を運ぶ特別な場所だが、当時は戦後の猛烈なインフレで、客の懐は決して豊かではなかった。つまり、お客は金はないが舌は肥えている。定一は「ヒロタのシュークリーム」を1個10円で販売することにした。東京では大きめのシュークリームが1個30円で売られていたから、格安と言っていい。1個のシュークリームを家族で分けるのは無理だが、「ヒロタのシュークリーム」なら3人がひとつずつ食べられる。定一には、プチフール(一口サイズのケーキ)感覚で買ってもらえるだろうという読みもあった。
商品は安くても、れっきとした洋菓子店であることを示したい。定一はシュークリームと一緒に自慢のマロングラッセやピラミッドケーキを販売し、商品ケースに表彰状を飾った。
結果は定一の目論見どおり。出店した36店の総売上のうち、1割をヒロタだけで売り上げた。

これを足がかりに、ヒロタは1969(昭和44)年、東京1号店となる吉祥寺店をオープンする。以降も新宿、八重洲、池袋、新橋駅前と、都心部へ次々と進出。デパートの地下や地下街など人通りの多いエリアを狙って出店し、会社帰りのサラリーマンや買い物ついでの主婦層を開拓していった。
関東地区では、販路についてもいくつかのチャレンジを行っている。70年代後半には団地などを中心に移動販売車によるサービスを実施。これは音楽をかけて到着を知らせ、車内で商品を選んでもらうシステムだった。79(昭和54)年にはシュークリームの自動販売機をスーパーマーケットや病院に設置。子供や患者に大好評だったという。

中野工場を設立し、東京での生産・販売体制を固めたヒロタは、更に大きな夢を実現させる。菓子の本場であるヨーロッパ、それもフランスのパリに店を出したのだ。凱旋門近くにエトワール店をオープンしたのは、1973(昭和48)年の10月。洋菓子のほかに和菓子やパンも販売したこの店は、外国人だけでなく現地の邦人も多数来店する人気スポットになった。

同店を有名にしたこんなエピソードがある。パリでの起工式を終えた定一が乗った飛行機が、アムステルダムの上空でハイジャックされたのだ。定一が100人近い乗客と共に帰国したのは1週間後。その間、新聞やテレビは連日連夜、この事件の行方を報道し続けた。
帰国時の新聞の一面に掲載された、孫を抱いて歓喜する定一の姿。大きな災難だったが、図らずもこの事件が、パリに進出するヒロタの名を一躍世間に広めることになった。


凱旋門が描かれていた?──マーク・ロゴの変遷

1927年、34年頃のロゴ

(左)1927年頃のブランドロゴ。ゾウの真ん中に創業者のイニシャル付き。(右)1934年頃のロゴ。エンブレム型の凝ったデザイン。

丸型ロゴ、凱旋門ロゴ

(左)1960年代に使われた丸型ロゴ。太文字の「ヒロタ」でお馴染み。(右)凱旋門をあしらった装飾的なロゴ。80年代に使われた。

現在のロゴ

現在のロゴ。イメージカラーはかつてのオレンジから紺色に変わった。

古くからの「ヒロタのシュークリーム」ファンなら、同社のシンボルマークやロゴタイプにも親しみがあるに違いない。ヒロタは創業時から現在に至るまで、たびたびブランドロゴを変えている。主だったものを見てみよう。
創業当時に使われていたのは、ゾウのイラストを使ったロゴ。採用の理由は不明だが、力強く事業を推し進めたいという気持ちの表れだったのかもしれない。シュークリームの実演販売を行った頃に使われていたのは、廣田定一のイニシャル「S・H」を埋め込んだお洒落なロゴ。やや分かりにくかったので、戦後の成長期には斜体のアルファベットロゴに変更された。

60年代に使われたのは、上下左右どちらからでもヒロタと読めるカタカナのブランドロゴ。関西出身の中年世代には馴染み深いデザインだ。70年代に入るとロゴは再びアルファベットのHIROTAになり、80年代にはフランス語と凱旋門のイラストをあしらったデザインに変わった。洋菓子作り一筋でやってきた定一にとって、パリは思い入れの深い特別な街だったのだろう。
アルファベットのブランドロゴは1989(平成元)年に再びデザイン変更され、2002(平成14)年から現在のものが使われている。"Since 1924"の文字が入れられたこのロゴは、ヒロタが急速に成長していた70年頃に使われていたデザインを模したものだという。

