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リポビタンD ニッポン・ロングセラー考 人々にファイトを与え続けて40数年"ドリンク剤文化"創出の先駆者

ブームの最中、男はさらに一歩先を読んでいた

上原正吉氏 「商売は戦い」のポリシーで経営を行い、65年に及ぶ努力で大正製薬を押しも押されもせぬ大衆薬メーカーに育て上げた故・上原正吉氏。財界人としてだけでなく、参議院議員としても活躍した。
 
リポビタン液 同社初のタウリン入りアンプル剤としてヒットした「リポビタン液」。60(昭和35)年発売。
 
発売当時のリポビタンD 発売当時のリポビタンD。ポリエチレン製のキャップは、つまみを引いて開けることから「ポンキャップ」と呼ばれていた。価格は150円で、現在と変わらない。
  高田第6工場
  発売当初、リポビタンDを生産していた高田第6工場。現在は本社社屋のある場所。
   

仕事で疲れた日の翌朝、お父さんが自宅の冷蔵庫から取り出して飲む1本のドリンク剤。酸味と甘みが程良くブレンドされたその味わいに、世のお父さんたちはいつも元気づけられた。そして背筋をピンと伸ばし、今日もまた颯爽と玄関を出て行くのだった。心の中で「ファイト・一発!」と小さく雄叫びを上げながら……。

ドリンク剤の代名詞的存在として誰もが知る、大正製薬のリポビタンD。2000年度の業界調査によると、100mlドリンク剤のシェアにおいて、リポビタンDはなんと50.8%を占めている。他のリポビタンシリーズの商品を含めると、その数字は60%近い。ロングセラーであり、同時に驚くべきガリバー商品でもあるのだ。ちなみにリポビタンDだけでも生産量は年間約8億本に達し、昨年度末、ついに累計出荷本数200億本を突破。金額ベースでは同社の総売上高約2850億円中、約750億円を稼ぎ出すという。これ程までの巨大商品に成長したリポビタンD、その誕生の背景にはどんなストーリーがあったのだろうか。

リポビタンD誕生の背景には、事実上の創業者とされる第3代社長・上原正吉の斬新な発想があった。大正製薬は戦前の1940(昭和15)年頃から強肝解毒剤のタウリンという成分を研究し、自社製造していた。60(昭和35)年、同社はタウリン、ビタミンを水に溶かした飲みやすいアンプル剤「リポビタン液」(20ml)を発売。この商品は60年代に起こったアンプル剤流行の先駆けとなり、同社のドル箱商品となった。正吉の慧眼は、成功の最中にあってさらに一歩先を読んでいた点にある。彼はブームの真っ只中でこう考えた。
「大正製薬のアンプル剤は味がいいと評判だ。ならば、量を増やして容器を大きくしてみたらどうだろう。薬臭さは薄れるし、もっと飲み応えのあるものになる。さらに味を良くすれば、アンプル剤以上に人々に歓迎されるはずだ」と。

62(昭和37)年、記念すべき初代リポビタンDが市場に投入された。100mlの茶色い小瓶に入ったそのドリンク剤は、既存のアンプル剤よりもタウリン含有量が多く、当時高級感のあったパイナップルをメインにした独特のフレーバーが特徴だった。
商品名「リポビタンD」の「リポ」は脂肪分解を意味する「リポクラシス」から、「ビタン」は「ビタミン」から、「D」は「Delicious」「Dynamic」などの頭文字を由来とする。ラベルの歯車のデザインは、「活力の出るデザイン」「機械化文明」などのキーワードから考え出され、青色は「ドリンク」「清涼感」をイメージして採用された。驚くべきことに、このラベルデザインもまた、基本的には発売以来42年にわたって変わっていない。

 
”型破り”な商品を売るための、”型破りな”販促手法
 

冷蔵ストッカー

発売当時使われた冷蔵ストッカー。牛乳用冷蔵ストッカーを転用したもので、当初お店からは不評を買ったという。

タテ型ストッカー、ワイドストッカー
進化していく冷蔵ストッカー。64(昭和39)年に導入されたタテ型冷蔵ストッカーと81(昭和56)年に登場したワイド型冷蔵ストッカー。
リポDタワー、ヤシの木タワーディスプレー
10本入りの箱をタワーのように積み重ねる独特の陳列法"リポDタワー"。今はドリンク剤だけでなく、あらゆる飲料の陳列法として使われている。(左)
87(昭和62)年当時の「ヤシの木」リポDタワーディスプレイ。 (右)

