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かしこい生き方を考える COMZINE BACK NUMBER
インターネットという「迷宮」の案内役:二木麻里さん
コム人対談
二木麻里さん

Part1 インターネット草創期に始めた情報の整理箱

 速い流れはニュースソース、ゆっくりとした流れはアーカイブ

Part2 やはり残る人と人とのコミュニケーション

 パワーサーチからこぼれ落ちるもの

Part3 サイバーリテラシーと情報倫理

 ネットは人びとの意識を先鋭的に反映する
 メタフィジックな倫理観と具体的な対処の仕方



Part3 サイバーリテラシーと情報倫理

矢野

これまで情報というものは、マスメディアが集め、その責任で取捨選択し、価値判断を加えて読者に届ける、読者はそれを受け取るだけで、情報の送り手と受け手の役割が明確でした。それゆえにマスメディアの社会的責任も問われたわけです。
ところがいまやインターネットというパーソナルメディアを使って、誰もが自由に情報を発信できる時代になった。僕はこれを「総メディア社会の到来」と位置づけています。これはすばらしいことですが、一方で情報の信頼性をどう考えるか、その際の自己責任ということが重要になってきました。
具体的な例に沿って、ご意見をうかがいたいと思います。
一つが、二木さんのところにも送られてきたかもしれませんが、米英両国による単独イラク攻撃を回避するための署名を集めるチェーンメールです。
急を要するので、文面をコピーして「知っている限りの人に送ってください」と書いてあって、「500名以上の署名を受け取ったときは次の2つのアドレス(国連とホワイトハウス)にそのコピーをお送りください」とある。ちょっと考えればチェーンメールだとわかるのですが、切迫した状況下で、これを信じた人が結構いたようです。
もう一つは、やはりイラク戦争がらみで、あるMLに流れた「ナタリー・メインズからの謝罪文」です。カントリーバンド「ディキシー・チックス」のボーカリストが英国講演で「ブッシュ大統領が、自分たちと同じテキサス州出身なのが恥ずかしい」と言ったために、米国各地のラジオ局はバンドの曲を流すのをやめ、CDを踏みつけ、トラクターで押しつぶした。そのためボーカリストが謝罪したという事件がありましたが、その謝罪文なるものが翻訳グループ有志によって翻訳され、私も参加するメーリングリストに投稿されました。その内容が実にしゃれていて、謝罪という形をとりながら、実際には戦争推進者たちを痛烈に皮肉っているんです。
その前に映画のアカデミー賞授賞式でブッシュ大統領を「Shame on you!!」(恥を知れ)と激しく非難した映画作家マイケル・ムーアの文章も同グループによって翻訳されており、そこには「政治的な発言をすればひどい目にあう、カネも職も失うことになると脅されたが、映画の観客動員数も、ビデオの販売本数も逆に増えて、ちっとも困っちゃいない。アメリカ国民が私を支持してくれている」という趣旨のことが書いてあった。日本では過激な意見を表明すると、面と向かっては何も批判されなくても、なんとなく干されるようなことが起こりがちだが、ムーアは恐縮する様子もない。ムーアの原稿にはディキシー・チックスのCDもよく売れていると書いてあった。さすがはアメリカ、骨っぽい人びとがいるし、それらの人を支持する社会基盤もあると思って、MLに「ナタリー・メインズからの謝罪文」には感心したと書いたら、これが実はパロディーだった(笑)。

二木

偽物だったわけですね。矢野さんでもそういうことが起きるのですか。

矢野

自ら提唱する「サイバーリテラシー」の教材を自作自演したようで、情けない話です(笑)。

二木

情報は伝えられるうちに新しい文脈が作られていきますね。とくにそれを中継している人たちが本物と信じている場合、その緊迫感が文面に出て、ますます迫真性を帯びていくことがあります。受信側が混乱するのは無理もありません。

