一覧に戻る
COMZINE BACK NUMBER
未来をよりよいものにするガイドライン情報社会論の新たな枠組みを模索する:東浩紀さん
コム人対談
東浩紀さん

Parat1 「情報社会の倫理と設計」プロジェクト

まず20代と30代の仲間で議論

Part2 ネットとブログで再生したコミュニティ

ネット上にない情報は存在しないも同然

Part3 現代の権力は「環境管理型」に変化

言論の統制は政治以外で起きる



Part2 ネットとブログで再生したコミュニティ

矢野

東さんはウエブページで様々な論考を発表し、ブログも使っておられます。ブログはインターネットによる個人の情報発信を簡略化し、一方で機能を拡大したことで、飛躍的に普及しています。ブログが果たす役割はますます大きくなっていくと思いますが……。

ブログの全体状況はよくわからないのですが、関連した話をしますと、僕は、インターネットが世の中に普及する前に学生時代を終えた最後の世代だと思っています。昔は文壇や論壇という場があって、文壇バーなどで議論が交わされていたそうですが、いまはほとんど聞かなくなった。とくにマルクス主義の崩壊以降は人文系の人間たちはタコツボ化していて、議論を交わすことなどほとんどありません。僕も大学院時代は非常に孤独でした。
 それに比べて今は圧倒的に状況が変わっています。今回、isedに集まってもらった人たちにも、インターネットがなかったらほとんど出会う機会がなかった。同じ大学院にいた北田暁大さん(東京大学大学院情報学環助教授)ですら会ったことがなくて、最初はメールで連絡し合ったんです。メールアドレスがわかったのも、北田さんがホームページを作っていたからです。出版メディアや大学などがもっていた求心力は低下してきたが、それでも同じような関心をもっている人びとと議論や意見交換をしたい。しかし、そのためのメディアがなくて、効率の悪い時期が10年ほど続いていました。それがインターネットやブログの登場で隙間が埋められつつある。知的好奇心をもった学生の動きは空白の10年間時代と比べるとずいぶん変わってきた。ある意味では、その前の昔の状態に戻りつつあると思います。

矢野

なるほど。インターネットが登場してきたことで、個人がばらばらになっていた状態が改善されたというのは興味深いですねえ。

僕は94年に大学を卒業した団塊ジュニアの上の方の世代です。99年に大学院を修了しましたが、その間、話の合う人間を見つけるのは大変でした。大学の社会は「島宇宙化」してタコツボのようになっていた。共通の話題を持った人間をどのように探したらいいのかのノウハウが80年代以降崩れていたんです。人々が同じ雑誌や本を読むことがなくなった時代に、僕は20代を過ごしています。それから比べると、今の学生はずいぶん恵まれています。関心のある本のタイトルをインターネットで検索すれば、誰かがきっと同じ本を読み、感想を書いているからです。
 僕の推測ですが、高度消費社会の前は、文化的産物もメディアが報道する事件も限られていたので、周囲の人間と話が合うことが逆に多かったのではないでしょうか。テレビの連ドラ(連続ドラマ)やプロ野球中継の視聴率は80年代から90年代にかけて下がっていると聞きます。クラスの中で皆が共通して見ている番組や読んでいる本は、80年代から急速になくなっていった。社会が人びとに与えるものは少量多品種になり、様々な選択肢が投入される一方、個人はバラバラに選んでいるので、横の連絡がしにくくなった。それで同世代の人間の話が合わなくなったのではないか。そうなると自分の中に閉じこもるしかないというのが、90年代の状況だったと思います。
 ところがインターネットの登場によって、そうした状態があっさりと解消されてしまった。インターネットはシステム的に小さなコミュニティをたくさん作り出せるので、人びとが連帯できるようになった。これは知的生産性を高めるものだと思います。僕はいま33歳ですが、正直言って、僕の世代はダメで、言論人などもほとんど出てこないし、世代的な連帯もない。共通の問題意識をもっている実感もない。それに、若いころから似たような関心をもっている人間と話し合う経験を積んでいないので、言論の技術もない。それに比べてインターネットやブログを前提として育っていく人たちは、議論する技術などもかなり鍛えられるのではないでしょうか。その点では未来は明るいと思っています。

ネット上にない情報は存在しないも同然

矢野

isedに集まったメンバーはそれぞれ優秀な人材だと思いますが、よく集められましたね。

インターネットがなければ知り合えなかった人たちばかりです。その意味では、逆に、僕にとって出版メディアがいかに意味がなくなっているかを示している。このisedを作るにあたって、出版メディア上で面白い人を探そうという発想そのものがなかった(笑)。

矢野

東さんの発行している『波状言論』には詳細な注がついているが、すべてネットの引用ですね。出版メディアはほとんど載っていない。出版メディアを参照する必要を感じないということですか。

