矢野 人類の課題について、次のようにも書いておられます。「これからの時代において、人間が人間としての尊厳を維持し続けることができるかどうかは、ネットワーク空間を知の場として利用することのできるだけの知恵をユーザーである人間が持ち続けることができるかどうかにかかっていることは間違いない」と。私の「サイバーリテラシー」という考えとオーバーラップするところです。
夏井 近代の西欧の考え方は、「合理的な人間」という存在が大前提です。デカルトが言うように「人間は合理的な存在である」から、合理的に判断する能力をもっていると。いまだに法律史というのはデカルト時代の考え方で作られていて、とくにアメリカの法律はそうです。人間は合理的にできるはずだから、合理的に判断しなかったことに対しては責任を負う。あるいは、合理的に判断するように努力しなさい、勉強しなさいと言うわけです。
 しかし、人間はそういう人たちだけではない。もっと弱い人たちもたくさんいるし、私自身も弱い部分はたくさんもっています。どんな人間でも、すべての要素について100%十分な能力をもっているわけじゃなくて、それぞれデコボコですよね。「サイバーリラシー」にしても、すでにその能力をもっている人もいるし、これからもとうと思えばもてる人もたくさんいる。どんなに努力してももてない人もいるでしょう。そのなかで、サイバーリテラシーをもちたいのだがもてないという弱い立場の人たちに対して、どう対応したらいいのかが問題です。合理的な人間で構成される政府なり立法府としては、そういうことも含めて「合理的」に考えていかなければいけない。
 私は弱い立場の人たちを過剰に保護する必要はないが、強い立場の人たちだけを基準にしたシステムづくりや、社会づくりを考えるのも良くないと考えています。インターネットはあくまでも画像の世界で、それを享受できる人の世界ですよね。音声自動読み上げや自動点字プリンタなど補助的な技術も開発されていますが、あくまでもベースは「見る」という作業が中心です。果たしてそれでいいのか。「見る」機能を失った人でも、五感のどれかをつかってネットの世界に触れることができる統一的な仕組みを考え出せないか。同一のデータから、音や絵や文字になったり、触感を刺激したりするものに切り替わるようにできたら、すばらしい。それがインターネット本来の使い方だから、こういう仕組みを基準にせよ、という法律をつくることはできると思いますし、法律ができたらそういう技術開発もできるという面もあるでしょう。
 また、知識はあっても主張できないという意味で、弱い人もたくさんいるでしょう。場合によっては差別の問題が含まれるかもしれない。そこを法的な問題として捉えるとすれば、インターネット上で、客観的に不合理な抑制や差別するものは許さないというルールをつくることは可能でしょう。いずれにしろ、サイバーリテラシーに関するルールと技術は可能な限り身につけていくべきであるのは事実です。と同時に、そうしようとしてもできない人のことも考えて、スタンダードを決めていく義務がある、というところに集約されるでしょう。

