矢野 トロン・プロジェクトはたいへん壮大なプランですね。『TRONからの発想』を読んだときも感じましたが、こうしてお話をうかがっていても、その思いを新たにします。
 僕が『ASAHIパソコン』を創刊したのは1988年。「これからパソコンはだれもが使える便利なツールになる」と言っても、「個人のためのパーソナル・コンピュータ雑誌なんて売れるわけがない」とずいぶん言われたのを覚えています。そういう時代に坂村さんは、パソコンはコンピュータの機能の一部にすぎず、これからは「どこでもコンピュータ」の時代が来る、と言われた。パソコンですらなかなか理解されないときに、実に壮大なプロジェクトでした。
坂村 ほんと、世間には理解されなかったんです(笑)。
矢野 日本人の間尺に合わないぐらい大きかったのだと思いますね。
坂村 スケールが大き過ぎると、かえってよくないときもあります。
矢野 やっと時代が追いついてきたというか、ようやくユビキタス・コンピュータが広がりはじめた。トロンとの関係でいえば、待っていた時代がやってきた。
坂村 一見、いきなりのように見えるだけですよ。日本の携帯電話にはほとんどトロンが入っていますが、携帯電話だって10年以上前からあったし、研究開発をやっている人たちは一生懸命、地味な仕事をひたむきにやっていたわけです。
 しかし、組込みのエンジニアたちは表に出ることがないから、ある意味では浮かばれない存在です。だって、携帯電話はコンピュータが主役じゃなくて電話が主役ですし、車の中にもエンジンを制御するコンピュータが20個から30個入っていますが、これも自動車が主役です。パソコンの場合だけはコンピュータが主役だから、マイクロソフトやビル・ゲイツ氏が脚光を浴びるわけですね。組込みシステムをつくっているプロジェクトが話題になるなんてことはまずない。
矢野 縁の下の力持ちですね。主役じゃないから、トロン・プロジェクトに浮沈があるように言われたりした。
坂村 そうです。携帯電話がここ1年急速にブレイクして、年間で1億台以上も売れるようになった。パソコンが1千万台に満たないのに比べると、10倍以上になる。圧倒的な数のトロンが世に出回っていることを考えると、世の中に与えている影響は絶大です。
 携帯電話の普及で、みんなが「ケータイって、どうなっているんだろう」「構造はどうなっているのか」と思った。それでいろんなメディアが、こぞって「トロン復活論」を書くようになったんですね。そういうストーリーをつくっちゃうんだから、マスコミってひどいと思いますよ(笑)。僕らにしてみれば「死んで」ないのだから「復活」なんてとんでもない、ずっとやっていたんですよ。ずっとやっていたのに、やってなかったようにしたいわけ。
矢野 「トロン、坂村健の挫折と栄光」みたいに言いたい(笑)。
坂村 組込みシステムの開発って、ものすごく大変なんですよ。どうでもいいやと考えてやめていたら、今日はない。それこそ評判のNHK番組『プロジェクトX』のような、絶え間ない努力があった。まだ日本がつぶれてないのは、パソコンソフトみたいに派手さはないが、地道な努力をしてきたエンジニアの人たち、コンピュータの世界の町工場で黙々と働くような人たちが下支えしてきたんだと、僕は彼らの代弁をしたいですね。そういう人たちがいなかったら、日本の産業界はなかったんですから。
 なのにパソコンのシェアだけで、コンピュータはすべてアメリカに独占されているようなイメージがあって、元気がなくなっちゃうよ。
矢野 反省することが、多々ありますねえ(笑)。
坂村 最近になっていろんな方たちが、トロンが失敗したとかいうが、現にこうやっていろんなところに使われている、ひどいじゃないかと言い出してくださった。トロンを採用していることは、これまでどちらかというと秘密にされてきたんですが、例えばトヨタ車のエンジン制御はトロンを使っていると言ってもいいですよとなってきた。トヨタ自動車にも感謝しているんですけれど。
矢野 昔は公表したくないことだったんですか。
坂村 車だって、テレビだって、部品に何を使っているかなどは、ノウハウの領域ですから、普通は公表しません。あまりに見兼ねたのと、こういうものも重要なアピールポイントになる時代になったのでしょう。携帯電話やビデオカメラにトロンが使われていると公表されるようになり、人の目に触れるようになってきたんですね。
矢野 ユビキタス・コンピューティング時代を象徴するような話ですね。自動車なら自動車エンジンが主役、テレビならテレビ映像が主役、だけどそこに組み込まれたコンピュータがある。衣服にまでコンピュータが縫いこまれたりする時代の技術はみんな裏方ですよね。
坂村 そう、裏方。
矢野 それは日本にとって得意とする分野というか、日本人の性格に合っていますね。坂村さんが言っておられるように、ひょっとすると日本はユビキタスで勝てるかもしれない。 マイクロソフトのパソコンソフトのようなものは、どうも日本ではつくれない。だけど組込みコンピュータの世界で、例えば衣服に縫い込むときのちょっとした技術などは日本は非常に得意です。だから、ユビキタスになると日本の時代になる、日本が技術においてもう一回脚光を浴びる時代になる、と。
坂村 日本人は小ちゃくつくるとか、精密機械をつくるというようなことは得意なんですね。
矢野 伝統ですからね。
坂村 手先も器用だし、優秀だし。ある意味で僕はなかなか日本人は頑張っていると思うんです。日本の文化はどちらかというと「俺が、俺が」という文化でもないしね。いまのパソコンというのは、部品が主役になっているようなもので、だから使えないんですね。部品に主役になられたら、ちょっと使えない人たちが出てくるのは当然だと思います。
矢野 たしかにそうです。

