矢野 僕は1980年ごろにはじめて河口さんのCG(コンピュータ・グラフィックス)に接して以来、ずっと作品を拝見しているんだけれど、小林一茶の「五十年見れども見れども桜かな」というのによく似た感慨をもちます。いつも新鮮な感動を受けるのだが、一方で、ずっと同じものを見てきたという懐かしさですね。コンピュータの発達でCGそのものの精度というか、描き出せる世界は格段に進歩したわけだけれど、あなたはずっと同じこと、1つのものを追及してきたように思いますね。それは「無から有をつくりだす」、「作品に時間軸を取り入れて、成長させる」試みと言っていいですか。
河口 ええ。これまでのアートは、例えば画家なら、海や山、人物、静物など「そこにあるもの」をデッサンし、描き出すわけですよね。ところがCGの場合、コンピュータを使って計算すれば、何もない無の状態から、どのような世界でもつくり出すことができるんです。現実にはないもの、自分が想像する世界だってつくれる、宇宙の果てまで描ける、というのが魅力です。
 僕は種子島で生まれ、ロケット発射センター(種子島宇宙センター)の近くで育ちました。小学校時代、ロケットの打ち上げがある日には、「皆さん、校庭に出ましょう。南の空を見てください」と、校内放送があった。みんなで教室を出て、空を見上げた光景を、いまも鮮やかに思い出します。宇宙ってどんなだろう、僕も宇宙に飛び出したい、という強い感情をもちました。でも宇宙は、行きたくても簡単には行けない。だけど映像空間の中にリアリティのある生命惑星をつくれば、自分が宇宙の果てに行ったのと同じような体験ができるんじゃないか、といった漠然とした思いがぼくをコンピュータ・グラフィックスに向かわせたのかもしれません。
矢野 少年時代の心象風景が、創作の原動力になったわけですね。福岡市にある国立九州芸術工科大学に進学するときから、アートとコンピュータは結びついていたのですか。
河口 いえ、なにをやるのかわからずに入ったようなものです。昔も今も、芸術大学や美術大学に行こうというのは、親不孝の見本みたいなものでしょう。田畑を切り売りして親が仕送りしても、結局、子どもは帰って来ないというのが定説で(笑)……。国公立の芸術系大学に行くしかない状況だったので、九州芸術工科大学に映像・画像の学科があると知って、とりあえず受験したんです。
 CGに出合ったのは、2年か3年のときでした。大学には、映像・画像のほかに音響、環境、工業デザインと4つのコースがあって、寮や隣近所の友人たちが自分とは違うことをやっている。そういうごった煮のなかで、大学生活を送れたのはとてもよかった。種子島の海と山しか知らず、信号機も見たことがなかった純朴な僕が、突然、最初の1年間で、世の中にはこんなにおもしろいことがあるということを、ガーっと吸収したわけです。
 アメリカ文化センターに通って実験映像を見たりしながら、アメリカの最新アート状況も知りました。僕も小型8ミリカメラで、木の葉や木目のアップとか、水面に反射する光の紋様などを撮って楽しみました。自然界のさまざまな表情を、造形として捉えたかったんですね。映画研究会の部長もやってました。
 さあ卒業研究というときに、運のいいことに、グラフィックスペースつきのコンピュータが、大学に初めて入りました。当時、日本には数台しかないもので、これまでに撮影した自然界のクローズアップを、このコンピュータでつくって卒業研究にしようと思い立った。プログラム言語を勉強し始めたのもそのときからです。
 ごく初期のコンピュータですからディスプレイが丸く、立方体の線を描いても線同士がずれてつながらないこともあった。それでも自分がプランニングした画像がCRTモニターに現れたときは感動しました。線画で描いた立方体がグルッと回り、変形しながら動く。コンピュータというサイバースペースの中で、絵が動くというのはすごいことでした。無から有を生成した最初の感動でしたね。これからは、コンピュータを使えば時間そのものがアートになるだろうという予感ももちました。「時間を造形化する」という僕のテーマが、だんだんはっきりしてきた時期です。
矢野 75年に大学を卒業して、東京の大学院へ進みました。就職はしなかった?
河口 CGをもう少し続けたかった。「田畑は絶対に売らなくていい、自力で何とかするから、あと2年ちょっと時間をくれ」と親に電話しました(笑)。それで、ビジュアルデザインのコースがある東京教育大学(現筑波大学)大学院に進みました。そこで通産省(現経済産業省)の工業技術院を紹介され、午前中は都内の大学院、午後は川崎にあった工業技術院研究室でコンピュータに向かう毎日でした。人の2倍の生き方をするわけですから、それは大変でした。

