矢野 サイバースペースを論ずると、規制の問題が出てきます。サイバースペースでは自由に(匿名で)情報がやり取りされており、プライバシー侵害や名誉毀損などの社会的害悪をもたらす。だから規制しなくちゃいけないと、一般的に言われてますよね。ローレンス・レッシグという法律学者は、著書『CODE』(翔泳社)で、このインターネットの規制をテーマにしていますが、その構成は少し複雑です。
 「コード」という言葉は多義的で、「法律」という意味もあるし、「プログラム」という意味もある。さきほどのサイバースペースと技術との関係じゃありませんが、インターネットはコードで規制されやすいメディアであり、だからインターネットは、いまや初期の「自由なメディア」から「規制されたメディア」へと変貌しつつある。だからインターネットの自由を守るためには、人間のあるべき姿、社会とは何であるかというある種の「理念」、「倫理」に基づいた憲法みたいなもので、インターネットをコントロールすべきだというのが彼の意見です。
 しかし、これは少し楽観的だと思いますね。日本で規制と言えば、インターネットの自由を規制するということになりがちで、あるべきインターネットを築き上げるために、それを規制(コントロール)するという発想にはなりにくい。それならむしろ規制しないほうがいいということになってしまうわけで、欧米人は理念に対する信頼感が強いんですかね。
黒崎 どういう理念を出していこうとしているんだろう、そこから疑問ですよね。人間が持ち得た理念といえば、フランス革命のときの「自由、平等、博愛」くらいでしょう。「人間とは何か」という理念的な合意が得られるとは、とても思えませんよね。僕だって、もし「大学の理念に照らして……」なんて言われたら、「理念って何だっけ?」と思っちゃいますから(笑)。建前では理念、理念と言うけれど、みんなが納得するような理念はもうないんですよ。
矢野 それではどうするんですか、という話になる。
黒崎 僕、どうもしません(笑)。
矢野 どうもしない、わけねえ(笑)。

矢野 黒崎さんは、朝日新聞夕刊の時評で、「IT革命」なるものの実体について、「今回のIT革命ブームには、根源的な危機感があまりになさすぎる。革命というからには、我々が疑うことなく立脚してきた近代という地盤そのものの変動、消滅を意味するはずである。この革命は、実は<従来のビジネス>の消滅ではなく、<ビジネスそのもの>の消滅を、あるいは<従来の著作権>の消滅ではなく、<著作権そのもの>の消滅を意味しているのかもしれないのである」と書いておられます。これはつまり、我々に「無知の知」がなさすぎるということですか。
黒崎 そうそう。僕はほかの人以上に危機感をもっているんです。IT革命と言いますが、世間は、「社会がこのくらい発展したぞ、次の発展は何か。ITだ!」というふうな、いままでの連続でしか捉えていないわけですよね。しかし、本当はITによって近代そのものが変わってしまう、あるいは何百年かけて培った常識も変えてしまう。そういうことが起こっているんだと自覚しないと、小手先だけのブームで終わってしまうんですよ。ところがインターネット社会の根本から理解しようとすると、たいへんな労力が必要で、非常に疲れます。
 こういう端境期(はざかいき)には、人生を楽しんでおいたほうがいい。生き物としてイキイキ暮らすことです。やがて時代が落ち着きを取り戻したら、エネルギーを蓄えていた人たちの出番、そういう人こそが活躍できるのかもしれません。だから、むやみに最先端を走るべきじゃない、むしろ自分を大切にして休むべきだと思うのです。という僕は、ただの怠け者でしょうか(笑)。
矢野 なるほどなあ。そういう手があるわけですね(笑)。『となりのアンドロイド』(NHK出版)という著書には、「哲学者クロサキの憂鬱」という副題がついていますが、そういう危機感が憂鬱の原因ですか。
黒崎 そういうわけでもないんですが……。
矢野 あの本では、今後、人間はロボットとどう付き合っていくかが大きな問題になると言っておられますね。アンドロイドを人間の形に似せてつくった単なる機械と見るか、そうではなく、人間そっくりの存在として感情的に受け入れるかによって、対応が全然変わってくるだろうと。ロボットが操作制御装置そのもの、マニュピレーターだったときには何の問題もなかったけれど、いまや人間の姿によく似た二足歩行が可能なロボットが現れた。ホンダの開発した「ASIMO」はテレビコマーシャルにも登場していますが、いかにも人間の動きに似ています。
