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東浩紀さんプロフィールへ 未来をよりよいものにするガイドライン情報社会論の新たな枠組みを模索する:東浩紀さん 矢野直明プロフィールへ

ここ数年、情報社会に対する鋭い考察を矢継ぎ早に発表している哲学者、批評家の東浩紀さんは、この分野における若手の旗手である。教授・主幹研究員として席を置く国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)で2004年10月から「情報社会の倫理と設計についての学際的研究(ised@glocom)」プロジェクトを立ち上げた。大きな枠組みのもとに情報社会の姿をとらえようとしている東さんや若い仲間の活動について聞いた。

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Parat1 「情報社会の倫理と設計」プロジェクト

まず20代と30代の仲間で議論

Part2 ネットとブログで再生したコミュニティ

ネット上にない情報は存在しないも同然

Part3 現代の権力は「環境管理型」に変化

言論の統制は政治以外で起きる

Part1 「情報社会の倫理と設計」プロジェクト

矢野

東さんの情報社会に対する発言にはかねがね敬服してきましたが、今日は情報倫理プロジェクトや急速に普及しつつある新しい情報ツール、ブログ(Weblogの略、ウエブログとも呼ぶ)など具体的な話を中心にお聞きしたいと思います。まず国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)で始められた「情報社会の倫理と設計についての学際的研究 Interdisciplinary Studies on Ethics and Design of Information Society」プロジェクト(略称「ised@glocom」プロジェクト、以下ised)から。

いまの情報社会をめぐる論議はビジネスと政策が中心で、あとは技術的な視点が加わるぐらいで、人文科学的もしくは社会学的視点が少ないと感じています。僕としては従来の社会学、哲学、思想の文脈の上に、いままでの情報社会論の蓄積をうまく接続し、過去との差異を明らかにしつつ、情報社会論という学問領域の輪郭をはっきりさせたいと思っています。例えば「情報倫理」と言ったとき、いままで言われてきた倫理とどこが違うのかということですね。
 そのためには、いろいろなタイプの人びとが顔をつきあわせながら、自分の情報社会論はこうだということを議論し続け、情報社会論とはこんなことを問題にしているのか、立場が違うとこれほど意見も違うのかということを明らかにする必要があると思います。それがisedの目的です。これから1年半かけて、12人のメンバーやモデレーターなどのスタッフとともに14回の議論をおこない、来るべき情報社会論の問題点と対立点をイメージとしてつかめればと思っています。その作業が終われば、次のステップとして情報社会論の必読教科書やガイドブックなどもつくれるかもしれません。

矢野

日本には情報社会論を研究するような機関がほとんどありませんね。実はGLOCOMも技術的、ビジネス的な色彩が強く、どちらかというと産業寄りで、社会学的分野が手薄だと思っていたので、そのGLOCOMからisedのようなプロジェクトが立ち上ったのにはちょっと驚きました。僕が提唱しているサイバーリテラシーも情報社会論的なアプローチなので、このプロジェクトにとくに強い関心をもったわけです。

まだ僕が勝手にやっているという段階ですが、2003年にGLOCOMに入った当初は、確かに自分の考え方との乖離を感じました。その後、1年経ってようやく接点が見えてきたところです。
 情報社会論について議論するには、どうしても世代的なギャップがありますね。isedで参加メンバーを20代と30代に限定したのも、それ以上の世代とはライフスタイルが違うからです。日常的にネットやWinny(ファイル共有ソフト)、2ちゃんねる(日本最大の電子掲示板)、ケータイなどを使っている人が語る情報社会の言説が、スタート時点では必要だと考えたのです。全体に学問的な訓練を受けている人ほど頭が固く、とくに人文系・社会科学系の研究者はネットリテラシーが低い。モデレーターをやってもらっている鈴木謙介君(GLOCOM研究員)は僕より5歳年下で、初めて会ったときは26歳でした。社会科学系で僕よりネットに詳しい人に会ったのは鈴木君が初めてだと言っていい。それほど貧しい状態だったんです。
 この2、3年で状況は急速に変わっていますが、98年に初めて本を出したときなんか、出版社の編集者でもメールアドレスをもっていないのが普通でした。それどころか、インターネットは自分たちの敵で、怪しい存在だと思っていました。産業界はITバブルでしたが、文化を担っていると言われている人たちはほとんどインターネットに冷淡で、産業界と対照的でした。しかし今の若い世代は最初からインターネットやケータイを使っている状態で、社会学や哲学の世界に入ってくる。だから人文社会系とITの対立が成立しない。そういう感覚をもっている人たちと議論をしたかったんです。

