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ニッポン・ロングセラー考 Vol.124 雛人形

1835年 創業

株式会社久月

女の子の健やかな成長と幸せを
雛人形に託して179年

お江戸の名物「雛祭り」、武士を捨て人形師になった初代

画像 天児

幼児の守りとして枕元に置いた形代(かたしろ)の一種「天児(あまがつ)」。幼児を襲う災いやけがれをこれに負わせた。

画像 雛市の様子

十軒店(じっけんだな、今の日本橋室町)に立った雛市のにぎわいは、「江戸名所図会」にも描かれている。

画像 寛永雛

「寛永雛」は男雛12cm、女雛9cm余りの小型の雛人形。髪は冠と共に黒塗りで、髪を植える技法が開発される前の作品。

画像 享保雛

大型で豪華な「享保雛」。面長の顔立ちで二重描目の写実的な表情をしており、装束は金襴(きんらん)や錦を用いていた。

「人形の久月~♪」…、年が明けると早くも、テレビからおなじみのCMソングが流れ始める。2月中旬まで、節句人形店は1年を通じて最も華やかな時期を迎えるのだが、東京・浅草橋にある久月本店にも所狭しと雛(ひな)人形が並ぶ。金屏風(びょうぶ)に緋毛氈(ひもうせん)、そして美しく着飾った人形たち。そこには雅な宮廷絵巻のひとコマが再現されている。

雛人形、その起源には諸説あるが、平安時代の「ひいな遊び」と「身代わり信仰」が結び付いたものといわれている。
「ひいな遊び」または「ひひな遊び」は、紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』にも出てくる言葉だが、紙や布で簡単に作った人形や身の回りの道具類を模した玩具を使って遊ぶ、今でいう「ままごと遊び」のようなものだった。そして、「身代わり信仰」とは、心身のけがれや災いを人形(ひとがた)の形代(かたしろ)に移し、それを川や海に流すことによって祓(はら)い清めるという民間信仰を指す。
幼女の遊び道具としての人形と、形代としてのひとがた...、雛人形が「遊び」と「信仰」の両面を持っている点は興味深く、普通の人形と一線を画するところといえるのではないだろうか。

雛祭りが年中行事として普及したのは江戸時代。江戸の春に欠かせない名物となり、雛人形や雛道具を扱う店が並ぶ雛市が立つようになった。雛市で売られる雛人形も、江戸初期・寛永(1624~45年)のころに作られた「寛永雛」は小型だったが、享保年間(1716~36年)になると、どんどん大きく豪華になり、高さ40~70cmのものも登場。この「享保雛」は、時の幕府からぜいたくすぎるという理由で、しばしば取り締まりを受けるほどだったという。

そんな江戸も後期、久月が産声を上げる。初代・横山久左衛門が人形師「久月」の看板を掲げたのは、1835(天保6)年のこと。久左衛門は武士を嫌い、両刀を捨てて、40歳にして雛人形を作り始める。長年の夢をかなえ人形師になったものの、好きな人形作りばかりをしているわけにはいかず、子どもの玩具を作って生活を支えていたそうだ。

芸術家肌の父の下で修業をしていた2代目久兵衛は、自分の息子を人形・玩具の大問屋、吉野家徳兵衛の元に奉公に出す。「これからは商い」と、先を見越しての決断だった。わずか10歳で大店に奉公に上がった3代目久兵衛は才覚に富み、二番格の番頭にまで取り立てられていく。27歳の時にはのれん分けで吉野屋の屋号を名乗ることを許され、吉野家久兵衛(屋号:吉久)として、浅草茅町(現在の浅草橋)で人形問屋を始めるまでになった。


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いざなぎ景気を背景に、豪華八段飾りを発売

画像 久月の看板を掲げた蔵造りの店舗

昭和初期の店舗は3階建ての土蔵造り。看板の文字は浅草蔵前の華徳院の住職でもあった書家・豊道春海の揮毫(きごう)による。

画像 1975年頃に発売した八段飾り

「七段に載らなければ、八段にすればいいじゃないか」という6代目の号令の下、作られた豪華八段飾り。

画像 テレビCM

久月の名を全国に広めたテレビCM。写真は1983(昭和58)年当時のもの。

時は明治、老舗大問屋仕込みの商法を幼いころから伝授された4代目久兵衛は、弱冠23歳で店を継ぎ、初代が創業時に掲げた「久月」という屋号を復活させる。掛け値販売が習慣だった人形業界で、他に先駆けて正札販売を取り入れるなど、先見の明のある経営者だった。そして大正時代、5代目の正三は木目込人形の大衆化に成功。木を削る代わりにオガクズにのりを混ぜて型に入れ、固めるという手法で量産化を図った。

戦前の久月は満州まで販路を広げるが、敗戦でそのすべてを失ってしまう。本店のある浅草橋一帯も空襲で焼け野原となるが、久月は奇跡的に焼失を免れた。1950(昭和25)年には組織を株式会社化し、社長に就任した6代目の華久郎は米軍に日本人形を納入することで、戦後の急場をしのいだという。

雛人形が本当の意味で庶民のものになったのは戦後。1960年代半ばから70年代前半、いざなぎ景気と呼ばれた好景気を背景に子どもの出生数が増加した、いわゆる第2次ベビーブームが起こり、雛人形市場も活況を呈する。一気に注文が増えたはいいが、雛人形はすべて手作りでパーツも膨大な数に上るため、逆に注文をさばき切れなくなった。そこで考え出されたのが、七段飾りというセット商品。いろいろな人形をバラバラに売るのではなく、「お勧め商品」としてセット化することによって点数を絞り込み、大量注文に対応したのだ。

