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かしこい生き方を考える COMZINE BACK NUMBER
インターネットという「迷宮」の案内役:二木麻里さん
コム人対談
二木麻里さん

Part1 インターネット草創期に始めた情報の整理箱

 速い流れはニュースソース、ゆっくりとした流れはアーカイブ

Part2 やはり残る人と人とのコミュニケーション

 パワーサーチからこぼれ落ちるもの

Part3 サイバーリテラシーと情報倫理

 ネットは人びとの意識を先鋭的に反映する
 メタフィジックな倫理観と具体的な対処の仕方



Part2 やはり残る人と人とのコミュニケーション

矢野

MLに参加しているのはどういう方々ですか。

二木

さまざまな方です。このMLはゆるやかに運営しており、参加者に本名や社会的地位を明示することを求めていませんが、発言の際にご自分から伝えてくださる方も多く、それによると学術研究者、大学院生、大学生、会社員、主婦の方などでしょうか。性別で考えた場合、最初は男性が多かったのですが、99年ごろから女性が少しずつ増えて、いまは女性が3割ほどではないかと思います。
発言する方もされない方もいますが、発言されない方のプレザンス(存在感)も確実にあって、場の空気が大きく動いたときに、支持層あるいは批判層として現れてきます。そういう、表には出ないダイナミズムは重要だと思います。日頃の発言者は全体の10分の1以下でも、まったく違うトピックスが出てくると、それまで登場されなかった方が発言することもあります。
MLでは、何の話をするかとくに決めていません。97年に立ち上げたので、比較的長いのですが、テーマはインターネット関係の学術情報などをベースにしています。しかし、本や国際紛争の話など、思いがけない話題が出てくるのが私も楽しいのです。
実名を名乗ることをルールとしていないのは、私たちが日常でも事実上は匿名で暮らしているからです。匿名という言葉自体に否定的な響きがあるので、あまり好きではありませんが、わざわざ名前や身分を名乗らなくても、正常で実りのあるコミュニケーションを築くことはできると思います。むしろその方が自然な第一歩ではないか。私自身、一度も会ったことがない親友をネットをつうじて得ました。

矢野

インターネットでは匿名性がよく議論されます。匿名だからこそ何でも自由に書けるということでにぎわっているサイトもあります。ジャンル別の掲示板を集めた「2ちゃんねる」などが代表ですね。それはそれで意味があると思いますが、一方で例の「ニフティ訴訟」の関係者がまとめた『反論』(光芒社)という本では、匿名こそネットにおけるコミュニケーションの基本だと主張しています。社会的地位や年齢、性別などによって発言を判断するのではなく、発言は発言内容そのものによって判断されるべきだという意見です。

二木

責任ある発言とそうでないものを分ける基準は、実名性ではないと思います。実際、社会的に重きをおかれる立場の人が無責任で暴力的な発言をすることも社会ではよくあります。国会答弁などすごいでしょう(笑)。責任と実名性は分けて考えるべきなのに、しばしば混同されている。その危険の方が大きいと思います。
例えば、メールアドレスの種類によって参加者を排除するMLがありますね。無料で利用できるアドレス、いわゆるフリーアドレスを「匿名アドレス」と呼んで、そのアドレスでの登録を認めないのです。十分な理由が明記されていればいいのですが、そうでなく漠然と特定のアドレスを排除する場合、いわゆる「魔女狩り」につながる危険があります。
アリアドネのMLではもちろんフリーアドレスの方もいます。私自身、仕事用、ニュース受信用、ショッピング用など、十数種類のアドレスを使っており、フリーアドレスも使います。発言量の多い軽いMLのメールを仕事用のアドレスで受信すると、急ぎの通信に見落としが出たりします。さまざまなアドレスを使いわけるのは当然だと思います。

矢野

アリアドネというサイトについて、利用者やMLメンバーの反響はどうですか。

二木

それぞれの方が思い思いに使ってくださっているようです。「リソースをもらって再編集をしたい」という問い合わせをいただいたこともあります。アリアドネの名前をソースとして出してくだされば好きにしていただいてけっこうですとお答えしました。面白い使い方だと思います。一つの枠組みを利用しながら自分自身のものを作りたい、自由に発展させたいと思うのは自然だし、愉快ですね。
それから、「サブディレクトリーにリンクを張っていいか」という問い合わせを受けます。私はリンクのルールについて、長らく何も記述していませんでした。リンクは当然だと思ってきたからです。「リンクフリー」と記述するのは両義的で、ある意味では誤解も生まれます。リンクをするからインターネットとして成立するのであって、リンクはインターネットの定義に入っていると考えています。

矢野

リンクについても、匿名同様いろんな議論がありました。クイズのサイトでいきなり答にリンクを張られては、制作者も面白くない。しかし検索エンジンなどは、そんなマナーなどお構いなしに、いきなり必要な情報を引っ張り出す。そのヒット率が高いほど評価されるわけです。
こうなると、リンクのマナーを主張するのは無理ではないかと、最近では思うこともあるのですが、いかがですか。

二木

テクノロジカルな可能性とソーシャルな相互理解を分けて考える必要があると思います。例えば推理小説で「冒頭から順に読んでほしい」と作者がお願いを書いても、読み方はやはり読者にまかされているわけです。ですが、きっとその言葉を尊重して冒頭から読む方も大勢あるでしょう。ですから、書くことは決して無駄ではないと思います。私も発信者のリクエストは尊重します。ただ、必ずしもすべて守っているわけではありません。官公庁のサイトなどで、リンクをしたら知らせるようにと書いてあると噴き出しそうになります。最終的な判断はリンクをする側の責任で行うしかないと思います。