まず20代と30代の仲間で議論

矢野

たしかに若い人文系研究者はネットを当たり前のように使っており、そうしたメンバーに絞った方が、新しい潮流を浮き彫りにできるでしょうね。そこで一定の知見を築き上げ、徐々に広げていくという考えですね。
 isedはエポックメーキングなプロジェクトだと思いますが、一方で僕は世代間のギャップということに強い関心があります。梅田望夫さんがブログで「ネット世代とPC世代を分ける『インターネットの隠れた本質』」というコラムを書いています。
 彼によれば「PC世代」というのは、ネット以前からパソコンに親しんでいる「古い常識をまとっている世代」であり、「ネット世代」というのは、いきなりネットに参加した若い、「インターネットの隠れた本質みたいなものを身体で理解している世代」だというんですね。両者の違いは「ネットの向こうにいる不特定膨大多数への信頼の有無」ではないか、と彼は言っている。
 これはこれで興味深い指摘だと思うが、それはさておき、デジタル技術の急速な発達と普及が、パソコンやインターネットというツールへの接触度を世代ごとにかなりはっきり分け、それが感性の違いになって現れているのはたしかですね。この区分によれば、僕などさしずめPC世代の最古参で、まさに「古い常識をまとっている世代」の典型ですが、高齢者大国日本には「PC以前世代」も多数存在し、しかも彼らはインターネットへの接触時期で言えば、「ネット世代」と同じ場合がけっこうある。さらには、生まれたときからサイバースペースに接する世代(子どもたち)がこれから続々と登場、彼らは彼らでまた、私たちには想像もできない感性をもつようになるでしょう。
 僕の概算によると、15歳〜29歳のネット世代が人口全体の19%、30歳〜59歳のPC世代およびPC以前の世代が合わせて42%。両者を足すと約60%で、このうちの7割がネット人口だと推計すると42%になります。一方、0歳〜14歳の子どもが14%、60歳以上の非PC世代が26%です。つまり、PC世代とネット世代をあわせて42%、それ以外が58%で、未だ国民の半数以上は自発的にネットを使っていない。この人たちのリテラシーをどうするかというのもサイバーリテラシーの関心領域です。
 ネットワークのコミュニティが、ともすると世代横断的に組織されがちなことを考えると、世代縦断的な組織の再構築など、社会全体を束ねるための工夫が、より一層重要になると僕は思っているんですね。それは企業などの大組織も、官庁も、NPOも、それぞれができることを個々に実行しながら、しかも相互に連携をとりつつ推進すべき一大事業になるはずです。

日本は高齢者が多いので、20代〜30代中心で物事を考えてはいけないと承知しています。しかし、どんな議論にしろ、すべての人が均等に理解し興味をもつことはあり得ません。2002年に『中央公論』で「情報自由論」という連載を始めたとき、電子掲示板という言葉にも注をつけろと言われたものです。それでも『中央公論』は内容は理解してくれた。他の論壇誌には、「インターネットは真面目にものを考える人が扱う対象ではない」と相手にしてくれないところもあったんです。今ではもう違いますが。そういう経験があったので、今回も、まずは、国家や社会について考えている人間が、同時に2ちゃんねるやケータイを使っている姿を見せることが大切だと考えました。
 誰もがわかるような形で情報社会論の議論をすれば、論点が拡散してしまうおそれがある。だれでも分かるように、という配慮ばかりをしたら、例えば、「2ちゃんねるのスレでもそういうツリってあるじゃないですか」という発言があったとして、「2ちゃんねる」「スレ(スレッド=掲示板上の一つの話題のかたまり)」「ツリ(議論のなかに嘘を交えたネタを投じて場を盛り上げる行為」のすべてに注をつけないといけない、ということになる。これでは議論になりません。そして、インターネットに関する問題の場合、そのジャーゴン(専門用語)はたいてい若い人の方がよく知っている。もちろん、こうした議論に参加できる40代以上の方もいる。GLOCOM代表の公文俊平氏もそのひとりです。しかし、やはりどうしても世代的な偏りがある。そこは率直に認めて、まずは20代〜30代を中心に議論を始めたほうがいい、という判断です。ですから、この布陣は、単に議論を刺激的でスピーディにするための配慮であって、世代間格差をあおるものではありません。それに、isedの人たちが20代〜30代の意見を代表していると言ったら、彼ら自身がいやがるでしょう(笑)。

