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ニッポン・ロングセラー考 Vol.110 スーパーニッカ

1962年 発売

ニッカウヰスキー

INDEX

竹鶴政孝──人生のすべてをウイスキーに捧げた男

画像 竹鶴政孝

“日本のウイスキーの父”竹鶴政孝。類い稀なるブレンダーでもあった。

画像 帰国後の竹鶴とリタ夫人

帰国後の竹鶴とリタ夫人。国際結婚は非常に珍しい時代だった。

画像 創業当時の社屋

創業当時の社屋と社員。当初はリンゴ果汁製品を作っていた。

画像 自社製ウイスキー第一号「ニッカウヰスキー」

記念すべき自社製ウイスキー第一号の「ニッカウヰスキー」。

若者を中心にしたハイボールブームによって、ここ数年、ウイスキー市場が伸びているという。「古くてオヤジっぽい」イメージだったウイスキーはお洒落な飲み物に変わり、ビールや焼酎からシフトする人も多いのだとか。オヤジ世代からすると意外なリバイバルだが、低迷していたウイスキーにスポットがあたったことは、年配のファンにとっては喜ばしいことだ。
今回のテーマは、ニッカウヰスキー株式会社が1962(昭和37)年から販売している「スーパーニッカ」。本格派ブレンデッドウイスキーとして、酒好きならその名を知らない人はまずいないだろう。

「スーパーニッカ」の生みの親は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキーの父」「キング・オブ・ブレンダー」と呼ばれた竹鶴政孝。1894(明治27)年、広島のとある造り酒屋に生まれた竹鶴は大阪の学校で醸造学を学んでいたが、当時はまだ新しい酒だった洋酒に興味を抱く。在学中に洋酒会社に入社し、会社の命を受けて単身スコットランドへ留学。現地でウイスキーづくりの基礎を学ぶと共に、生涯の伴侶となるリタを伴い日本に帰国した。
だが、折悪しく起こった世界恐慌のため、会社はウイスキーの製造を断念。1929(昭和4)年、竹鶴は寿屋(現サントリー)へ入社して日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出す。だが竹鶴は満足せず、1934(昭和9)年に独立。北海道の余市に工場を建て、「大日本果汁株式会社」を設立した。

竹鶴が自社製ウイスキー第一号「ニッカウヰスキー」を発売したのは、それから6年後の1940(昭和15)年。“ニッカ”は社名の日果に由来する。発売はしたものの、戦争のためウイスキーはすぐに統制品となった。戦後はアルコールに香料と着色料を加えただけのイミテーションウイスキーが市場を席巻。当時の酒税法で酒は「一級」「二級」「三級」に分けられており、原酒混和率0〜5%の三級ウイスキーは、原酒が全く入っていなくてもウイスキーとして売れたのだ。

ウイスキーの聖地に学んだ竹鶴は、本物のウイスキーづくりにこだわった。1952(昭和27)年には本社を東京へ移転し、社名もニッカウヰスキーに変更。だが、同社が作る本物志向の一級ウイスキーはなかなか売れなかった。会社は苦境に陥り、倒産の危機に直面。苦悩の末、竹鶴は三級ウイスキーの発売を決断する。それでも、規格内最高の原酒率5%を維持し、他社より高い値付けで販売した。現実に折れようとも、竹鶴はギリギリのところで理想とプライドを守り抜いた。

1953(昭和28)年、酒税法上の区分が「特級」「一級」「二級」に変更された。ニッカの二級ウイスキーはうまくて好評だったが、値段が割高なため苦戦が続いていた。会社が成長するためには、市場を獲得するヒット商品が欠かせない。ニッカは56(昭和31)年に他社と同じ価格レベルの二級酒「丸びんニッキー」を発売。これが当たり、同社の販売高はそれまでの5倍以上に伸びた。
以降、苦しい状態が続いていたニッカの経営は安定する。だが、竹鶴の心にはどこか割り切れないものが残っていたのだろう。ある悲しい出来事をきっかけに、彼は新しい一歩を踏み出すことになる。


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悲しみを乗り越えて完成させた“幻のウイスキー”

画像 研究所の竹鶴親子

余市の研究所で新しいウイスキーづくりに励む竹鶴親子。

画像 初代「スーパーニッカ」

初代「スーパーニッカ」。希少性もあり、高級ウイスキーの中で注目を集める存在だった。

竹鶴からのプロポーズを受けた時、リタはこう答えている。
「政孝さんは、日本で本当のウイスキーをつくるという大きな夢をお持ちです。私もその夢を共に生き、お手伝いしたい」
若くして見知らぬ国、日本へやって来て、ウイスキーづくりに奔走する夫を陰日向から支え続けた。戦時下には敵国人として厳しい目に晒されたが、日本人になりきろうと努力を惜しまず、夫への心遣いを絶やさなかった。竹鶴にとってリタは最愛の妻であり、同時に最大の理解者でもあった。
そんなリタが1961(昭和36)年に急逝する。葬儀の後、竹鶴は自室にこもって丸二日間、一歩も部屋から出なかったという。悲しみはそれほどまでに深かった。

