矢野 国際的な文字コードとして、公的なISO/IEC10646とは別にユニコード(Unicode)があり、しかもこの二つは、事実上同じものです。ユニコードは、アップルコンピュータ、マイクロソフト、IBM、ゼロックスといったアメリカのコンピュータ企業が中心となって作り上げたデファクト・スタンダード(事実上の標準)で、それがISO/IEC10646として公的基準に採り入れられたわけですね。
    小林さんはジャストシステムの代表として、ユニコード・コンソーシアムの正式メンバーとなり、一方でISO/IEC JTC1/SC2に対応する日本の委員会の委員となられて、その結果として、ISOの統一コードづくりにもかかわってこられました。
小林 ユニコードの国際会議であるIUC(※)は、アメリカ西海岸、日本、ヨーロッパ、香港などいろんな場所で開催されますが、僕は、ジャストシステムがユニコードのメンバーになった1996年に初めて出席しました。
    議長だったIBMのリサ・ムーアが僕を立たせて、「熱烈歓迎!ジャストシステム」みたいな紹介をしてくれ、温かい歓迎を受けました。コンピュータによる組版システムのテフ(TeX)を開発、僕らのような世代にとっては神話上の人物ともいえるドナルド・クヌース(スタンフォード大学教授)が基調講演をし、しかも他の人の発表に対しては、僕の3列前の椅子から「ああしたら、こうしたら」と意見を出しているじゃないですか。彼と同じ空気を吸っているのが夢のようで、感動したことを思い出します。
    ユニコード・コンソーシアムの技術委員会であるUTC(※)で驚いたのは、この会議が、ISO/IECに対応するアメリカのナショナルボディ(国の団体)であるNCITS/L2(※)と合同で行われていたことです。通訳を通して、「ユニコードは国際的なコンソーシアムで、L2は合衆国内の組織のはずだ。私は、日本のジャストシステムの代表としてこの会議に出席しており、ユニコードの意志決定には参加できるが、合衆国の意志決定にはかかわれないはずだ」とおずおず発言すると、メンバーが異口同音に「タツオ、指摘してくれてありがとう」「今まで気がつかなかった」「これからはUTCとL2の意志決定をはっきり分けよう」と、感謝の発言をするじゃないですか。これにも驚きました。
    帰国後、この話を社会学者の水越伸さんにしたら、「小林さん、それですよ。それがパックスアメリカーナですよ」と。パックスアメリカーナ、つまり自分たちの技術に絶大な自信をもち、世界に貢献しているという汎アメリカ主義ですね。そういう言葉があることを、僕は初めて知りました。
矢野 他人のために率先して働き、そのために勉強もするし、能力もある。そして、善意でもある。しかし一方でこれが、自国本位の発想になったり、一方的な押しつけになったりするんですね。
小林 それはアメリカに限らず、僕自身を含めて日本人の中にも、中国人にも、ヨーロッパ人にもある観念ではないか、とも思いました。水越さんには、もうひとつ、「小林さんはディアスポラ的だ」と指摘されました。「日本人が国際的な舞台に参加すると、妙に迎合したり、変に拒絶的になりがちだが、小林さんは彼らとの違いをはっきり認識しているし、また、日本に帰ってきても、問題意識を持ち続けている。そういう人はこれまであまりいなかった」と言ってくださり、ちょっと嬉しかったですね。
    彼が言う「ディアスポラ的」とは、言葉本来の意味での離散ユダヤ人のことではなく、精神的に祖国を喪失しながら、移った先でも居場所をもたないような状態をさしている。イギリスの社会学者ステュアート・ホールの自伝的なインタビューに、「あるディアスポラ的知識人の形成」(『思想』第859号、1996年1月号所収)というのがあります。ジャマイカ生まれでイギリスで教育を受けるが、滞在中に母国がイギリスから独立してしまう。イギリスではジャマイカ生まれの異邦人であり、故郷ではエスタブリッシュメントになった裏切り者と言われる。僕は、そういう居場所のない状態にいる「ディアスポラ的存在」である、と。
    僕は小さい時にカトリックの洗礼を受けていて、日常的に外国人の神父と親しく接してきました。そういう環境のなかで、日本人としてこの国にレギュレイトされているという意識のほかに、カトリック信者としてバチカンという、ある種の国家組織のなかで生きているという意識をもってきました。国際環境にすんなり入り込めたのも、そういった二重国籍的な意識が背景にあったと思います。
矢野 多国籍企業、地球規模の企業で働く情報技術者の役割を「ディアスポラ的情報技術者」と関連させて、どこかでお書きになっていましたね。
小林 UTCの主要メンバーは、アップル、IBM、マイクロソフト、オラクルといったアメリカ企業の人たちですが、その過半数はイミグラント(移住者)の第一世代です。僕は、そこに飛び込んで、だんだんに気づいたんですね。彼らは生まれたときからアメリカの市民権をもっている人と比べて、よりアメリカ的になろうとしているのではないか。アメリカにやってきて、世界の冠たる企業に勤めたがために、その技術を信じ、それを支えているのは自分だと過剰な自負を抱く傾向があるのではないか。それは、自分のレゾンデートル(存在理由)をしっかりもつための、無意識の防衛であり、共同幻想であるかもしれません。
    また、L2にしても、ユニコード・コンソーシアムにしても、そこにアメリカという国家の実態があるわけではなく、それは、アメリカに本拠をおく企業の集合にすぎない面がある。そう考えると、企業に軸足をおく彼らは、本当はすごく不安定な状態にあるのではないかとも思えてきます。
    一方、僕の友人で、日本国籍を持ちながら、米国サン・マイクロシステムズに勤めている樋浦秀樹さんという情報技術者がいて、彼は、サンに席を置きながらも、オープン・ソースの世界で大活躍しているし、ISO/IECの会議には米国の代表として出席したりしている。だからといって、彼が日本や日本語を捨てたなんてとんでもなくて、一般の日本人よりもずっと意識的に日本語を含め、世界の言葉や文字のことを考えている。僕には、樋浦さんのような技術者こそが、矢野さんがおっしゃった国家や企業の利害からこぼれ落ちるマイノリティのためのソリューションを提供できる可能性を持っているように思えます。このような一群の、まだまだ少数ではありますが、技術者たちを、ディアスポラ的情報技術者と呼んでいるのです。

