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日本デザイン探訪~「今」に活きる日本の手技 益田文和

画像 大内塗雛人形Vol.47 大内塗雛人形の裏話 大内塗×大内人形

今から600年以上前の南北朝時代、「周防、長門、石見の三国」というから今の山口県から島根県に至る一帯を治めていた大内弘世(おおうちひろよ)は、京より迎えた姫がしきりと都を懐かしがるのを慰めるため、ホタルを京から取り寄せては放したり、人形を集めて人形御殿を作ったりしたという。

その流れをくむ大内人形に、この地で古くから刀の鞘(さや)や漆器などに用いられていた漆芸、大内塗を施したものは大正時代に生まれた。当時は丸っこい体にぽっこりと頭が付いた形をしていたのが、戦後、現在の球のような姿になったらしい。その大内塗・大内人形を生んだ桑原大内人形製作所を訪ねた。

JR山口線は2013年夏の集中豪雨で今も一部不通となったまま、SLやまぐち号の復活が待たれている。その山口線に山陽新幹線新山口駅で乗り換えて7駅ほど行くと山口駅に着く。独特の風格と風情が漂う駅前から並木道をしばらく歩き、道場門前商店街のアーケードを抜けて、ひょいと横町に入り、狭い路地をたどると大内人形の看板が見える。

誠にラジカルなデザインにして極めて風雅。何とも言いようのない表情を見せる漆の珠はその表面に周囲の全てを映し込む。今は雛人形として知られる大内人形だが、昭和初期まではもっぱら一体で飾られていたらしい。戦後、雛人形など手が届かなかった人々が大内人形を雛人形に見立てたことから、大内の殿様と姫君のむつまじい仲をしのぶ一対の内裏雛が生まれたという。
内裏雛が実は「代理」雛だったという話に、往時の世相がしのばれる。

桑原大内塗・大内人形製作所 http://www7.plala.or.jp/kuwabara/

画像 女雛の顔画像 男雛の装束画像 女雛の装束

益田文和(ますだ・ふみかず)プロフィール

1949年
東京生まれ。
1973年
東京造形大学デザイン学科卒業
1982年~88年
INDUSTRAL DESIGN 誌編集長を歴任
1989年
世界デザイン会議ICSID'89 NAGOYA実行委員
1991年
(株)オープンハウスを設立
1994年
国際デザインフェア'94 NAGOYAプロデューサー
1995年
Tennen Design '95 Kyotoを主催
現在
(株)オープンハウス代表取締役。近年は特にエコロジカルなデザインの研究と実践をテーマに活動している。
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