個人と集団の倫理が必要

矢野

それに異論はまったくありません。ただ、そういった議論から生まれたものを広く伝えていく必要がある。一般の人びとが理解できるような形で情報提供すべきで、それが編集者としての僕の役割でもあると思っているわけですね(笑)。
「情報倫理」の話に移りましょう。僕は情報倫理を「情報社会の生き方」といった広い意味でとらえていますが、デボラ・ジョンソンというアメリカの応用倫理学教授が『コンピュータ倫理学』という本で「コンピュータ倫理学の使命は伝統的倫理の空白を埋めるもので、これまでの倫理の新種あるいは変種である」といったことを述べています。
 僕自身の考え方もこれに近い。IT社会でも受け継がれるべき伝統的な倫理は急速、かつ大々的に失われつつある。一方で新しい倫理は生まれていない。そういう中で、技術と法が先行して肥大化しているのが現在ではないか。私たちがIT社会を豊かで快適なものにするためには、そこでの個人の生き方を考え直さないといけない、それを「情報倫理」として考えたいと思っていたところに、タイミングよくisedプロジェクトが登場してきたというわけです。

倫理と道徳は違います。isedは、電車のなかでケータイの電源を切るべきかどうかとか、小学生でもチャットをやっていいのかどうかとか、そういう話はあまり行いません。
 僕は「倫理」とは、人々に生き方を強要するようなものではなく、一種のガイドラインのようなものだと思っています。それには個人単位のものと集団単位のものがあります。たとえば、isedの部会には、韓国でポータルサイトを運営している金亮都(キム・ヤンド)さんに入ってもらっています。それは集団単位の倫理を議論したいからです。
 いまは日本でも韓国でも中国でも、ナショナリズムの動きが雪崩式に拡大している。それはときに強い政治的意味をもってしまい、外交を悪化させることもあります。重慶で起きたサッカーの日本チームへの誹謗中傷でもインターネットが一役買いました。たとえば、こういったインターネットのもつポピュリズムを加速する性質をどうコントロールするか、という知恵も一つの「倫理」だと思います。それが「倫理」という言葉にそぐわないと感じるならば、あまり倫理という言葉にこだわらなくてもいい。要するに、情報社会をよりよいものにするガイドラインを議論したいのです。
 メンバーの白田秀彰さん(法政大学社会学部助教授)は著作権の専門家、高木浩光さん(産業技術総合研究所グリッド研究センターセキュアプログラミングチーム長)はプライバシー問題に詳しい。各分野の専門家が議論する中で、新しい情報技術を使って人びとの意見を集約し、それをどのように全体の意思にしていくのか、新しい方法論を考えるべきだと思っています。これまではいくら専門家が議論しても、うまく政策に反映できませんでした。今後、そうしたことを含めた議論がおこなわれるはずです。
 ヘタに倫理という言葉にこだわってしまうと道徳の話に落ち着いてしまう。たとえば、インターネットで悪いことをしないように一人ひとりを教育しようということになる。これは、情報社会論にきちんとしたディシプリン(学問領域)がないからです。isedでは、安易な結論を出す前に、まず議論を通して問題点と対立軸が明らかになればいいなと思っています。
 すでに行われた1回目の議論では、鈴木さんが「サイバーリバタリアン(自由至上主義者)とサイバーコミュニタリアン(共同体主義者)、サイバー保守主義者」といった対立軸を提示しました。情報社会をどういう方向に導くかということでも、いくつかの立場があることを示していければ、議論の蓄積の上で次に進むことができます。いまはそのための地ならしをやっているようなものです。

矢野

僕も倫理という言葉を使いつつ、厄介な言葉だとも思っています。道徳との絡み、道徳や倫理を声高に叫ぶ人のいかがわしさといった問題もある。「情報社会をよりよいものにするためのガイドライン」はその通りだと思いますが、ちょっと長い(笑)。新しい言葉がほしいですね。

Part2 ネットとブログで再生したコミュニティ
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