だが、ウイスキーへの情熱が竹鶴をよみがえらせる。既に数種類の製品を世に送り出していたが、まだ十分に納得したわけではない。自他共に認める本物のウイスキーをつくること。それが自分の夢であり、リタと交わした大切な約束だった。既に67歳になっていた竹鶴だが、傍らには一流ブレンダーに育った息子もいる。今こそ自分の夢を実現する時ではないか。リタとの縁を生んだのがウイスキーなら、彼女を失った悲しみを忘れさせてくれたものもまた、ウイスキーだった。

竹鶴は息子の威(たけし、現相談役)と共に余市蒸溜所の研究室に入り、新しいウイスキーづくりに没頭した。ウイスキーの主流ともいえるブレンデッドウイスキーは、複数のモルト(麦芽)原酒とグレーン(穀物)原酒を混合してつくる。二人は貯蔵庫からサンプリングした原酒のテイスティングを繰り返し、理想のブレンドを追い求めた。
選んだのは、余市の原酒の中でも最高峰のものばかり。コクのある長期熟成モルト原酒と力強く華やかな若いモルト原酒を絶妙のバランスで混ぜ、柔らかな味わいの熟成グレーン原酒をわずかな配合でブレンドした。飲んでみると、口当たりはソフトでスムーズ。馥郁(ふくいく)たる香りが余韻と共に残る、素晴らしい出来映えだった。

完成した新商品には、特級ウイスキーの頂点にふさわしい「スーパーニッカ」という名が付けられた。販売は1962(昭和37)年の10月。値段は720ml入りで3000円だった。当時の大卒初任給は1万7000円だったから、今の感覚なら4万円くらいだろう。国産ウイスキーとしては極めて高価だったが、「スーパーニッカ」の売れ行きは最初から好調だった。「飲みやすく味わいも豊か」「水割りにしてもウイスキー本来のおいしさが楽しめる」と、味にうるさいウイスキーファンの間でも評価が高かったのだ。
ただし発売当時の「スーパーニッカ」の生産量は、年間でもわずか1000本だけ。なかなか店頭に現れず、市場では“幻のウイスキー”とも呼ばれていた。竹鶴の徹底したこだわりが、量産化を阻んでいたのだ。


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創業者が抱きしめて離さなかった“手吹きのボトル”

画像 初代「スーパーニッカ」のボトルを手に

優美な曲線が特徴のボトルは1本ずつ手吹きで製造された。さながら工芸品のような完成度。

画像 札幌オリンピック記念ボトル

五輪の色をあしらったボトルが使われた、札幌オリンピック記念商品。

画像 「ゴールドニッカ」のボトル

「ゴールドニッカ」のボトル。こちらもウイスキー瓶に見えないほど個性的だ。

芳醇な味わいに次ぐ「スーパーニッカ」の特徴は、女性的な柔らかさを感じさせる優美なボトルデザインにある。「スーパーニッカ」を完成させた竹鶴は、威に向かってこう語ったという。
「ウイスキーが熟成するまで何年もかかる。大きくなった娘を嫁にやるのと同じだから、立派な衣装を着せてやりたい」
親心と同じ気持ちでウイスキーのボトルを選ぶ。ウイスキーを心から愛した竹鶴らしい発言だ。発注先に選んだのは、1955(昭和30)年に発売した「ゴールドニッカ」のボトルを手掛けた各務クリスタル製作所(現・カガミクリスタル)。日本を代表するクリスタルガラスメーカーであり、皇室御用達としても知られている。

ボトルをデザインしたのは、戦後の昭和期に活躍したガラス工芸家の佐藤潤四郎。独特の涙型フォルムは、中国の器にヒントを得たものだ。実はこのボトル、ニッカウヰスキーがゼロから注文したものではなく、各務クリスタル製作所の工房に並んでいたものだった。その美しさに一目惚れした竹鶴は、ボトルを目にするなり抱きしめて離さなかったという。

材質は丈夫さと美しさを兼ね備えたセミクリスタル。当時はこの優美な形を機械で製造することができなかったため、型を使わず吹き上げだけで製造する“手吹き”の手法が用いられた。手づくりだから、ボトルの口径には1本1本微妙な差が生じる。密閉するためには、同じく手づくりした栓をボトルの口とすり合わせる必要があった。ボトルと栓のそれぞれに刻まれた番号が一致しないと、商品として出荷できなかったのだ。 ここまでくると、工業製品と言うより工芸品に近い。手間暇がかかるだけでなく、コストも高くついた。2級ウイスキーが300円台で買えた時代にあって、ボトルの原価は500円。製造効率は望むべくもなかった。沢山つくりたくても、「スーパーニッカ」は年間1000本の生産が限界だったのだ。