矢野

例えば検索サイトGoogleが提供しているGoogleニュースは、イラク戦争などでも威力を発揮し、あらゆるオンライン上のニュースを見る上で役立ちました。「イラク」、「生物化学兵器」などとキーワードを打ち込むと、世界各国の最新ニュースが、更新の新しいものからずらりと並ぶ。新聞のようにある種の価値判断のもとに提供されるのとはまた違う、多面的な情報が入手できる。これはインターネットのすばらしい機能の一つです。
今回の戦争では、とくにアメリカのマスメディアの論調が好戦的だったこともあって、アメリカ人の中には他国の、例えば「アルジャジーラ」のニュースを読んだりした人もけっこういたようです。Googleニュースのように、ネット上にあれば何でも取り出してくるという情報提供の仕方は、誰も考えなかった新しいニュースのあり方だと思いました。

二木

あの強力でグローバルなサーチパワーはネットならではですね。その一方、強い力の前で繊細な、パーソナルな要素も充分に生きてくる。それは、サイトを見るのが人間だからです。人と人とのコミュニケーションはやはり残る。検索サイトでいきなりクイズの解答ページが出てきたとしても、サイトに記した1行の「お願い」が無効になるとは思いません。両方同時に成立していると思います。

パワーサーチからこぼれ落ちるもの

矢野

Googleニュースのようなニュースサイトについてどう思われますか。

二木

非常に強力なメディアだと思いますし、わたしは好きです。一方で、そこから落ちるものが何かということを私たちは知る必要があると思います。Googleなどの仕組みでは、よりヒットするサイトがより上位にランクされる。こうした仕組みを理解し、そこに出てこない情報が何かを自分自身で判断しなければなりません。必要に応じて、自分で複数のソースを探しに行き、つきあわせて内容を比較できるスキルが必要です。
報道の場合でいえば、強力なサーチエンジンでは上位にこないマイナーでローカルな情報をどう拾ってくるのかが大切です。サーチエンジンでは、ある分野、ある言語のサイトの中で、もっともヒットの多いものから順番に表示されます。しかし、それが情報のクオリティーを反映しているわけではありません。
Googleがこころみたのも、そのクオリティーをどのようにサーチエンジンに反映させるかということでした。基本となるような重要なサイトにあらかじめポイントを与えておいて、例えば100点のサイトからリンクされていれば50点が自動的に加算されるという手法を生み出しました。そういう形で、Googleと各サイトの相互言及関係ができあがっていくのです。
そこでこぼれ落ちたものをどう拾えばいいのかという課題の解決法として、個人がセレクトした情報、もう一つはある領域における専門的な組織がセレクトしている情報を直接参考にする手段はまだ有効だと思います。ごく専門的なサイトはヒット数と結びついておらず、クオリティーとクオンティティー(量)が乖離している。そこは自分の目で評価する必要があります。
その目を養うには、情報を相対化して比較するアプローチが有効です。その定点を自分の中でどう作っていくのかが重要ですね。

矢野

なるほど。Googleニュースを見たときのぼく自身の驚きは、機械的に集めてくるロボットの力でしたが、Googleも信頼度の高いサイトへのリンクにポイントを与えるという手法によって、結果的には一定の価値判断を持ち込んでいると。そこで落ちてしまう情報を考える必要がある。さらにいえば、デジタル化されていない、あるいはデジタル化できない情報もあるはずだ。それらに対する想像力も必要だということですね。

二木

まったくその通りです。

矢野

デジタル情報をあれほど集めている一方で、こぼれ落ちる情報の重要性を考えておられるのがすばらしい。ところで、インターネットにおける検索サイト、検索エンジンの歴史は興味深いですね。
二木 Yahoo!で特徴的だと思うのは、もともと大学院生が作ったため、学術的な分類の発想でインターネットの情報を捉えたということです。ごく自然に図書館分類に近いものになり、それが日本にもそっくり持ち込まれました。作った人たちは必ずしも意識していたわけではないかもしれませんが、その分類が彼らの発想にとってもっとも自然だったのでしょう。
Yahoo!の後、さまざまな検索エンジンが登場しました。検索ロボットも発達しましたが、Yahoo!がなくならなかったのは、伝統的な情報分類の系統樹に新しいデジタル的な発想が重なったあり方と、人が情報を選ぶという手法が利用者に受け入れられたからだと思います。
検索サイトの第1期がYahoo!なら、第2期は汎用ロボットに検索機能を組み合わせた時代、それからロボットとディレクトリー(分野別にツリー構造で情報を表示すること)を何とかして融合させようとした時期、そしてGoogleの登場になるでしょう。
インターネットはグローバルなクモの巣であるといわれていますが、Google以前、実際は各言語・各分野に分かれて検索されていました。ところがGoogleでは多言語認識が可能になり、世界中の30億以上のページを網羅するようになりました。それまでとは違う規模のグローバリティーが実現したわけです。
興味深いのは、それほどの機能を持っているにもかかわらず、GoogleとYahoo!が互いに提携しているということですね。簡単にどこかが他を淘汰するという図式にならない多層性はインターネット的です。

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Part3 「サイバーリテラシーと情報倫理」
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