矢野 メディア界はこの数年、既存のマスメディアと新しいパーソナルメディアが乱立し激変しています。それはおもしろい反面、混乱とも言える状況です。
 水越さんはメディア研究者として、東大大学院の情報学環での授業やユニークな実践活動を通じてメディアの現場に身を寄せてこられました。最初に以前から提唱しておられる「ソシオ・メディア論」についてお聞かせください。
水越 「ソシオ・メディア論」という言葉を僕が最初に提唱したのは、1996年初頭に出版した『20世紀のメディア@エレクトリック・メディアの時代』(ジャストシステム)での巻頭論文でした。1冊の本を責任をもって編むのははじめての経験でしたが、巻頭に全体を束ねる論文が必要だろうと考え、そのなかで一種のキーワードとして掲げました。
 そこで言っている「ソシオ・メディア論」というのは、メディアやメディアの社会的な影響を、従来のように技術の進化に軸足を置いて考えるのではなく、ダイナミックにうごめく日常生活の網の目の中で見ていこうという考え方です。
 あの本では吉見俊哉さん(東京大学助教授)の「複製技術とイメージを消費する社会」、佐藤健二さん(東京大学助教授)の「話すということをめぐって」、ドイツ文学の原克さん(立教大学教授)の「エレクトリック・バナナ計画」などユニークな論文を収載しています。それらの筆者が共有している同じような視点を「ソシオ・メディア論」として表現したわけです。
矢野 「ソシオ・メディア論」は水越さんの造語ですか。本を出す過程で「ソシオ・メディア論とははこういうものだ」いう筆者たちの合意が形成されたのですか。
水越 そうですね。ただ、日常生活や社会という織物を内在的に捉える、あるいは歴史的にみるという考え方は僕のオリジナルではありません。歴史研究や文化研究、社会学では以前から共有されている考え方です。
 僕があえて「ソシオ・メディア論」という言い方をしたのは、特別な意図があったからです。大きく分けると二つあって、一つには従来、メディア研究というと、技術論が先行して社会という網の目のうごめきに着目した研究は非常に少なかったこと。技術論が8割方を占め、僕らのような考え方は2割といった比率です。これは日本に限りませんが、僕はあえて誰もやらない分野をやろう、逆サイドに走って旗を立てておく必要があるのではないかと考えたわけです。
 もう一つの意図は、僕らが社会のうごめきの中にいる以上、僕ら自身の考え方や分析の視点も、そのうごめきの中に飲み込まれながらやるべきだという自覚を表明したかったことです。「水越さんがやっているのは文系のメディア論ですね」とよく言われます。しかしふつう、文系の研究というのは物事を分析したり、文献を調べたりという作業が中心で、成果をもとに何かをデザインしたり、プロデュースしたりすることはほとんどありません。教育学部や経営学部の中には学校の先生と協力して授業カリキュラムを作ったり、新しいタイプの会社やNPOを立ち上げる、あるいは地域貨幣のための具体的な方策を考えるという活動をしている方はいます。しかし、文化論や社会学、歴史学といった分野では、ほとんどそういうことはせず、各自のテーマに沿って現象や歴史を批判的に読み解くのが研究活動の中心です。
 僕はメディアの歴史の研究をやっているときから、それだけでは物足りないと思っていました。もし自分が何かおもしろい知見を得たのならば、現在の混沌としたメディア状況の中にそれを還元していきたい。僕の研究対象が古典文学なら別にそうは思わなかったでしょうが、いま研究中のインターネットも、テレビも、新聞も、僕の目の前にある。目前にある対象を研究するということは、ダイナミックな網の目の動きに僕自身が乗っているとも言えるわけです。
 『20世紀のメディア』を刊行した時よりも、最近はもっと現実に働きかけ、メディアを組み直す作業をメディア論の一つとして提示したいと考えるようになりました。改めて考えると、僕が言い出した「ソシオ・メディア論」は、思った以上に門構えが広くて、その中ではメディア実践論、メディア表現論が大事な部分を占めていることがわかってきました。

矢野 「メディア・ビオトープ」の実践活動もその一環ですか。
水越 おっしゃるとおりです。これは生物学で言う「ビオトープ」という言葉を、メタファー(暗喩)として使った概念です。「ビオトープ」という言葉自体は、100年ほど前にドイツで提唱された造語で、「生き物の棲息に適した小さな場所」ですね。
 例えば、池のほとりやかやぶき屋根、石垣の隙間、山奥の廃屋、都市に残る神社の境内や里山など、広大な自然保護区でもないし、盆栽のような人工的に作られた自然でもない、その中間にあって、雑多な生き物が生息する小さな生態系のことを指します。一つひとつのビオトープを大切にすれば、そこに動植物が行き交いながら生き物同士のネットワークが生まれる。そういうふうに、点から面へ、生物の多様性を維持・展開していこうという考えです。
 「メディア・ビオトープ」もまさしく同じです。テレビのキー局や大新聞社に代表される巨大メディアを人工的植林された大きな樹木、ケータイなどのプライベートなメディアを盆栽的な自然として捉えれば、僕が言う「メディア・ビオトープ」はその中間的な存在です。僕たちが日常生活の中でかかわれる規模のメディア生態系をいままで以上に多様化しようという発想から「メディア・ビオトープ」を提唱しています。
矢野 池や小川といった生態系を再生させるのと同じことを、メディアの世界でやろうというわけですね。
水越 日本では明治以降の大衆新聞、NHK、戦後の民間放送などが巨木としてそびえていて、巨木中心の精緻な生態系を作り、下草も生えないような状況だった。しかし情報化、グローバル化が進んだいま、だいぶ様相が変わってきました。新しいメディア生態系が生まれつつある。マスメディアという巨木の森には倒れた木があったり、その倒木が腐って、そこからいろいろな植物が芽吹くこともある。あるいは、別の種類の木と共存するという生き方も出てきています。
 生物学で言う「ビオトープ」の概念は、大きな地域の生態系を改善するのではなく、トンボ池を作るといった程度の小規模な話です。そして小さなビオトープを、うまくネットワークしていく。一つひとつはちっぽけでも、それらがクモの巣状になることで、ちょっとやそっとではなくならないように仕組んでいくわけです。同じように、自分たちの身のまわりで起こっている事象を結びつけながら、少しずつメディアの生態系を回復していこうというのが僕の考えです。
 「メディア・ビオトープ」については、近いうちに紀伊國屋書店からスケッチブックのような本を出す予定です。僕はスケッチブックに絵を描きながらものを考えることが多いんですが、この例え話も絵本にしたほうがわかりやすいんじゃないかと思っています。
矢野 小さな実践を積み重ねていくと。
水越 「メディア・ビオトープ」は例え話、隠喩の体系です。現実の問題と結びつくかたちで展開している「ソシオ・メディア論」、あるいはその一部であるメディア実践論やメディア表現論をわかりやすく表現する物語として、「メディア・ビオトープ」と言っている。「ソシオ・メディア論」という門構えを作った以上、次に中身を作る必要があった。そこに一種の物語性を与えようとしたわけです。



      キメラ的な先生と院生でつくりあげる「結界」

      毛色の変わった研究が認められる余地

      ネットワークでつながれた多様なメディア共同体づくり


戻る



月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]