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未来をよりよいものにするガイドライン情報社会論の新たな枠組みを模索する:東浩紀さん
コム人対談
東浩紀さん

Parat1 「情報社会の倫理と設計」プロジェクト

まず20代と30代の仲間で議論

Part2 ネットとブログで再生したコミュニティ

ネット上にない情報は存在しないも同然

Part3 現代の権力は「環境管理型」に変化

言論の統制は政治以外で起きる



Part3 現代の権力は「環境管理型」に変化

矢野

サンノゼ・マーキュリーニューズの技術コラムニストであるダン・ギルモアは『We the Media』という本で、新しいジャーナリズムの理論化を試みています。現在、草の根ジャーナリズム、市民ジャーナリズム、あるいは彼の言葉でいえばオープンソース・ジャーナリズムがマスメディアとは違う機能を持ちつつある。オープンソースの考えで言えば、マスメディアはヒエラルキー組織である“伽藍”で、草の根ジャーナリズムはネットワーク型の“バザール”、両者がよき補完関係を模索すべきだと彼は指摘していますが、こういう時代の「表現の自由」のあり方に僕は強い関心をもっています。
 これまで「表現の自由」は「報道機関の自由」でしたが、個人一人ひとりが「表現の自由」を行使する具体的手段を得たいま、「表現の自由」のあり方を再検討すべきだと思うわけです。マスメディアの地位は相対的に低下し、そこでのジャーナリズム性は著しく低下しているけれども、草の根ジャーナリズムがただちにその代替をできるかといえばこれも難しい。多くの人材と時間とおカネをかける調査報道などは個人では難しいからです。そういう時代に「表現の自由」の重要な機能である権力チェックは社会的にどのように担保されるかといったことですね。

 そこで興味深いのは、東さんが『自由を考える』(NHKブックス、2003)で指摘しておられる「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への権力構造の変化です。前者は「大きな物語の共有に基礎を置く」従来の権力で、「一人ひとりの内面に規範=規律を植えつける」が、後者は「人の行動を物理的に制限する」だけである。価値観の共有を基礎原理にする前者に対して、後者は多様な価値観の共存をむしろ認めている。環境管理型権力のもとでは、個人個人が好き勝手に行動しているつもりでも、実は権力側が個人単位で管理し、与える自由度も決めている。それを支えるのが個人認証やネットワーク、ユビキタス・コンピューティングなどの技術であると。

これまで「表現の自由」というと、「国家による統制」と「自由の闘士」との戦いのように考えられていましたが、いまや国家と市民の対立軸は意味がなくなっている。たとえば、あるブログが特定企業を告発あるいは誹謗中傷して、その企業がブログを閉鎖させるような事件が頻繁に起きているのに、これが「表現の自由」の侵害とはあまり言われない。報道機関だったら自分を守ることはできるが、個人がブログで企業を告発しても、企業に依頼された弁護士などの脅しでつぶされてしまう。
 個人情報保護法の審議でメディアが一斉に反発したのは、報道機関が政治家の汚職問題などを報道できなくなるという懸念があったからですが、その一方で、ある新聞は、2ちゃんねるの誹謗中傷を総務省が管理すべきだと主張していた。マスコミはこの矛盾に気づいていない。もはや自分たちだけを特別に免責してくれと言っても通用しない。なぜなら報道の機能が社会全体に分散してきたからです。ところが大手メディアは既得権益の問題に矮小化してしまう。
「表現の自由」を優先すれば、至る所で告発や誹謗中傷が起きる。仮に個人が悪徳商法を告発しようとしても企業はつぶしにかかる。実際、バイトなどを使ってネット上を探し回り、自社への不都合な記述を見つけると、相手に圧力をかけている企業もあります。告発サイトやブログつぶしの下請けをしている企業もあるらしい。結局、カネと人を持っているところが勝つ。弱者が強者に刃向かえる環境を作るのはなかなか難しい。
 そうなると、本当に重要だがリスキーなことを発表するのは出版しかないということになるのかもしれません。出版社にリスクをヘッジしてもらうということです。もし告発する相手から訴訟を起こされても守ってくれ、そのかわりに一定のコミッションを上げるよ、と。今後はそれが出版社の機能になるかもしれません。インターネットはどうしても個人に問題が降りかからざるを得ないですからね。いまはネットのほうが自由だという雰囲気がありますが、長期的に見ると、むしろ逆に真に重要なことは、インターネットでは書けなくなるのではないかと危惧しています。