1971(昭和46)年、久月は業界で先駆けてテレビCMを打ち、冒頭でも紹介したサウンドロゴ「人形の久月~♪」を茶の間に浸透させた。6代目は、人形専門店としての伝統を守る一方、このテレビCMをはじめ、新しいことにも果敢に挑戦する柔軟な発想の持ち主だったようだ。七段飾りが主流だった1975(昭和50)年ごろには、「三棚(さんたな)」※1という道具や三歌人※2を加えた、久月オリジナルの八段飾りを発売。「大きいことはいいことだ」という時代、業界の掟破りともいえる八段飾りは、特に地方でよく売れたという。
※1 三棚:高貴な女性の嫁入り道具とされた棚で、御厨子(みずし)棚・黒棚・書棚から成る。
※2 三歌人:菅原道真、小野小町、柿本人麻呂の3人の歌人。


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少子化対策の切り札は節句文化の振興

画像 リカちゃん

2004(平成16)年、株式会社タカラトミーとのコラボレーションで作られた三段飾りの「リカちゃん雛」。現在も親王飾りで販売中。

画像 雛の詩の三人官女

オリジナルブランド「雛の詩(うた)」では、平安三賢女(右から、清少納言、小野小町、紫式部)を三人官女に配した。

画像 「ワダエミ監修 久月作 衣裳着 木製三段飾り 五人揃 御大礼雛」。

「ワダエミ監修 久月作 衣裳着 木製三段飾り 五人揃 御大礼雛」。伝統的な束帯装束黄呂染(そくたいしょうぞくこうろぜん)の親王と官女の表着には正絹有職裂地(しょうけんゆうそくきれじ)を使用。

七段飾り、八段飾りが売れた1960~70年代はまた、核家族化が進んだ時代であり、1975(昭和50)年をピークに出生率も下がり始める。これらは人形業界にとってはマイナス要因だが、久月は持ち前のチャレンジ精神で生き残りに賭ける。

競合他社の追従もあり、段飾りやテレビCMによる差別化が難しくなると、人形そのものの付加価値を高めることに注力するようになった。例えば、1988(昭和63)年にはデザイナーズブランド、ハナエ・モリと提携、1996(平成8)年には三人官女に平安三賢女(清少納言、小野小町、紫式部)を配したオリジナルブランド「雛の詩(うた)」を発売。さらに、世界的な衣装デザイナー、ワダエミ氏や他業種である株式会社タカラトミーとのコラボレーションなど、次々に新しいスタイルを打ち出していく。ちなみに、ワダエミ氏とのコラボレーションのきっかけは、黒澤明監督の映画「夢」に登場する雛人形の製作を久月が手がけたことだという。

現在、雛人形は、作り方の違いから「衣裳着(いしょうぎ)人形」と「木目込人形」に分けられ※、種類としては「段飾り」、親王と三人官女、雛道具から成る「三段飾り」、男雛女雛のみの「親王飾り」があるが、売れ筋は流通や地域によってかなり異なるそうだ。例えば、久月のような人形専門店では三段飾りが主流だが、売り場面積の小さい百貨店では親王飾りが、さらに量販店では三段飾りや親王飾りを一つの箱にしまえる「収納箱飾り」が人気となっている。
住まいが洋風化したことで座敷のある家は少なくなり、またテーブルや椅子、ベッドといった"片付けられない"家具も増えた。住空間としては今のほうが広いにもかかわらず、コンパクトな雛人形が求められる理由の一つには、こうした生活様式の変化もあるだろう。

雛人形を取り巻く環境は変わった。しかし、今もってなお、雛人形市場が500億円強(一般社団法人日本人形協会算出)の市場規模を維持している背景には、今も昔も変わらぬ子に対する親の愛情がある。少子化が叫ばれて久しいが、久月はそれを嘆くよりも、子どもの成長を共に祝う節句文化を盛り上げていくことのほうが重要だと考えている。そこには人形専門店としての王道を追求しながらも、うち3割は時代に即した新しいことに挑戦するという、進取の気質に富む久月の姿勢があった。
※衣裳着人形は藁(わら)製の胴体に織物の衣裳を着せたもので、木目込人形はオガクズの練り物でできた胴体に溝を彫り、そこに布地の端を埋め込んで衣裳を着せて作る。


取材協力:株式会社久月(http://www.kyugetsu.com/
重陽の節句に「後の雛」

江戸時代、雛人形は非常に高価なものであったため、毎年1体ずつ買い足してそろえていたという。そんな大切な雛人形が傷まないよう、秋に人形を虫干しする習慣があった。旧暦の9月9日、虫干しを兼ねて再び雛人形を飾ることを「後の雛(のちのひな)」と呼ぶ。久月では3年前から「後の雛」の復活に努めており、雛人形を購入したお客さまには、秋にも雛人形を飾ってもらうよう勧めている。また近年、独身女性やシニア世代が自分のために「マイ雛人形」を買う動きも出てきた。写真の木目込人形の立雛は、そのために開発された製品。これを、邪気を祓(はら)い長寿を願う「重陽(ちょうよう)の節句」に合わせ、母親や親類の年長者への贈り物として買い求める人もいるという。

画像 後の雛/古今立雛

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タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治
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