IUC…International Unicode Conference
UTC…Unicode Technical committee
NCITS/L2…the National Committee for Information Technology Standards L2

矢野 国際文字コードづくりに関して、例えば、ミャンマーの文字を登録するにあたっては、多くの人々の協力で素晴らしいものができたが、一方、カンボジアでは、実状を知らない欧米人が勝手に作ってしまい、いろいろ不都合がある、何とかしてほしいという声があります。
小林 カンボジアに関して言えば、作った側としては、「パックスアメリカーナ」が背景にあるとはいえ、ベストを尽くした。文字コードは、人間が作るものである以上、残念ながら、いまあるものが完璧だとは言えないわけです。欠点があるのは仕方がないでしょう。
 文字コードが国際規格になったということは、それが人類全体の共有財産になったということです。自分たちがネイティブ・スピーカーとして使っていたものだからといって、それを勝手にいじることはもはやできないので、ルールとして受け入れてもらうしかないわけです。
 ただその上で、たりないものについては喜んで変えましょう、急いで変えるために最大限の努力もしましょう、というのが我々のいまのスタンスだと考えています。カンボジアでの批判を、非常に単純に図式化すると、多くの矛盾としがらみを抱えながら内部から改善を図ろうとしているグループに対して、歴史的経緯も状況も把握しないグループが、単純な正義感と正論を振りかざして異論を唱えているというふうに捉えられるかもしれません。
 彼らの批判は、文字は国のものだという発想に基づいているように思います。
UCS(※)にクメールを追加することを決定したISO/IECの会議に、さまざまな事情で、カンボジアの代表は参加できなかった。そもそも、カンボジアは、ISO/IECの投票権を持つ会員ですらないのです。我々ISO/IECの当事者にはISO/IECの投票権がないのだから口出しするな、などという発想はあろうはずもありませんが、だからといって、必ず当事者国が参加しなければ、文字コードの国際規格を定めてはならない、ということにもなりません。僕は、彼らの意見に対して、2つの点で承伏しかねます。
 1つは、言葉は国のものではないということです。ネイティブ・スピーカーのもの、人間のものだというのはもちろんですよ。日本語に例をとれば、それは日本国籍をもっている人だけのものではなく、海外に移住した人や、外国人として日本語を学んで日本国籍を獲得した人たちのものでもあるわけです。同じことがカンボジアの言葉にも言えるでしょう。
 2つ目は、いったんできたルールは変えない方がよいということです。言葉はコミュニケーションの手段であって、先ほども申し上げたように、符号化文字集合は、異なる言語や異なる思想、誤解などの塊です。同じ日本語を話していても、誤解が起こる可能性は高い。それを最小限にとどめるには、いったんできたものを認め、変えないこと。限界があることをわきまえた上で共通の基盤に立って話をしないと、ディスコミュニケーションの塊になってしまう。
矢野 大事なのは、オープンであることです。
小林 そうです。オープンにしてできたものだから、間違いがあった場合は技術的な整合性を考えながら直していく、あるいは、たしていく。そういう方向でやっていきたい、というのが僕らの考えです。
矢野 文字コードをめぐる議論にも、「国」という仕組みのほころびが反映しているように思われます。
小林 そうですね。先ほどのディアスポラ的技術者の話に戻りますが、企業と国家を重ね合わせたようなところでしか仕事しないというのは、もはや古い枠組になりつつある。新しい技術者の例としてあげたいのが、Linuxを開発したリーヌス・トーヴァルズというフィンランドの青年です。この人が「自由に使っていいよ」とポンと公開したものが世界じゅうに広がり、それをサポートする人がたくさんでてきた。
 国や企業といった枠組を越えて、ある種ディアスポラ的状況をポジティブにとらえるような、そういうメンタリティが出てきているんじゃないでしょうか。文化人類学の今福龍太さんが朝日新聞に書いたサッカーに関するエッセーを読んで、そのことに思い当たりました。今福さんは大のサッカーファンなんです。フランスのナショナルチームは、いわゆるラテンフレンチがいなくて、アフロフレンチがほとんどですよね。旧植民地からの移民がフランス国籍をもっている。彼らはふだんは世界各地のチームにいて、ワールドカップのときだけ「フランスだ」と集まってくる。彼らのそういう動きこそ新しいディアスポラのあり方ではないか。ラモスも、曙も、中田やイチローも、ディアスポラ的スポーツマンでしょう。だったら、ディアスポラ的技術者というのがあってもいいだろうと思うようになったんです。
矢野 文字コードに対する小林さんの基本的な考え方がよくわかりました。
小林 文字コードの標準化に携わる人間の一人として、地球上のすべての人びとが育んできた言語の多様性を、IT技術が損なうのではなく、むしろそれをいっそう豊かなものに育てる方向に寄与したい。それと同時に、それらの技術を通じて、人びとが相互に尊重し、理解し合えるようになることを願っています。そのために少しでも努力していきたいと思っています。

UCS…Universal Multiple-Octet Character Set、UCS、ISO/IEC 10646、符号化文字集合としては、Unicodeも同等



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