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YKK株式会社の創業者吉田忠雄(1908〜1993)。「他人の利益を図らずして自らの繁栄なし」とする「善の巡環」を経営理念とし、わずか3人で始めた会社を世界のYKKに育て上げた。 |
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務歯(むし)の植え付け作業風景。務歯をテープに固定するエキセンプレス機担当の男子社員を囲んで、女子社員がテープに務歯を植え付けていく。 |
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写真左が手植え作業に使った金属製の櫛とテープ、右が手回しのエキセンプレス機。 |
ズボンやスカートなどの衣料品はもちろん、鞄や靴、漁網や防虫ネットといった産業用まで、あらゆる分野で使われているファスナー。ファスナー業界にあって、国内市場の実に95%、世界でも45%のシェアを誇るのがYKKだ。世界2位、3位のシェアはわずか7〜8%ずつなので、今やほとんどのファスナーがYKKといっても過言ではないが、この世界ナンバー1の地位はどのように築かれたのだろうか。
YKKの創業者吉田忠雄は、20歳の時、貿易商になる夢を胸に富山県魚津から上京。中国陶器やファスナーの輸出入を手がける会社に勤めるものの、会社は4年足らずで倒産。吉田は在庫品のファスナーを引き取り、1934(昭和9)年にサンエス商会(吉田工業の前身)を立ち上げる。その後、江戸川区小松川に工場を建て、さあこれからという時に工場が空襲で焼失。魚津に疎開し再起を図る中、終戦を迎えた。
戦後、昔の仲間が次々に復員し、魚津工場が軌道に乗り始めた47(昭和22)年の夏、東京営業所に一人の米国人バイヤーが訪ねて来た。吉田は、5ミリ10インチの自信作を見せ1本9セントでどうかと持ちかけるが、一笑に付されてしまう。何とバイヤーは自分の持っているものを7セント40で買わないか、と言うのだ。
商品を見て、吉田は青くなった。機能、デザインともに比べものにならないほど優れていたからだ。吉田はこの時のことを後に「……アナがあったら入りたいとはこのこと。まったく目から火が出るような思いがしました」と振り返っている。
当時、日本のファスナーは手作り。まず、金属線から務歯(むし)と呼ばれる細かい歯を打ち抜く。テープ地を金属製の櫛で挟み、務歯を櫛の目に一つ一つ収め、それを手動のプレス機でかしめるのだ。一方、バイヤーが持ってきた米国製ファスナーは、務歯の打ち抜きから植え付けまですべて機械で製造されたものだった。
安価で高性能な米国製ファスナーが入ってきたら、日本のファスナー業界は壊滅的な打撃を被るに違いない――吉田は危機感をつのらせた。
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