リポビタンDは従来のアンプル剤とはまったく異なり、"ドリンク剤"という新たな市場を切り開くためのパイオニア商品だった。正吉には成功の道筋が見えていたはずだが、販売の現場を担当する営業マンたちは、売れ筋のアンプル剤を捨ててまでこの新商品を売ることに戸惑いを感じていたという。

まず、当時としては価格が高かった。牛乳が18円、タクシーの初乗りが80円の時代に、リポビタンDは150円で発売されたのである(翌年100円に改訂)。
次に、薬局・薬店の抵抗があった。リポビタンDはおいしく飲んでもらうためには店頭で冷やしておく必要があったが、62年当時、「薬を冷やして飲む」という発想はどこにもなかった。「ならばお店に冷蔵庫を置いてもらおう」と考えた正吉は、営業マンを通じて積極的な販促をかけ、サンヨーの牛乳用冷蔵ストッカーを転用したものを次々とお店に導入していった。
店側からは「うちは牛乳屋じゃない」という反発の声もあったが、導入後は瞬く間に売り上げが上昇。冷蔵ストッカーは数度の変遷を経て、現在も薬局・薬店の店頭を飾っている。"外出先でいつでも冷えたドリンク剤が飲める"という現在のスタイルは、リポビタンDが作ったものなのだ。

10本入りの箱を人の目線ほどの高さに積み上げた"リポDタワー"と呼ばれる陳列法も、同社の熱心な営業マンたちのアイデアによるものだった。
63(昭和38)年、ある営業マンがお店から「たくさんの箱を保管する場所がない」と言われ、試しに店内にリポビタンDの箱を山積みしたところ、売り上げがそれまでの何倍にもなった。この話を聞いた営業マンたちは、リポDタワーを全国の薬局・薬店で展開。店側からは「そんなに高く積めない」という反対もあったが、営業マンたちは冷蔵ストッカーの時と同じように、粘り強くお店を説得していった。
その後はタワーにインパクトのある演出を施し、消費者の注目を集めることに成功。リポDタワーは、"薬局で箱買いし、家族みんなで家で飲む"という新しいドリンク剤の飲み方を定着させたのだった。


多様な消費者ニーズに応え、商品のバリエーション化を推進

   
  リポビタンDスーパー、リポビタンDライト
65年より販売されている「リポビタンDスーパー」(写真左)。リポビタンDの処方そのままにカロリーを74kcalから58kcalに抑えた2000年発売の「リポビタンDライト」(写真右)。
海外のリポビタン
早くから海外進出を果たしたリポビタン。(左から)69年より発売されている、香港の「力保健」、72年発売シンガポールの「LIVITA」、73年発売フィリピンの「LIPOVITAN」。

「おいしく飲めるドリンク剤」というジャンルを切り開いたリポビタンDは、さまざまな規制や激しい競争にもまれながらも順調に売り上げを伸ばしていった。
実はリポビタンDは、発売以来42年間にわたってその中身と価格をほとんど変えていない。処方の改善を数回実施しているだけで、味はいつの時代もほぼ同じなのである。大正製薬はリポビタンDという大きな柱を軸に据え、数多くのバリエーション商品を発売して多様な消費者ニーズに応えていった。タウリン2000mgが特徴のリポビタンDスーパーは65(昭和40)年、ローヤルゼリーを配合したリポビタンゴールドは79(昭和54)年の発売だ。
現在のラインアップは医薬品ドリンクが9種類、医薬部外品ドリンクが8種類の、計17種類からなる。

99(平成11)年、医薬品販売規制緩和によって、リポビタンDは薬局・薬店以外でも販売されることになった。スーパーやコンビニなど新たな販売チャネルが登場した結果、ドリンク剤とは縁の薄かった若い消費者もリポビタンDの効果を実感し、アップグレード品を求めて薬局・薬店に足を運ぶようになった。規制緩和はドリンク剤の市場を今まで以上に活性化させたのである。