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高嶺の花からプレミアムスタンダードへ

画像 「新スーパーニッカ」

「新スーパーニッカ」ではボトルの製造を機械化。量産化が可能になった。

画像 TVCM「中国編」

TVCM「中国編」。スケールの大きな映像とBGMが話題になった。

画像 現行「スーパーニッカ」大小2種

現行「スーパーニッカ」。ボトルサイズは700mlと50mlの2つ。背面に“S”のレリーフを刻んだモダンなデザインに変わった。

原酒の味は、使用するモルトやグレーンの種類はもちろん、蒸溜所や使用するポットスチル(単式蒸溜釜)、熟成させる樽などによっても違ってくる。ロングセラーのブレンデッドウイスキーは、時代と共にそのブレンドを微妙に変えてゆくのが一般的。「スーパーニッカ」もまた、長い時間をかけてそのブレンドに手を加えてきた。

初代をつくった頃はモルト原酒を製造する余市蒸溜所しかなかったので、中身はほとんどシングルモルトに近いものだった。だが「スーパーニッカ」の香りをさらに良くしたかった竹鶴は、わざわざイギリスからカフェ式蒸溜機を取り寄せて西宮工場に設置した。カフェ式は本国でも時代遅れの旧式蒸溜機だったが、香味成分の豊かなグレーン原酒(カフェグレーン)をつくることができる。カフェグレーンの蒸溜は「スーパーニッカ」発売の2年後から始まった。
モルト原酒の幅も広がった。1969(昭和44)年には仙台蒸溜所が完成。余市でつくるハイランド・タイプのモルト原酒に加え、仙台でつくるローランド・タイプのモルト原酒もブレンドできるようになった。

とはいえ、ブレンドを一度にガラリと変えることはできない。消費者が違和感を抱いてしまうからだ。ニッカウヰスキーは時間をかけて徐々にブレンドを変更し、1970(昭和45)年に「新スーパーニッカ」を発売した。技術革新による自動製瓶が可能になったため、ボトルの製造が機械化されたことも大きかった。デザインも、やや丸みを帯びた形に変更されている。「スーパーニッカ」は新世代になり、拡大する需要に十分応えられるようになった。

80年代に入ると、あらゆる分野において高級志向、プレミアム路線の商品が目立つようになってくる。高級ウイスキーも徐々に消費者層を拡大。「スーパーニッカ」の場合、その牽引(けんいん)役となったのはテレビCMだった。
1980(昭和55)年には映画「天平の甍」とタイアップしたCMをオンエア。重厚な映像のバックに流れる谷村新司の「昴」が大ヒットを記録した。86(昭和61)年にはソプラノ歌手、キャスリーン・バトルを起用した芸術路線のCMを制作。格調高い映像と美しい歌声で、「品質のニッカ」を印象付けることに成功した。

2009(平成21)年3月、「スーパーニッカ」は現行商品に移行した。発売年から数えると、47年目にして行った大がかりなリニューアルということになる。そのポイントは、竹鶴もこだわりぬいたウイスキーならではの“香り”。新たに余市蒸溜所の新樽モルト原酒を加えることで、現代の嗜好に合う、甘く柔らかな香りを際立たせている。
もちろん、2つの蒸溜所でつくられるモルト原酒とカフェグレーンのブレンドから生まれる従来からの特徴は変わらない。芳醇な香りと穏やかな香りのバランス。その調和から生まれる豊かなコク。そしてどこまでもスムーズな口当たり。

竹鶴政孝は1979(昭和54)年にこの世を去った。仮に生前の竹鶴が最新の「スーパーニッカ」を飲んだとしても、きっと満足したことだろう。本物にこだわるものづくりの姿勢は、ブレンダーをはじめとするニッカウヰスキーの社員に脈々と受け継がれている。
「スーパーニッカ」がニッカウヰスキーの柱となった製品であることは間違いない。だが生前の竹鶴は庶民派ウイスキーの「ハイニッカ」を気に入り、毎晩のように飲んでいた。ほろ酔い気分の脳裏に浮かんだのは、ウイスキーのことだろうか。それとも、亡き妻リタとの思い出だろうか。

取材協力:ニッカウヰスキー株式会社(http://www.nikka.com
「スーパーニッカ」の水割りを手軽に楽しめる

リニューアルされてより飲みやすくなったものの、「スーパーニッカ」は伝統あるニッカウヰスキーの看板ブランド。ウイスキー初心者にとっては、ボトルを買って家で飲むには敷居が高い。またちょうどよい割合の水割りを作るのは難しいという声もある。そうした状況をブレイクしようと、ニッカウヰスキーは「スーパーニッカ」だけでなく、あらかじめ水で割った「スーパーニッカ&ウォーター」も同時にリニューアルした。容器は瓶と缶の2種類。缶入りはコンビニの棚で見かけることもある。イメージ的に缶入りチューハイや缶入りハイボールに近いので、その日の気分で飲む酒をチョイスする20〜30代の人たちにも支持されている。

画像 「スーパーニッカ&ウォーター」

「スーパーニッカ&ウォーター」は300ml瓶と250ml缶の2種類で発売中。

タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト
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