矢野

なぜだまされたか(?)といえば、まず作品がよくできていたので、ぼくが喜びすぎたこと。そして訳者もこれを信じていたことです。もう一つはその前にマイケル・ムーアの文章を読んでいたこと。さらにいえば、信頼のおけるMLでの話だったことですね。情けないことに、この謝罪文がパロディーだということは、ぼくが投稿する以前にすでに指摘されていた。原典にはきちんと「これはパロディーです」と書いてあったのだが、訳者が原典を確認していなかった。ディキシー・チックスのホームページには、短い本当の謝罪文が掲載されています。
翻訳グループの説明によると、原文がアメリカの独立系メディアの、これもやはり信頼できる人から送られてきたため、信じてしまったというんです。この翻訳グループではおもしろい原稿をプールして、分担して訳しているので、結果的にだれも原典に当たっていなかった。チェック機能が作業プロセスに組み込まれているマスメディアでは、まずこういうことは起きないですね。
二木 結局、真偽をどこで判断できるのかはむずかしいですね。よくわかりませんが、一つには数をこなすしかないと思います。私自身はこれまでいくつかのMLの運営に関わってきたこともあり、おそらく数十万通はメールを読んできました。メディア論について教えている方から私信でチェーンメールが届いたこともあります。そのときも転送者は全員、内容を信じていました。ウィルス感染の警告をするデマメールでしたが、重要な問題だからまっさきに伝えなければならない、と全員が考えたわけです。人の善意や使命感を悪用するのです。
最近来たのは、債務代行会社を騙るメールでした。「あなたのアクセスしたサイト(ポルノサイトのこと)から債務の取り立てを代行しており、何度も催促したがまだ振り込まれていない。何日までに振り込まないと訴える」といった内容で、これだけならよくある詐欺メールなのですが、ややこしかったのは、その偽の債務代行会社の隠れ蓑として電話番号を悪用された会社があって、そこがさまざまなところに「当社は関係ない」と並行してメールを送っていた点です。両方とも緊迫した文面で、いったいどちらが本物なのか、思わず読み返しました。複数のソースをつきあわせて判断することが重要ですね。それでかなり回避できますが、やはり初めて来たら慌てるのがふつうだと思います。

ネットは人びとの意識を先鋭的に反映する

二木

私から見ると、矢野さんは逆にメジャーメディアの世界にあまりにも慣れていらっしゃるように思えます。というのも私にとってインターネットで流れてくるものは、とくにメールは“日常”の一部なので、常に口コミだという感覚がしみこんでいるんです。と、思わずわかったようなことをいっていますが、かんちがいもしょっちゅう(笑)。天然ボケの日常です。

矢野

チェーンメールについては、こんなふうにも考えるんですね。このメールを私に送ってきたジャーナリストの先輩からその後、謝罪のメールが来ました。「実害はないが、効果もない」とあった後に、「これからはこういうメールが来ても考えてしまいますね。そういう意味では実害があるかもしれません」と書いてあった。素朴に善意を信じることはできないというわけですね。

二木

素朴に信じてはいけません(笑)。

矢野

別のMLに「立派なジャーナリストもチェーンメールにだまされた」と書いたら、ある人が「チェーンメールはコンピュータウイルスのようなもので、善意だから従えと強要すること自体がおかしい。そのメールを転送したことで何かいいことをした気になるのもおかしい。現実にデモや署名活動を行うこととは違う」と書いていました。メールの転送で少しばかり反戦活動をした気になったとすれば、それは現実世界を生きるエネルギーがインターネットという“ブラックホール”に吸収されてしまうことでもありますね。

二木

現実の中でも徒労や思い違い、ねじ曲がりは起きます。問題はネットが身体性をもたないだけに、拡散性が強力だということですね。実害に結びつきにくいということは、安全である代わりに、簡単にどこかへ失われてしまうものもある。結局、文章だけですべて作られている言語空間で、私たちにどういう判断が可能なのだろうかと自分でも考えてしまいます。ウィルス関連の情報であれば、メールで情報を得ないことを徹底したうえでワクチンソフトの開発企業などによるデータベースを複数参照すれば判断がつきます(メールはウィルス情報の伝達にはぜったいに避けるべきメディアです)。でも新しいことはつぎつぎ起きてきます。
判断力を養うには技術的な知識も必要です。例えば、最近のウイルスは発信アドレスを偽るものが主流です。ですがワクチンソフトが完全には対応しきれていません。というのもウイルスに対するアラート(警告)プログラムがワクチンソフトに組み込まれている場合が多く、これは見せかけの発信者に対してアラートを返すからです。すると、アドレスを使われた被害者に対してアラートが集中し、二次被害を引き起こしてしまいます。

矢野

ぼくはいま明治大学法学部で「サイバーリテラシーと情報倫理」という講義をしていて、いまのメールの話は、講義材料として使ったものです。チェーンメールの方は、現実空間で生きることとサイバースペースの中の行為はどう違うのか、2番目は自分の失敗談として、インターネットという情報空間では自己責任が原則であるという話の枕として使ったんですね。

二木

それは勇敢ですね(笑)。

矢野

これぞ実践(?)教育(笑)。

メタフィジックな倫理観と具体的な対処の仕方

二木

基本的なリテラシーは、疑似空間の身体性をつうじて具体的に伝える方がいいと思います。メタフィジック(形而上)な理解はそこから出てくるのではないでしょうか。
私たちがしつけを受けるときは、抽象的なことも言われると同時に具体的なことで叱られます。きわめて具体的な判断の累積で身につく、身体感覚のようなものですね。倫理性は、まず局面ごとの判断として親や周囲から教わっている。サイバー空間の中でも同じような具体的累積が必要だし、有効だと思います。
メタフィジックな倫理観と具体的な対処の仕方という両方が必要です。子どもたちにも、最初は「これはこうするものだ」と提示するしかない。最初はわからないままそう振る舞っていることが多いのですが、それでいいと思います。
メールの引用にしても、きちんとルールにのっとれば、引用・転載は充分可能ですが、わからなければ不必要におびえることになる。これはリテラシーの問題と直結すると思います。