河口 工業技術院には工業デザインの出原栄一先生がおられて、僕を「珍しい人が来た」とおもしろがり、可愛がってくださいました。僕がみんなと同じようにグラフィックデザインを動画にしていたところ、出原先生が「ちょっと待て。君はせっかく種子島という珍しい土地から来ているんだから、東京に染まってはいけない。自分のユニークさを捨てて、だれもがどこでもやっているデザインをやってもおもしろくない」とおっしゃって、やり方を変えることになりました。
 出原先生は、既存のアートやデザインのパターンを踏襲するのは、CGをやるうえである種の弊害があると考えておられたんですね。せっかく種子島で育ったのだから、僕の個性を徹底的に見直し、そこから表現の仕方を模索していくことが最も価値があると。それで、「ザ・種子島」でいこうと(笑)。コンピュータの世界で生き延びるには、根っこに独自の個性をもっているほうが絶対いいだろうということだったんですが、ほんとうにそのとおりですよね。
矢野 河口さんの作品には、海草や巻貝など、海の世界が色濃く表現されています。それが、海に潜って魚を採っていた少年時代を反映した「ザ・種子島」かな(笑)。
河口 コンピュータというのは、0と1の二進法で計算することで、無から有を生み出せる計算機です。70年代半ばのあのころは、今みたいにさまざまなツールを使ってCGを描くのではなくて、計算によって映像をつくるしかなかった。形のアルゴリズム(算法)を自分で設計しなくては、と思ったとき、カラフルな魚がいっぱい泳いでいる「ザ・種子島」の光景が浮かんできました。自然界はさまざまな表情を見せるけれど、その造形の基本には渦巻やらせんがあるのではないか。子どものとき憧れた銀河星雲も渦巻だし、海で生まれる巻貝もらせん形をしている。そして、「らせん形は等比級数だ」と気づいたんです。らせんという形が、自然や宇宙を構成する美の基本原理だという確信と、らせん形を等比級数として表現できるのなら、数理的な発想でアートをつくれるだろうという確信ですね。
矢野 種子島の巻貝は、河口さんの原点ですね。
河口 最初は形のないものが、時間軸に沿って生成=ジェネレートされていく。成長するにつれて形がどんどん変化する貝の姿は、時間の歴史を刻み込んでいる過程である。これはまさに無から有を創造していることであり、「時間の造形化」にほかならない。この点に気がついて、僕の考えるCG作品「グロースモデル」は、まさに巻貝のように成長によって形ができあがっていく生命体であると定義できた。巻貝が原点、そのとおりですね。
矢野 コンピュータ・グラフィックスの世界の状況からみても、河口さんの挑戦はとても新しいものだったと思います。
河口 当時、NASA(米航空宇宙局)をはじめとするCG制作者のほとんどは、自動車や飛行機の各部分を測定してデータを打ち込んで簡単な線画をつくっていました。あらかじめ打ち込んだデータをもとに自動製図で作成するのだから、そこにはクリエイティブな要素はない。ただ、寸法を測ってそれをシミュレートするだけですよね。しかし、僕のテーマは「時間の造形化」だから、無からなにかを生み出すというクリエイティブな要素がどうしても重要だったんです。
 ところが、巻貝などの増殖系のCGをつくるなどということは、普通の美大や芸大ではだれもやっていないことで、CGをやり始めたことによって、僕の70年代は暗黒の時代になってしまいました(笑)。大学院では、アルゴリズムのことを説明してもわかってもらえない。逆に教授たちから「芸術に数学を持ち込むとは言語道断」「異分子だ」と言われ、「芸術をやるのに、どうして数学的なことを探るのか」と問題にすらなった。ゼミで名指しされ、「芸術に数学は必要か」と、水と油の論議ばかりしていました。
 僕自身、巻貝をやっていても先が見えなかった。これをやって何になるんだろう、世の中に出たときにこれで食えるのか、と不安になりました。工業技術院でも、「せっかく大学院の美術系に入っているのに、どうしてコンピュータで巻貝をつくっているんだ」と(笑)。理解してくれたのは、ただ1人、出原先生だけ。東京芸大や武蔵野美大から来ている研究生たちも、手作業が主流ですから、「仲間たちは絵を描いて展覧会をやっているんじゃないの」っていじめるし(笑)。当時のコンピュータは色も出ないわけで、説得するのがけっこう大変でした。
矢野 それでもとにかく続けた。
河口 精神的には地獄でしたね。工業技術院にしても、国がデザインに肩入れする時代は終わった、あとは民間でやればいいと縮小方向でしたし、僕がいくら真面目に研究しても職員になれるわけではなかった。将来が見えないなかで、76年、77年は悶々としていました。



      79年のSIGGRAPHシカゴ大会で開眼!
      マンデルブロ教授は「フラクタル5人衆に入れ」と言った。

      アーティストよ、「強い遺伝子」を持て!
      ブロードバンド時代は得意技で勝つ!

      サイバー上の生命体「ジェモーション(Gemotion)」。
      狩猟と創造は紙一重。


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