黒崎 すごい存在感がある。テレビコマーシャルを見ると「ASIMO」ってかわいいなあと思いますもん。でも、あれには何の知能もないんだとか、何か考えているわけじゃないんだと、常に自分に言い聞かせていないと、「ASIMO」も「AIBO」もかわいい動物、大切にしなければならない存在として見えてくるでしょう。しかしその前に、現実に生きている犬を大切にするのと、「AIBO」を大切にするのは同じなのかどうか、深く考えないといけないですよね。
矢野 それが、黒崎さんを憂鬱にする?(笑)。
黒崎 だって、仮にAIBOが壊れそうで、かたや本物の犬も死にそうにしていたら、どっちを助けますか? そういうとき、おそらく冷静に判断できないんじゃないかと思うんです。なぜならテクノロジーの能力は計算速度が1秒間に何万回から何十万回、何百万回というように加速度的に伸びているのに、我々のような生物は、そんなに急激に変化しないですから。コンピュータに抜かれるというのは変な言い方ですが、ちょうど人間が歩いていると、自動車に追い抜かされるのと同じように、インターネットの威力は我々の社会を追い越していく。「追い越す」「追い越される」というより、全面的に理解しうる存在ではなくなっていくんでしょうね。当然、ロボットに対する感情判断がぶれる可能性だってある。
 つまり、全体を見通すことを人間が放棄せざるをえないような状況になっていると言いたいんです。
 たとえば、天使がいるとしましょう。変な話をはじめてすいません(笑)。天使というのは音楽を一瞬で聴くんだそうですよ。モーツァルトの曲なんて一瞬にして素晴らしさがわかる。ところが人間は一瞬ではわからないから、形式に沿って30分とか時間の中に散りばめているんだと。我々人間はモーツァルトの音楽を時間性の中でしか聴けないんですよ。30分もかかってようやくわかる。天使と人間には時間性に関して能力の差がある、ということです。
 空間性に関しても、人間はその場所に行かないと見えないけれども、天使は一瞬にして見えているかもしれない。カントもそうですが、哲学者はこういう「異なる存在者」の話をよくするんです。たとえば、人間とは別の存在者がいたとして……というふうに、人間の有限性を論ずるとき、天使とか神とかを引きあいに出すわけです。空間や時間という枠組のなかで思考をする我々人間をはるかに超えた存在が、天使や神なんです。まあ、そういう方たちなら、一瞬にして全体を把握できるだろうと。彼らはコンピュータをつくらないから、今日の話題とは関係ないのかもしれないけれど(笑)。
 時間や空間とは何か。これには2説あります。私はカント派なのでカント説をとっていますが、カント説では時間、空間は、人間の認識の形式なのです。もう一説、ニュートン的な考え方では、絶対時間、絶対空間があり、空間と時間は世界に属していると考える。こちらのほうが、普通なんですがね。カントは「時間や空間というのは、我々がかけている眼鏡のようなものである」と、妙なことを言っています(笑)。「物事自体はどういう形をしているかまったくわからないが、空間と時間という形式によってはじめて見えるものだ。したがって空間と時間というのは物事の側に属する性質ではなくて、人間の認識の性質である」と言っているんですね。
 この説で考えると、いままで我々は、時間と空間という形式を使って物事を理解しながら暮らしてきた。ところが、いまや情報伝達速度が光速レベルまで高まりつつあり、時間の落差も空間の隔たりも無になるようなネット社会に入ってしまった。これは我々の時間的、空間的な認識様式をはるかに超える構造をしている。そういう状況なのだから、的確な認識や判断ができないのは当然じゃないかと考えられるわけです。
矢野 で、思考停止になることが「わかっていればいい」と(笑)。そういう時代に、黒崎さん自身はどう生きようとしているのですか。さきほど、自分を大切にして、生物としてイキイキ暮らす、と言われましたが……。

黒崎 私はコンピュータの進展とともに、骨董やアンティークにどんどんハマっていきました。自分のバランスをとるためには、自分自身が時間性の中にいて、人間らしい身体性をもっていると常に確認する必要がでてきます。それが僕にとっては、たまたま骨董やアンティークだったのです。時間を経た物の豊かさ、それを見る喜びや手にとる実感を得ることが僕にとってはこのうえなく心地よい、ということなのです(苦しみでもある…)。