言論の統制は政治以外で起きる

矢野

「出版」の新しい使命ということかな(笑)。既存マスメディアは新しいメディアとの補完関係を考えないといけないのですが、マスメディア側にはまだそういう認識がない。先日、あるシンポジウムで白田秀彰さんが発表した「統論と網論」(「統論」はマスメディア、「網論」はネットワークの言説)説が大変面白かった。近く『新聞研究』に掲載されるはずですが、彼はまさに両メディアの共存を提案しているんですね。「表現の自由」は日常的な危機に直面しているわけではないが、いつの間にかすべての人が真綿で首をくくられることになりかねない。

そうですね。政治家の汚職を暴くだけが言論ではないのですから。実はいま僕は、今後の「表現の自由」の最大の敵は「プライバシー」と「知的財産権」になると考えています。両者とも、特定の話題について公に語る権利は、特定の人間だけが持っているという考え方に基づいています。これはすでに、慣習としてはかなり認められている。たとえば、活字メディアでは著作権のある著作物でも引用を使った批評が許されているのに、映像や音楽は一切引用できない。つまり紹介宣伝はできても、批評はできないのです。これは単に知的財産権の問題ではなく、文化や表現の自由の問題でもあります。したがって、一方で知的財産権に対する管理を強化しようと言いながら、他方でネット上の「表現の自由」を守るというわけにはいかないのです。
 これまで「表現の自由」というと、イデオロギー対立の場面で、権力を持っている側が反対意見を封殺しようとする動きがあり、それに抵抗するのが「自由」だという狭いコンテクストで考えられてきました。しかし、権力側――という言い方ももはや無効になってきていますが――は、いまや、同じような効果をもたらすなら、いろいろな搦め手があることに気づいたのです。例えば著作権やプライバシー侵害で反対意見を封殺してもいい。いまや言論の管理はむしろそういう形になっています。
 現在の社会秩序は、価値観は多様でいいが、その多様な価値観を維持するためのインフラはみんなで守りましょう、という一種の二層構造になっています。そのため、インフラを脅かす人々、例えばフリーライダー(利益を享受して対価を支払わない者)やテロリストは徹底的に排除する。「様々なリスク管理をしないといけないので、みなさんも個人情報を渡してください」というのがいまの社会です。価値観のレイヤー(層)では共産主義でも軍国主義でも勝手にどうぞと。つまり、それは遊びのレベル、ネタのレベルにしかならないのです。現在、真に重要なことは、価値観に対して中立的な、インフラの層における情報の流れをいったい誰が管理しているのかということです。知的財産権やプライバシー、セキュリティなどの問題は、そこにこそ深く関わってきます。
 いままで政治は、価値観の対立と調整の場だと考えられてきました。しかし、いまもっとも重要な政治は、情報流通の管理だと思います。したがって、知的財産権やプライバシー、セキュリティなどの話題は、いま実は権力や資本の分け前にどうありつくかという激しい闘争の場になっているのです。それがわからないといまの権力は見えてきません。
 ところが新聞では、経済面や社会面にしかこういう話題は載らない。政治面には政治家の動向しか書いてない(笑)。実は政治面に出てこない問題が世界を動かす政治的論点になっていることが多いんです。

