矢野 コンピュータで文字を扱うための取り決めが文字コード、正式には符号化文字集合と呼ばれるものだと思いますが、世界中の文字の統一コード「ISO/IEC10646」をめぐる話題から入りましょう。
ISO/IEC10646に含まれている言語はいくつありますか。
小林 文字、(スクリプトといっていますが)と言語は、一対一には対応しないので、一言でいくつと答えるのはなかなか難しいのですが、おそらく100は超えるでしょう。スクリプトとしては、大きくは4つのグループに分かれます。ひとつはラテンアルファベット系で、ギリシャ文字、キリル文字といったバリエーションが含まれます。もうひとつはアラビア語系で、文字は右から書き、数字だけ左から書く。それから漢字。そして、複合音節文字と呼ばれるインド、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーなどで使われている言語です。ISO/IEC10646では、30あまりのスクリプトを規格化しており、国連に加盟している190近い国の言語は、ほぼカバーしているのではないでしょうか。
矢野 それらの言語は、使っている人々が多数を占め、しかも一定レベルの政治的、経済的な力をもった国のものだと言ってもいいでしょうね。それでは、弱小国家、あるいはその国のなかで、さらに独自の文字をもっているような民族の言語はどうなるのか、というのが僕の関心事です。その辺は、実務に携わってこられた小林さんも苦労なさっていると思いますが……。
小林 実はユネスコでinitiative B@bel(バベル)という活動を進めていますが、それがまさにサイバースペースの中でのマイノリティの言語をどうするか、という問題意識に基づいているんです。
矢野 デジタル技術の発達は、少数民族の言語をもすくい上げるだけの十分な能力をもっているはずですが、実際の動きとしては、ともすると力を背景とした、より支配的な言語に押しつぶされ、場合によっては消えることもあり得ます。これはひとつの矛盾ですね。技術が少数民族言語の保存の可能性を提示した瞬間こそが、少数言語消滅の危機であるというのは。
小林 フランス文学者の三浦信孝さんが、『多言語主義とは何か』(藤原書店)という本で「新しいメディアの出現が、言語の多様性を縮退する方向に働く」ということを書かれています。僕にもその実感はあります。
   ただ、ジャストシステムでいま、方言への対応に取り組んでいますが、社会言語学の専門家から「言語は生きているものであり、変わっていくものである」と言われたのが鮮烈でした。言語を変わっていくビビッドなものとして捉え、それにテクノロジーが寄り添っていくのが美しいあり方なのではないか、と僕は思うんですね。
   一方にお年寄りの話す方言があれば、他方に大学のキャンパスなどで若者たちが話す「ネオ方言」もあり、それが新しいコミュニケーションの手段になっているのなら、そういう動きもテクノロジーがキャッチアップしていかなくてはならないのではないかと思います。
   生きて、動いている言語の変化を押しとどめるのではなく、また、ことさらに加速させるのでもなく、テクノロジーが言葉に寄り添っていく、そういう感じが一番ぴったりくるんですね。

矢野 日本でも数年前に、文学者や研究者の間から文字コードに対する批判が高まったことがあります。自分たちが使うのに適した文字が含まれていない、文字コード策定にあたっては、文字を書いたり使ったりする専門家の意見をもっと取り入れるべきだ、といった意見でした。
小林 実生活での人名などの表記のためのルールと過去の文化遺産としての文字の記録。この二つを混同して議論しているところが、問題を煩雑にしていると思います。日本語では、ここ十年ほど、「漢字がたりない」という議論がにぎやかですが、やはり混同がある。
ひとつには、吉田という姓の「吉」は、「士」ではなく下の棒のほうが長いのに、それがないという声、もうひとつは、『高麗大蔵経』などにある文字が含まれていないじゃないかという声。前者は、個人をアイデンティファイする名前をどう表現するかという問題であり、後者は文化遺産としての文字をどう厳密に記録するかという問題です。この二つは、目的でも、技術面でも、かなり異なった問題です。
 唐突ですが、ちょっと、コミュニケーションについて考えてみてください。矢野さんは、僕が矢野さんのおっしゃることを全部理解していると思いますか。
矢野 僕が言わないことまで理解しているんじゃないですか(笑)。
小林 適度に理解し合い、適度に誤解し合い、時々は思いっきりの誤解もあって、話が飛んだりする……そんなふうにしながら、矢野さんとの会話から刺激を受けて、僕自身がいろんなことを考えている。相手が変われば、僕も変わる。突き詰めると、コミュニケーションとは、いわゆる「共同幻想」だと言えるのではないか。互いに理解したと思って、コミュニティが成立しているんだけれども、本当に理解しているかどうかは、厳密には証明不可能ですよね。
   言語によるコミュニケーションとは、実は危うい基盤の上に成り立っている。文字コードも同じで、そうした限界が前提なんです。そのなかで、できるだけお互いの誤解を少なくしよう、場合によっては誤解の幅も決めておこう、ということですね。ところが、幸か不幸か、テクノロジーが普及していく過程で、初期の文字コードが想定していなかったような、使い方の広がりが出てきました。
矢野 それが文字コード批判につながっていると。
小林 はい。文字コードは一定の取り決めのもとにつくられてきたものである。それを超えたコミュニケーションをしたい、創造的な仕事をしたい、というのなら、自らその取り決めをずらすくらいの気概があっていいのではないでしょうか。
   「ここに漢字があるが、自分は新しい意味を盛り込むんだ」とか、「自分の概念は、従来の漢字では表現できないから新しい漢字を作る」といった意欲、道具としての符号化文字集合を、自分は自分なりに使い、自らの想像力が普遍性を獲得していく過程で、文字コードも変えていこうという発想があっていいのではないか。我が師でもある村上陽一郎さんが言うように、我々の文化はコミュニケーションが本来もっている「incommensurability」(インコメンシャビリティ、同じ尺度で比較できないこと)という性格のうえにつくられてきたものであり、これからもそのはずだろう、と思うのです。
   それを認めた上で、共同幻想とはいえ、お互いに意志疎通が可能な部分と、あえて共通部分から意図的にずらしていく部分とを自覚的に使い分けていく必要がある。



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