矢野 人類は生きていくためにはどうしたらいいのかを真剣に考えなければならない岐路に立っている、とも書いておられます。
夏井 ナショナリズムや文化とは何だろう、ということをもう一度考えるときが来ているということです。自分たちの文化が独自だと誇っていた国が、実はそうでないというのも見えてきたし、これまでの文化を維持しようと思っても維持できなくなることも含めて、あらゆるシステムが変わってきています。
 インターネットは英語を使えなければアクセスできない。だから、嫌でもみんな英語を使うようになる。普段はこのことに無自覚で当たり前のように受け止めていますが、それが本当に当たり前なのかも考えてほしいですね。圧倒的な支配力をもっているのは英語だから、英語のコンテンツが世界のいろんな経済政策や国家政策に影響を与える可能性もあります。私も、どうしてもフランス語やドイツ語よりも英語のコンテンツのほうから見てしまう。それほど英語の支配力は強い。人間の知的活動の根本をなす言語のレベルから大規模な変動のなかに突入しているのが今日の姿です。
 もう1つ、法律のルールということ。例えば刑罰法令というのは何か。利益を得るために存在する。殺人罪でいえば、処罰するのが目的ではなく、人の生命を守るためにある。処罰という威嚇を加えながら、人の生命が無駄に失われないように存在しているわけです。そういうわかりやすいものは、たぶん世界中共通でしょう。しかし、そうでない法律、例えば宗教的な事柄や文化的な事柄を含むような刑罰法令は、その国では当たり前でも、よその国の人々から見たら「変だな」と思うような法律もある。
 インターネットはそういうことを提供し見せてしまうメディアです。だから国によっては、ある種の国家不安を発生させる要素にもなる。アフガニスタンではインターネットの使用が禁止されていたようですし、現在でも東南アジア諸国のいくつかでは、インターネットは原則的に禁止されています。しかし通信衛星を使ってインターネットに接続でき、太陽電池で電源をとれるようになれば、電線やケーブルがなくても、電話がつながらなくても、インターネットが見られる。そういった動きを止められるか。ベルリンの壁崩壊が、西側のテレビ番組が国境を越えて東欧に入ったために加速されたのと同じ状況がインターネットを通じて起きる可能性があります。
 また、ある国の経済政策や国家政策を国の代表者や権力者が決めた場合、これまではすぐにリアクションできなかった。しかし、ネットの発達で、いまなら翌日には別の国の政府がコメントを送ってきたりする。インターネットを読めば、だれでも評論家になれるし、そこから別の国の世論が生まれる可能性もある。いままでは何となく自分たちの国で、自分たちが見渡せる人たちを相手にしていればよかった国家運営も、そうではなくなってきています。ほかにも、いろいろな国のシステムが変わらざるを得ないでしょう。
 私がよく言っていることがあるんです。例えば刑法。これを私は経済政策そのものだと捉えています。なぜなら、どういう犯罪にどういう処罰を与えるかということは、その国に投資をして企業活動をする外国企業にとっては、自分たちの権利がどのように守られるかという尺度の1つになるのです。どのような刑罰法令があるかは、その国のランキングを決めるかなり重要な指標です。それは刑法だけではなくて、あらゆる法律に共通して言えることで、税法もそう。法律そのものが、その国での投資効果が高いか少ないか判断するための大きな要素として機能するのです。これはいままで考えられなかった。しかし、インターネットなら膨大な法令集を手に入れなくても必要なところを見られるから、どんどん分析できてしまう。そういう意味で法律システムそのものが、その国の経済的な価値や投資価値を判断する重要な要素になっていくのです。
 こうした状況のなかで生きていくには、法律システム自体を世界のスタンダードに近づけなければいけない。すでに会計システムでは現実に起きています。国際的な方法にのっとっていない監査基準はだれも信用しない。同じことが法律の世界にもどんどん波及してきています。
 法律というのは、まさに国家システムの重要な部分です。しかし、現在、私たちの住んでいる世界では、自分たちの意志だけでルールを決め、自己充足、自己完結できない側面もあります。そう考えると、これまで「民主主義」という言葉は、実は「ナショナリズム」と同義語として使われていたのではないか。限定された領土的な範囲内で住民が自治的にやるのが民主主義だと勝手に思っていたんですよ。しかし、これからは全員がコスモポリタンにならなければいけない。そういう重大な岐路に立っているという意味なのです。

