食料品の統制は解除されたものの、多くのメーカーは
サッカリンやアミノ酸醤油といった合成調味料を使っていた。
そんななか本醸造醤油と砂糖を十分に使って仕上げた「江戸むらさき」の味は
大評判となり、翌年には前年比2.37倍の売上げを達成。
幸先の良いスタートであったが、いかんせん売れすぎた。
というのも、当時「江戸むらさき」の製造はほとんどが手作業。
材料を入れた大釜を、大きなしゃもじでかき回しながら煮込み、
でき上がった佃煮を1本1本瓶に詰め、ラベルを手貼りする。
「これでは、とうてい間に合わない」と、現社長の小出孝之(当時専務)は、
釜の攪拌と半自動充填ができる「コンベアシステム」の導入を決断した。
ところが、この機械化に反対の声が上がる。
工場長をはじめ、古くからの従業員が「機械なんか信用できない」というのだ。
そこで、孝之は「従来のやり方と機械とで競争しよう」と提案。
女子社員8名で作業する従来組と、充填機と作業者1人の機械化組との瓶詰め競争だ。
結果は、もちろん機械化組の圧勝。
56(昭和31)年の機械化で、1日50〜80ケースが限度だった日産数量が、
300ケースへと飛躍的に増大。「江戸むらさき」を桃屋の基幹商品にするきっかけとなった。
「江戸むらさき」が発売されて10年。
時代は高度成長経済にさしかかり、庶民の生活にもゆとりが見えてきた。
よりおいしいものをとのニーズに応え、63(昭和38)年、「江戸むらさき特級」を発売。
鰹節のだしをふんだんに使い、みりんも加えて、贅沢な“大人の味”に仕上げた。
続いて、シリーズ第3のヒット商品となったのが甘口の「幼なじみ」。
当初、甘味のある海苔の佃煮を作ることに対して、
社内で「今でも十分に甘口。これ以上甘くする必要があるのか」と反対の声が上がったが、
発売してみると、お年寄りから子供まで多くのファンを獲得。時代は甘さを待っていたのだ。
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