社名の「洋菓子のヒロタ」を表記した和文ロゴも馴染み深いもの。店の看板や商品パッケージなどに幅広く使われたので、「ヒロタのシュークリーム」と言えば太文字ロゴの「ヒロタ」マークを思い出す人も多いようだ。


関西ではチョコレート、関東ではツインフレッシュが人気

年代ごとに変遷したパッケージ 年代ごとに変遷したパッケージ 年代ごとに変遷したパッケージ 年代ごとに変遷したパッケージ

年代ごとに変遷したパッケージ。上から1980年代前半、90年代前半、90年代後半、98年頃。

現在の「オリジナルシュークリーム」

現在の「オリジナルシュークリーム」。複数カートン入りもある。

京抹茶

「季節のシュークリーム」京抹茶。宇治抹茶に玉露をプラスした贅沢な味わい。

「ヒロタのシュークリーム」自体はどのように変わっていったのだろう。実は、大きさや原料、クリームの味をはじめとするレシピに関しては、今に至るまでほとんど変わっていない。パッケージも1978(昭和53)年に業界で初めて生産ラインの自動化を取り入れるまで、9個・12個・16個詰めの箱入りで販売されていた。この年発売された「フレッシュパックシュークリーム」が、細長い箱に4個並べてパッキングした現在の「オリジナルシュークリーム」の原型になっている。
味の種類は長い間カスタードとチョコレートだけだったが、1981(昭和56)年にカスタードとフレッシュクリームを組み合わせたツインフレッシュを追加。この3種類が「ヒロタのシュークリーム」の顔となっている。

1箱に4個入っているのも、「ヒロタのシュークリーム」ならではの大きな特徴。「フレッシュパックシュークリーム」の開発時には3個入りにする案もあったらしいが、日本の家族形態を想定すれば4個入りがベスト。実際、1人で食べるなら好みの味を1箱、家族で食べるなら3種類をひとつずつ買って帰る人が多いという。
興味深いのは、関西と関東で売れ筋商品に違いがあること。関西ではチョコレートが、関東ではツインフレッシュが一番人気なのだ。理由は定かではないが、こんな定番商品にも地域性があるという点が面白い。

90年代の最盛期には日商100万個を販売したヒロタだったが、2001(平成13)年に経営破綻に陥り、民事再生法の適用を申請した。新たなスポンサーの下、販売する商品を「ヒロタのシュークリーム」など数点に絞り、同時に多数あった店舗もリフレッシュした。
定番の「オリジナルシュークリーム」はそのままだが、新たな展開もある。毎月1商品ずつ、旬の味覚を取り入れた「季節のシュークリーム」を販売しているのだ。ちなみに今売られているのは、レアチーズ(4月30日まで)と京抹茶(5月31日まで)の2種類。販売期間が2ヶ月と短いので、スイーツファンの注目度も高いという。

ここ数年、シュークリームはコンビニで売られる大きめのワンパックタイプが話題を集めているが、駅チカでサラリーマンや主婦層に売られる「ヒロタのシュークリーム」も、昔と変わらず根強い人気に支えられている。サイズは小ぶりだが、4個入って300円という価格は充分リーズナブル。1箱食べれば小腹も満足する。
何より凄いのは、どこへお土産に持っていっても必ず喜んでもらえることだろう。それはおそらくシュークリームだからではなく、「ヒロタのシュークリーム」だからこそ。柔らかなシューの中には、クリームと共に人を惹き付けてやまない魅力がたっぷりと詰まっているのだ。

取材協力:株式会社 洋菓子のヒロタ(http://www.the-hirota.co.jp
もうひとつのロングセラー商品「シューアイス」

シュークリームにこそ及ばないものの、ヒロタにはもうひとつ、多くのファンに愛されているロングセラー商品がある。1964(昭和39)年に発売した「シューアイス」。夏に低下するシュークリームの販売数を補うために開発された、期間限定の商品だった。面白いのはその形。現在の「シューアイス」はシューの中にアイスクリームを注入しているが、発売当時は上下に切り分けたシューでアイスクリームをサンドしていた。発売当初はバニラ味一種類だったが、好評のため次々と味のバラエティーを拡充。今では期間限定商品を含め、10種類ものラインアップを揃える看板商品になっている。

「天然バニラ」

シューアイス「天然バニラ」。1個100円。

「クッキー&クリーム」

シューアイス「クッキー&クリーム」。1個100円。

タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト
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