リポビタンの市場は国内だけではない。海外のドラッグストアなどでリポビタンDに似たラベルのドリンク剤を目にしたことがないだろうか。リポビタンは日本だけでなく、世界中で愛飲されているのだ。
その世界進出は63年の台湾に始まる(商品名「力保美達」)。現在はアジア、アメリカ、ヨーロッパなど19ヵ国で発売。面白いのは、お国柄に合わせてそれぞれ味を調整していること。南国の商品は甘みを増やし、健康志向の強い欧米の商品は他よりも甘みを抑えているのだ。中には炭酸を効かせたリポビタンもあるという。


記憶に残る、数々の名コマーシャル

王選手のポスター
団塊の世代以前の世代には、リポビタンDと言えば王選手の姿がイメージされるはず。CM出演中の10年間、すべての年で本塁打王を記録した。  
ケイン・コスギ&滝川英治  
規制緩和後のCMメインキャラクターはケイン・コスギ。タレントが画面でリポビタンDを飲めるようになったのもこの頃から。現在は滝川英治とのダブルタレント。

リポビタンDがここまで大きな存在になったのには、もうひとつ大きな理由がある。それが、数々のタレントが出演してきたコマーシャルの存在。リポビタンDと聞いて誰もが、「ファイトで行こう!」と語る王選手を、あるいは勝野洋や渡辺裕之の顔を思い浮かべるのではないか。62年の発売当時から現在に至るまで、リポビタンDの歴史はコマーシャルと共にあったと言えるほど、消費者に与えたインパクトは大きかった。

リポビタンDコマーシャルの歴史は、62年4月からの「巨人軍時代」、73(昭和48)年4月からの「大物俳優時代」、77(昭和52)年12月から現在に至る「ダブルタレント時代」の3期に分けられる。
62年の発売に合わせて登場したのは、実は王選手ではなく、エンディー宮本というハワイからやって来た日系二世の選手。前年の日本シリーズでMVPを獲得した選手だった。63年以降の10年間は、全盛期を迎える王貞治選手を起用。大正製薬は球場のライトスタンドにリポビタンDの大型広告を設置した。王選手がホームランを打つたびにリポビタンDの文字がテレビに映り、続いて画面には汗だくの王選手がリポビタンDをゴクリと飲み干すコマーシャルが流れるという巧みな宣伝戦略。その効果は目覚ましく「王選手がホームランを打つと球場付近のリポビタンDが売り切れる」という伝説が生まれた程だった。

その後、宝田明、高橋英樹を起用した大物俳優時代を経て、今に続くダブルタレント時代へと移行する。最初に起用されたのはテレビで活躍していた勝野洋と宮内淳。男っぽさにあふれた2人が発する「ファイト・一発!」のキャッチフレーズは、今もそのまま引き継がれている。2人の組み合わせは勝野洋(10年間)と渡辺裕之(9年間)が中心となり、その時々のマッチョな若手人気俳優を起用。現在はケイン・コスギと滝川英治のフレッシュコンビが務めている。

発売から42年にわたり、何ひとつ変えることなく消費者に支持されてきたリポビタンD。
それは高度経済成長期の働く日本人を元気づけ、日本に"ドリンク剤文化"を根付かせた、医薬品史上にも類を見ない画期的な商品だった。
今はリタイアしたお父さんたちも、現役世代の若者たちも、きっと忘れることはないだろう。「ファイトで行こう!」というエールを。「ファイト・一発!」というあの雄叫びを。

取材協力:大正製薬株式会社(http://www.taisho.co.jp/

 


自動販売機用のリポビタンDのサイズは違う?

2001(平成13)年3月、大正製薬はアサヒ飲料株式会社と自動販売機による製品販売において提携を結んだ。この結果、アサヒ飲料が直接管理する約2万5000台もの自動販売機にリポビタンDが入ることになった。あまり知られていないことだが、実は自動販売機で売られているリポビタンDの瓶は、普通の瓶よりひと回り大きなものが使われている。もちろんこれは瓶が落下する際、割れないように強度を上げるための工夫だ。ふたつを比べてみるとなかなか面白い。外観は全く同じで容量も同じなのに、瓶のサイズだけが大きく異なっている。

自販機専用瓶と普通瓶
普通瓶のサイズは、高さ120o、胴径45o、重さ113g。
それに対し自販機専用瓶のサイズは、高さ132o、胴径46o、重さ178g。
ガラスの厚さは相当なものだ。


撮影/海野惶世(メイン、プレゼント) Top of the page

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