矢野 そういう点で、日本の電子署名法のあり方は国際的基準からずれていると。
夏井 そうです。日本の電子署名法は、電子署名を作成したり、本人を確認したり、電子署名がほんものかどうか検証するという別の機能を1つの個人や機関がやるという前提でできています。しかし現実の電子署名システムは、RA(Registration Authority 登録機関)だけやるところとか、CA(Certification Authority 電子認証機関)だけやるところとか、実際にはバラバラです。そういうところが、日本の電子署名法の適用対象外になってしまう。
矢野 夏井さんも言っておられるように、基本的人権の尊重を最優先義務とする厳格な対応が求められますね。
夏井 システムをどう構築し、どう運用するかにかかっています。例えば、政府は住民基本台帳のデータベースを基盤とした国民の認証カード(スマートカード)を配ると言っていますが、それもやり方をよく考えないと、政府がすべての秘密を管理することにつながる。ところが、だれもそれを指摘しない。私はICカードを配るのはかまわないが、どんな方式にするかは、全部オプションとして国民が自分で選べるようにすべきだと主張しています。暗号技術にしても、PGP(Pretty Good Privacy)を使いたい人はPGPを使えばいい。秘密鍵は自分だけが選択できるようにしないとだめです。
矢野 問題を指摘していくことが大切だと思います。現在は、あまりにも次から次へいろいろな問題が出てきて、それを追いかけるので精一杯。システムをつくるほうも、全体的な戦略があってやっているわけではない。基本的なことが見えないままに場当たり的な解決策を探っていくうちに、世の中全体が息苦しいものになっていく気がします。『電子署名法』の最後で、「汝自身を知れ」という言葉を紹介しているのは?
夏井 自分でよく考えなさい、ということに尽きるということです(笑)。たしかにネット技術には幻惑的な効果がある。ネット技術を使えば何かが拡張されるのですから。使っているうちに、ネットから切り離された自分のピュアな能力も拡張されたように錯覚してしまいます。でも、自分は変わっていない。結局、自分の何を拡張させようとしているかという点が大事で、しかもそれを拡張したほうがいいのか悪いのかという根源的な問題もある。拡張しようと思っても拡張すべき何ものももっていない場合もある。本来いろいろな問題が含まれているのです。
 「自分はいったい何者か」、「自分がこれまで平穏に暮らしていられたのはなぜか」、ということをよく考えたうえで、ツールとしてネットをどう使っていくか方針決定をしないといけません。ネットビジネスをはじめれば、それだけでビジネスチャンスが生まれそうだと思ってやるとえらいことになるよ、ということです。もともとネットを使っているのは人間で、人間を置いてきぼりにしたネットを考えること自体、自己矛盾になってしまう。ネットでどの程度のことができれば満足するか、それでいいのかという根源的な問いを、もう一度考えてみましょうということです。
矢野 夏井さんのサイバー法は、新しい法哲学とも言えますね。
夏井 実はそれを狙っていたりして(笑)。もともと法哲学は、最初は神学の一部でした。西洋では教会法しかなかったから,キリスト教の神様が述べる法とは何だろうと考えるのが法哲学の原点だったんですね。しかし、現実世界では王様が布告を出したり、代官が命令を出したりするものだから、そういうのも法律の一部と考えるようになった。そういう神様の世界の法律と地上の法律の両方を考える人が必要になって、法解釈学へと分離した。そのうちもっと幅広く「ルールとは何か」を考えることで、法哲学が生まれたのです。
 しかしそれらはあくまでも現実世界の「物体」を対象とする法律が対象で、サイバー空間はなかったわけです。サイバー空間というのは、複製可能だし、ある1つの機能を拡張することができる世界だから、この空間で起こる現象は従来の考えでは想像もできない。そういう視点で「ルールとはいったい何か」ということを、もう一度考え直さないと世界全体を統一する法哲学は存在しないことになります。
 現実世界の法哲学については、すでに多くの法哲学者が考えてきました。しかし、いま言うような新しく拡張された世界で通用する法哲学者は、まだいない。私には、現実世界で偉い法哲学者がたくさんいる領分を侵そうなんて不遜な考えはまったくなくて、サイバー空間だけやりましょうと言ってるんです(笑)。でもそれは、結局は、世界全体を考えているのと同じことになるかもしれませんね(笑)。
矢野 サイバー法は法哲学と見つけたり(笑)。「サイバーリテラシー」にふさわしい格調高い講義をどうもありがとうございました。

『電子署名法―電子文書の認証と運用のしくみ』
夏井高人著 リックテレコム 2400円
電子署名と電子文書を素材としながらサイバー法の世界を紹介する一般向けの解説書。電子公証人制度などの具体的な運用例を踏まえ、裁判での電子署名の取り扱いなどについても基本から解説。

『インターネットの法律実務』(新版)
岡村久道・近藤剛史著 新日本法規出版 5200円
インターネットをめぐる法律問題に関する最も詳しい実務書。座右の書とすべき1冊。

『サイバースペース法―新たな法的空間の出現とその衝撃』
サイバーロー研究会・指宿 信編 日本評論社 3800円
内外のサイバー法研究者の研究論文を集成している。サイバー法の重要問題を知り、その理論構成を考えるための好著。

『電子商取引とサイバー法』
平野 晋著 NTT出版 2800円
電子商取引に関連する米国の法律・判例を中心に、サイバー空間での法的紛争とその解決をわかりやすく説明している。

『暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで』
サイモン・シン著、青木薫訳 新潮社 2600円
コンピュータやネットワークの発達と暗号技術との関わりを歴史的事件を踏まえて解説する興味深い書。サイバー空間で起きる法律問題を深く理解するための必須の書。

『CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー』
ローレンス・レッシグ著、山形浩生・柏木亮二訳 翔泳社 2800円
サイバー空間における規律のメカニズムについて、興味深い考察を展開してい る。

『Q&Aインターネットの法務と税務』
夏井高人・岡村久道・掛川雅仁編 新日本法規出版 10500円
Q&A方式で書かれたインターネット上の法律問題と税務に関する網羅的な解説書。

『ビジネスマンのためのインターネット法律事典』
藤田康幸とLCネット編 日経BP社 2400円
項目別に事典方式で構成されたサイバー法解説書。一般向けにわかりやすい解説をしている。




      『電子署名法』を通してサイバー法を解説
      システマティックな「インターネット基本法」が必要

      サイバー法はあらゆる法の分野に及ぶ
      サイバー空間の深さと広がりを理解する

      「サイバー法研究会」と「法情報学研究会」
      おじいさんになっても「インターネット原住民」!
      サイバー空間は現実世界

      現実的になってきた「ネットワーク・サンクション」
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