 どんなやり方でもいいから自分を守らないと。だって、世の中がどうなっているかと議論する前に、まずは自分がイキイキとしていないと意味ないでしょう。なにも汲々としてまで健康でいたいわけじゃないですが、楽しいことをまず探してみよう、と。美味しいワインを飲んで、生きているってうれしいなと思う方向にどんどん傾いています。……なんだか、全然、哲学者らしい答えじゃないですね(笑)。
矢野 確かに若い人たちにも、趣味を大切にする傾向がでてきていますよね。ただ、この社会がこれからどう暴走していくかはわからないと思いますが。
黒崎 90年代の冒頭には、テクノロジーを加速度的に発展させ、もっと便利になればいいという人はかなりいたけど、いまはどうでしょうね。たとえば「骨董集め」や「グルメ志向」などが個人の営みとしてあって、一方で、社会的にはテクノロジーに寄りかかる。そんなふうに、区別される方向でいくのか。それとも、人間の生物性や身体性が尊重されるような構造が、社会そのものに組み込まれていくのか。
 言い換えれば、我々は社会に参加しているときには疲れ果て、プライベートに戻ったときだけ豊かさを得るのか、それとも、その豊かさが社会の中にまで広がるのか。いまがちょうど境目で、社会が発展することの利便性を追ってきた人たちが、このままでは疲れ果てて力尽きてしまうと感じている、そういう時期なのではないでしょうか。
 ともあれ、いまはまず、自分の中にある生物性や時間性を確認して、自分を守る。そうやって自分を守れた人々が、次に何かをできるかもしれない、と思うのです。
矢野 僕らの世代は、歩いて学校に通うとか、どんなことも自分の肉体を使ってきたから、そういう身体性が身についています。そのうえで、コンピュータやインターネットなど「わけのわからないもの」が出てきて、追いつけ追いつけでやってきたのですが、いまの子は当然の環境としてスタートしている。僕らといまの子では、まるで違う感性や考え方になりますね。
黒崎 明らかに違ってくるでしょう。だけど、明治生まれの人たちなんか、我々に対して「いまの連中はだめだ」と言っていたでしょう。江戸時代に生まれた人だって、明治の人に「火打石がちゃんと使えないようじゃだめだぞ」ときっと言ったと思う(笑)。一時ナイフで鉛筆を削れるかという論争がありました。でも、いまはみんなが削れなくて当たり前になったから言わなくなった。つまり、その時々のテクノロジーとの相関関係によって、世代間のギャップがつくられてきたのだと思います。
矢野 デジタル以前と以後では、テクノロジーの格差はさらに大きい。
黒崎 ものすごくでかいですよ。でも、電気・水道・ガスができる以前と以降も大きいですね。我々が想像する次元どころではない激変だったのじゃないですか。
矢野 ただ、電気・水道・ガスに関しては、生活の利便性を追っただけで、まだ人間の身体の延長上にある感じだけど、デジタル・テクノロジーの出現は人間の精神性まで変えているように思います。そこが違うのでは。
黒崎 そうですね。それまでのテクノロジーの拡張は身体性のレベルだったけど、デジタルの進展は、はじめて人間の神経系を拡張しているんでしょう。
矢野 デジタル以前とデジタル以後は、人間の進化にとって最も大きな分岐点だと言い切ってしまうのは可能でしょうかね。
黒崎 いや、僕は火の発見以前と以後のほうが大きいと思う。あるいは農耕が始まる以前と以後。デジタル化は、いまそのまっただなかにいる我々にとっては激変ですよ。けれど、もっと遠くに引いて、人類の歴史という視野に立ってみれば、デジタルの進展が大きな変節点となるかは疑問でしょう。たとえばインターネットにしても、情報を保存する方法が本からコンピュータに変わったという意味くらいのものではないか。近いところでは、第二次世界大戦の敗戦で日本が民主主義になったときのほうが、変化が激しいんじゃないですか。でも、その変化に耐えてきたわけだから、僕らも、だいじょうぶでしょう。
 なんだか、ちっとも建設的な意見じゃなくて、すいません(笑)。
矢野 近くの火事は大騒ぎ、っていうことかもしれませんが、いまが歴史の大きな曲がり角なのは間違いないような気がしますね。毎年、毎年、年賀状に「今年は激動の年になりそう」なんて書いているのもどうかと、反省はしますが……。
 とまれ、より大きな視点でものを見る大切さを再確認させていただきました。どうもありがとうございました。



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