矢野

誰もがそうした認識をもつためにはどうしたらいいんでしょうか。

新聞から政治面を削った方がいいのではないですか(笑)。それは冗談にしても、政治とは何か、を決めているのは結局マスコミの枠組みであり、したがってその枠組みを変えていくことでずいぶん状況は変わると思います。
 米スタンフォード大学教授のローレンス・レッシグは『CODE』(翔泳社、2001)という本で規制を「法律」「規範」「市場」「アーキテクチャ」の4つに分けましたが、新聞は規範や法律に対しては政治面、市場は経済面、アーキテクチャにいたってはほとんど記事になることはありません。しかし、法律は社会を決める一つの要素にすぎない。たとえば、ウインドウズPCの導入が政治的問題だとは誰も思わない。しかしマイクロソフトのOSは90年代を通して全世界を制覇し、私企業でありながら大きな権力を持つにいたった。いまやマイクロソフトの動向が政治的効果を生むものであることは、だれもが認めると思います。同じように、今後の日本社会を誰が変えるのかというときに、決して永田町と霞ヶ関だけで決まっているわけではありません。
 isedに話を戻すと、これまでの情報社会論は政策(法律)とビジネス(市場)の話ばかりでしたが、isedではさらに技術(アーキテクチャ)と規範の視点を加えて議論を進めたいと思っています。規範とはライフスタイルと言い換えてもいいですが、情報社会が新しいライフスタイルを生み出し、それによって人々の意識も変わっていく。それがまた情報社会を変えていくわけです。いままでの情報社会の議論は総合的な視点を持っていないので、こうした4つの視点を均等に見渡す必要がある。
 つまり、e-JapanUもいいが、2ちゃんねるの話もする必要がある。その両方が重なったところに情報社会の像が浮かび上がってくると思います。当然、技術的なこともわかっていないといけません。

矢野

複雑な状況を分かりやすく見せる切り口や新しい概念を提示する必要がある。その一環としてのプロジェクトですね。

つけ加えれば、プロセスはいつもわかりにくく、結論はわかりやすい。インターネットに関する議論は学問的な形ができていないので、最初はマニアックな議論をせざるを得ませんが、最初からわかりやすい形を目指してはいけません。isedではインターネットのヘビーユーザーでも納得するクオリティを維持しながら、最後はわかりやすく発信していきたいと思っています。

いま必要なのは「概念の発明」

矢野

『自由を考える』にはもう一つ、素晴らしい発言がありました。「労働者が自分の労働力を売って対価をもらっている。何が悪いんだと言われたら悪いわけではない。この状況を『疎外』という概念でとらえ返すことで、マルクス主義が出てきたわけですよね。それは概念の発明です。今求められているのも、同じタイプの発明だと思うんです。個人情報を売って代価やサービスをもらう、個人情報を売って自由をもらう、そのどこがいけないのか。いけなくないんですよ。ただはっきりしているのは、にもかかわらず、これは何かが間違っているのではないかと、多くの人々が不安を抱いているということです。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない」と。
 僕はユビキタス・コンピューティングは限りなく監視社会に近いと思いますが、ユビキタス社会の便益を享受しつつ、監視社会は嫌だというのは無理です。そういう状況をトータルに理解して、その中でどう生きていくかを考えないといけない。そのときに問題状況を分かりやすく提示する概念がほしいわけですね。

ケータイも持たなければクレジットカードも持たず、自動改札機も通らないという、あるプライバシー運動家がいます。それはそれで立派なことですが、そういうライフスタイルを選ばなければ監視社会に抵抗できないとすると、誰も抵抗しなくなるでしょう。そうなるとスローフード運動のような一つの運動になってしまう。とにかく気に入らないから不便に耐えてもユビキタス社会に抵抗するというのは議論としては弱い。

矢野

個人でそういうライフスタイルを選択するのは自由だと思いますが、たとえ古代中国の「竹林の七賢」のように竹林の中で誰にも知られず琴を奏でていたいと思っても、監視衛星で写されてしまいますからねえ。サイバースペースの網から逃れる方法というのはやはり考えたい。村井純さんがICタグをめぐる国領二郎さんとの対談で「カバンの中に入れているものを知られたくないと思えば、カバン業界は、アルミ素材を使った『Auto-IDフリー』の新商品を開発すればいいわけです」と冗談まじりに話していました。たしかに音楽ホールにケータイの電波妨害シェルターを設置するなど、技術的なシェルターをつくるという手もある。また、自分の情報のデジタル化に対する拒否権を持つべきだと主張する人もいます。いま大事なのは既存の考え方を改善したり、てこ入れしたりするだけではダメで、ラディカルな発想の転換をしなければならないということだと思いますね。