矢野

昔からあるような「○○読本」といった具体的なガイドが必要かもしれません。一時、ネットとエチケットを掛け合わせた“ネチケット”ということがよく言われましたが、もう少しサイバー空間の生き方そのものを考えるべきでしょうね。それがぼくのいうサイバーリテラシーの基本テーマでもあります。

二木

サイバーリテラシーは、じつは現実世界の生活感と密接に結びついているのだと思います。例えば、人からもらった手紙を本人に断りなく他の人に見せていいのか、悪いのか。もし、子どもたちがデジタル以前の現実世界での経験や判断力をまだ持っていないなら、いきなりサイバー空間について教育を始めて、デジタルの世界で学んだことを現実に応用すればいいのではないかと最近思うようになりました。仮想空間は身体を投影しつつ作り出される。決して、身体性から脱しきれないのです。

矢野

たしかにしつけは身体の問題ですが、デジタル空間ならではの特徴はありますか。

二木

変化が速いこと。技術の進展で2年ほど経つとルールが通用しなくなったりしますね。例えば以前は長すぎるメールや日本語のサブジェクト(メールのタイトル)はタブーでした。

矢野

ネットワークのトラフィック(交通量)を節約しろと。

二木

URLの最後に「/」(スラッシュ)をつけるのも基本でした。つけないと1つのスラッシュを確認するためにワンパス(往復)が使われ、トラフィックが無駄に増えるためです。いまはブロードバンドが普及して、トラフィック上はほとんど実質的な問題ではなくなっていますが、それでもサーバー側の処理容量には影響します。私はいまでもスラッシュを入れる方がエレガントだと思っているんです(笑)。電車の中でたくさん席が空いていても、なんとなく一人分のスペースでおさまるよう座るじゃないですか。うまくいえませんが、そういう感覚に近いと思います。

矢野

子どものころに身についたしつけで、これまで世の中がうまく回ってきた。メールもリプライ(返信)が続きすぎると、適当に削るのが常識だった。だが、それを気にしない人もいます。しかし、それは何か美しくないですね。

二木

面白い発想が出てくる面もあるでしょうが、技術的な理由や慣例を知った上で判断する必要がありますね。全文引用して返信するのは基本的に商取引や契約のやりとりです。ルールを支える感覚は、モラルも含めて総合的なものですね。
共同社会を築く上では、倫理やルールが必要です。トラブルが起きてルールが破たんし、対応を考えることも含め、いま、その模索をしている段階といえます。たとえば自分が出したメールは自分の意志にかかわらずどこかに無断転送されるかもしれない。技術的にそれが可能であることは知っている。しかし、そうしてほしくないし、自分はしない。ですが状況によっては、あえてそうすることもある。タブーだと知っている、ということがまず肝心だと思いますが、この倫理観やルールはきわめて微妙で繊細なものが要求されますね。決してデジタルだからこれまでとまったく違うということではないと思います。
例えば9.11のテロのときに、さまざまな情報が転載されてインターネット上を駆けめぐりました。そこには間違いも危険も入り込みますが、そのリスクを承知の上であえて転送した場合もある。何が悪いかを知っていて、それでも自己責任で実行するわけです。赤信号だけれど、いま渡る必要があると判断すれば自分の責任で渡るようなものです。
いっぽうで私自身、旧来の法律に限界を感じる部分がたくさんあります。自己責任がますます重くなっていく。今後は言語の能力、つまり文章としていかに相手に伝えられるかが重要な課題ですね。いまはかつてないほど人々が文章を書いています。自分でも言語の力と怖さを認識しなければいけないと思います。

矢野

引用をすることに対して、どういうやり方で、どこまでならいいのか、それを教えるのは難しいですね。

二木

難しいです。が、基本線は引けると思います。原文を複写したら、当然出典を記す。時には多くのサイトからさまざまな引用をして、コラージュのように一つの作品を作り上げることもありうるでしょう。でもクレジットはいれないと(笑)。

矢野

実は、サイバーリテラシーでは、そうした具体的なしつけも含めて、これからの日本人の生き方そのものを考えたいと思っているのです。大テーマですが……。

二木

デジタル化は危険もあるいっぽう、1つのチャンスでもありますね。

矢野

そうですね。本日は興味深いお話をずいぶんたくさん聞かせていただきました。サイバーリテラシーに関して、貴重なご意見もお伺いしました。どうもありがとうございました。

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撮影/岡田明彦 Top of the page

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