坂村 パーソナル・コンピュータが抱えている問題点が、いま世界的に言われるようになりました。コンピュータ・サイエンスの反省として、例えばインビジブル・コンピューティングとか、カーム・コンピュータとか、いくつかの言葉が出ています。
 インビジブル(invisible)は、ぴったりの訳語が見当たらないのですが、透過的とか、見えなくなる、というようなこと。車はエンジン構造を知らなくてもみんな運転できているけれど、コンピュータはかなりわかっていないと使いこなすのが難しい。例えば「ネットからダウンロードしてパッチを当てて再起動」なんて言われたって、戸惑うだけでしょう。車の世界では、そんな話、聞いたことがない。そんなふうに、パソコンが使いにくいことへの反省が出はじめている。
 もう1つ、パソコンで何をしているかというと、だいたいブラウザを見て、メールを打って、ワープロで文章を書いているぐらいだと。それなのに、「2ギガヘルツのクロック周波数で動く超高速マシン」などが必要なんだろうか。そんなことよりもっと電力を少なくして、環境にやさしい静かなコンピュータはできないものだろうか。それがカーム・コンピュータ。カーム(Calm)とは、静かという意味です。そして何よりも、コンピュータが人間の注意を過度に求めない、意識しないでも利用できるものになってほしい、そういう目標がこの言葉には込められています。
 インビジブル。カーム。こういったキーワードが出てきて、そういうことを可能にするモデルとしてユビキタスが注目されているんですよ。
矢野 よく似た発想が、同時多発的に出てくるというのがおもしろいですね。ヨーロッパでは「消えるコンピュータ(disappearing computer)」と言っているようですね。
坂村 でも実は、アメリカでは軍主導のもとに、さまざまなユビキタス・コンピュータの研究が進んでいます。インターネットの発達そのものがそうですが、膨大な軍事予算が民間にも流れ込んで、さまざまな研究が進んでいます。
 例えば、わずか2、3ミリ角のチップに温度や湿度を感知するセンサーと太陽電池を搭載し、光通信できるようなコミュニケーションメカニズムを備えさせた「スマートダスト(賢いほこり)」という研究があります。戦場にまけば、いろんな情報を入手できるはずです。eテキスタイルというのは、洋服の布地を全部電子回路にしてしまう試みで、軍服の一部がアンテナや無線機になるし、草むらを腹這いになって行進するときは衣服全体が草色になります。
 日本ではトロン・プロジェクトを中心にあくまで民生目的で研究が進んでおり、パーソナル・コンピューティングからユビキタス・コンピューティングへの移行は、2005年から2020年ごろじゃないかと思っています。
 コンピュータの世界では、バーチャルな世界と私たちが住んでいるリアルな世界とはいままで何の関係もなかった。これじゃあ、使えるわけがない。バーチャル世界の流儀をみんなが理解しない限りね。そこで、私たちがバーチャルな世界に入っていくのではなく、むしろ私たちが住んでいるリアルな世界のほうに、コンピュータが来なさいと。それがユビキタスです。
矢野 コンピュータを箱の中から現実世界に引き出すと。
坂村 もしも現実世界を理解するということをコンピュータがやってくれれば、もう少しコンピュータが使いやすくなる。どういうことかというと、「あれ、とってくれない」と言ったときの「あれ」が何をさすのか、我々は大体わかる。それがこの世界での暗黙の了解ですよね。コーヒーを飲もうとしているときの「あれ、とって」は、たぶんお砂糖だろうとわかるわけです。だからこそ、「あれ」「これ」「それ」などという代名詞が使える。
 コンピュータはそういうことをまったくやってくれない。例えば、北緯何度、東経何度の地点に置いてある半径何センチの……と実にこと細かに、正確に指示を出さなければならない。ちょっと指示を間違えただけで、コンピュータは動かなくなる。だから、現実世界をコンピュータが理解してくれれば、ずっと使いやすくなるわけです。
 そういうことを実現しようと思ったら、すべてのものにコンピュータを入れて、現実世界をコンピュータが認識しなきゃいけない。じゃあ何を認識しなきゃいけないかと言えば、まず場所ですね。ほかにも温度、湿度、個人のパーソナルな情報など、リアルな世界に住んでいる私たちに重要なことがいくつもあげられます。そういったことをコンピュータのチップのなかに入れて、相互にやりとりしながら、私たちの社会や生活をサポートするコンピュータシステム総体がユビキタスです。

<この対談は、坂村さんが所長でもあるYRPユビキタス・ネットワーキング研究所で行われた。坂村さんはここでマッチ棒より細いコンピュータとか、オセロゲームの駒のようなコンピュータを見せてくれた。「昔のちょっとしたパソコンがこのぐらいになっている。こういうものがあらゆるものの中に入ってくると、いままでできなかったような応用がいろいろできる」。なお同研究所は産官学共同で設立され、5年かけてユビキタス社会に必要な共通の基盤技術の確立をめざしている>

坂村 ユビキタス・コンピューティングで大切なのはセキュリティ対策です。ネットワーク経由でイタズラされて、お風呂の湯が沸騰したり、家のドアが勝手に開いてしまったりしたら困りますから。セキュリティ対策のために、トロンでは「耐タンパ性」と言って、ハードウェアの中に個人情報を閉じ込めて、その情報を取り出そうとしたら、ハードウェアそのものが壊れてしまうような方法も考えています。トロンは仕様が公開されたオープン・システムであり、このこともまた有効なセキュリティ対策を考えるときに、たいへん重要なことです。



      組込みOSでは世界ナンバーワンのシェア

      「ユビキタスは八百万のコンピュータ」というキャッチは如何


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