監視社会について話をすると、「みんなが監視社会はいいと思っているのに、なぜ問題にするのか」とよく言われます。しかし、これは議論が逆さまになっている。問題は、「どうして僕たちはみな監視社会を欲望するようになってしまったのか」なのですね。
 これは具体的な話です。産業社会化が進んで、商品が物から「差異」になった、というのは一昔前よく言われた話です。しかし、いまや「不安」が商品にされている。たとえば、子どもにGPSを付けて居場所をチェックできるサービスが人気があると言われる。それはそうなのでしょう。しかし、企業側が何もしないのに保護者が集まって運動が起きたわけではない。広告宣伝で不安をあおり、その結果として作られたサービスなんです。その本質は、記号や差異が商品だ、と言われていた80年代の消費社会と変わらない。それは「赤い服より青い服が格好いい」という言説が人々の欲望を作り出していくように、いまは、「GPSがないよりある方が安心」という言説が人々の欲望を作り出している。言説を流してニーズを作り出し、そのニーズに応える形でサービスを提供する。監視カメラも1台より2台の方が安心でしょう、2台より3台の方がいいと、どんどん増えていく。いまや安心とリスクは新しい商品を生み出す道具になっています。
 したがって、僕は、単純に人々が監視社会がいいと言っているとは思わないのです。ウルリヒ・ベックが『危険社会』で指摘したように、僕たちは「リスク」をつねに意識しなければならない社会に生きている。それは言い換えれば、リスクが商品になる社会ということです。そのなかで監視が求められている。しかもその欲望はますます強化されている。その裏にあるのは、単純な資本の原理です。服のデザインより不安の方がおカネになるというだけのことです。昔は不安の商品化といえば保険業でしたが、いまはダイレクトな技術として不安をコントロールする製品やサービスができるようになった。そのためどんどん監視の密度が高くなっている。

矢野

奈良市の小学校1年生が誘拐殺害された事件では、ケータイが皮肉な役割を果たしました。子どもの安全のために持たせたケータイが、必ずしも防犯に結びつかなかったという例もありますしね。

そうなると今度は、電源を切ると自動的に連絡が入るようなGPSケータイサービスが開発されるのでしょうね。ケータイをもっていても誘拐されたのだから、セキュリティ・サービスは実は役立たないのではないか、という議論には繋がらない。不思議です。
 リスクの商品化といてば保険なのですが、保険といっても地震などの被災はカバーできないように、保険をかければ防げるリスクと防げないリスクがある。保険は集団でリスクをシェアして、ダメージをならすことが役割ですが、誘拐殺人といった危険に対して、子ども全員にケータイを持たせても何の保証にもならないでしょう。ケータイにはそうしたダメージを軽減する機能はない。リスクの商品化といったときに、実際にはリスク軽減効果がないものもあることを認識すべきです。言わば「リスクのリテラシー」が必要になるでしょう。
 いまや人々はみな監視されたがっているのだ、という粗っぽい話は、バブル期に広告代理店が「人々はみな差異を求めて」と言っていたのと同じ精度しかもたない。人々の欲望の現れは時代によって簡単に変わる。そして、人々の欲望をつねに全肯定するのは単純に思考停止です。宗教団体のつぼでも、買っている人は買いたいから買っている。だから仕方ないのだ、では何も議論は進まない。セキュリティへの欲望にもそれに近い部分がある。本当の意味で安心で安全な生活を望むのと、監視カメラやGPS商品に多額の金を投じるのは違うことなのだ、ということを明確にするべきだと思います。

矢野

なかなか鋭い分析ですね。isedのこれからの活動がいよいよ楽しみになってきました。今後のご活躍をお祈りします。本日はどうもありがとうございました。

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撮影/岡田明彦 Top of the page

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