感じなくなりつつあります。僕自身は本を読んでいる方ですが、isedの議事録をインターネット上でまず公開するというのも、いまは、情報がネット上にないと、存在しないと同じになってしまうという認識だからです。読者層にもよるかもしれませんが、僕の年齢の前後10歳ほどをターゲットと考えると、彼らはまずグーグル(インターネットの検索サイト)で探す人たち。いわゆる「ググる人たち」だと思うんです。それを前提に動いています。

矢野

僕らとはまるで違う世代だということを実感しますね。あるオーストラリア人がブログでこんな話を書いていました。イラクの武装勢力に拉致された友人のジャーナリストが、自分はアメリカのやり方を支持していないし、実際にそういう記事を書いていると主張した。それじゃグーグルで検索しようということになって、実際に記事を読むとたしかにその通りだったので、解放されたというんですね。これには驚きました。

さすがグーグルですね(笑)。年号や人名をネット上で調べるのは正確さの点で危ないこともありますが、複数のサイトでクロスチェックすると、だいたい正しい情報になりますね。

矢野

『ウィキペディア (Wikipedia)』を見ると、まず知っている人がある項目の解説を書き、その間違いに気づいた人や補足したい人が加筆修正していくことで、膨大なネット上の百科事典が出来上がっている。イラクの捕虜虐待事件の詳細を知りたいと思ってウィキペディアを調べたら、事件の詳細な顛末が整理されていました。梅田さんがいう「不特定多数への信頼感」ということと関係があるでしょうね。その一方で、いい加減な情報もあり、もはや紙だからネットだからという問題ではなく、主体的に判断すべきだと思います。しかし、こうしたネットの世界を知らない人たちも大勢います。

昔から大多数の人たちはあまり活字を読まないし、自分から情報を集めることにさほど熱心ではありません。これは今後もあまり変わらないと思うんです。問題は、いま教養層や知識人、官僚や政策決定に関わる人たちも、ネットに頼るようになっていることです。ウエブと現実の政治、経済、文化の動きは明らかに循環を起こし始めており、それがわからないと見えないことが多くなってきた。イラクの人質事件をめぐるネットの盛り上がりもそうだと思います。

矢野

ブログというのは個人が直接、社会に向けて情報発信し、それに対して返信があるというのが特徴ですね。ところが、「はてな」などもそうですが、日本のブログは議論を交わすというよりも集合住宅の心地よさを求めて、同じテーマで集まった人たちが閉鎖的な安心感の中で落ち着こうとする傾向が強い。歴史学者の阿部謹也さんがいう「世間」がそこにあるわけです。日記は全世界に公開されていても、実際には仲間内のコミュニケーションを楽しむだけといったのが多いですね。2ちゃんねるも一種の閉鎖空間での話し合いです。これは欧米的なネットのあり方とはだいぶ違います。

おっしゃる通りです。僕の周辺では2ちゃんねるから「はてな」に流れ、いまかなりの人間がソーシャル・ネットワーク・サービスの「ミクシィ」(登録者からの紹介がないと利用できない。出会い系サイトに対して「知り合い系サイト」とも呼ばれる。実名が基本)に移動しています。ミクシィでは日記を公開する階層の設定ができるので、友だちだけが日記を見られます。プライベートな書きなぐりのようなものをぐるぐる回している人たちがいっぱいいますね。僕自身はあまり関心がないのですが、周囲では驚くほど多くの人が登録しています。
 ミクシィでは相手のページに飛ぶと、自分の足跡が残る仕組みになっています。つまり誰が来たかわかるわけです。そして実名が基本なので、まさに矢野さんのおっしゃる「世間」そのものです。そこがいま、若い人に一番人気がある。それは日本のインターネットの一つの形じゃないかと思います。僕としてはそこまで閉じこもるのは面白くないので、「はてな」程度がいいかなと。
 「はてな」はハンドル名を使うので、まだ偽名性がある。これに対して、ミクシィはリアルワールドと密接につながっていて、中には仲間と一緒に仕事をしている人もいます。また「はてな」はキーワード単位でまとめられているのに対して、ミクシィは人単位。「この人の日記を読みたい」という閉鎖性が強いですね。

矢野

アメリカでソーシャル・ネットワーク・サービスの「meetup.com」が登場したとき、僕はいわゆる出会い系サイトが、現実世界と関係を絶ったところに成立する好ましくない面があるのに対して、ソーシャル・ネットワーク・サービスは現実世界に足をつけた健全なコミュニケーションを促進するのではないかと思いました。現実との接点をもっていることが今後の倫理やネット上の新しい生き方を考える上で重要だと考えたのです。しかし、今の東さんのお話によると、ミクシィは新しい「世間」というか、かえって閉鎖的になる傾向があるようですね。

僕とすれば、すでに知っている人との関係をさらに深めても仕方がないんじゃないかと思います。知らない人間に出会う仕組みがミクシィにはないのに対して、「はてな」はキーワードリンクでどんどんいろいろな人の意見に飛んでいける。自分の関心に寄り添っていると、見知らぬ人の日記を読むことができる。そこが魅力なんです。

前のページに戻る
Part3 現代の権力は「環境管理型」に変化
Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]